月夜の屋台でラーメンを
花田縹(ハナダ)
第1話
駅のそばの踏切前で肩を叩かれた。
「美咲」
すっかり肌寒い季節のことだった。夜も22時を過ぎていて、空の高いところで銀色の丸い月がくっきりと浮かんでいた。
「渚?」
振り返ると同級生の渚が立っている。頭上では踏切がカンカンと鳴り響いている。
知っているより随分痩せていたから一瞬見間違えたものの、確かに渚だった。小さな手提げをぶら下げている。コンビニに行くみたいな格好だった。
「なんでここにいるの?」
「いてもいいじゃない」
「だって」
ここは都会から割と近いけど、決して都会ではない二人の地元だ。
渚は数年前に結婚して、飛行機を使っても1時間以上かかるところへ引っ越してしまった。
ここにいるはずのない相手だった。
「もしかして帰省?」
「まあ、そんな感じ」
結婚式以来会っていないし、年賀状のやりとりくらいで連絡はほとんどしていない。だから近況はほぼわからない。それでも、夫の実家にいるはずの渚が地元の駅で夜にフラフラと出歩いているのは不自然だった。
「一人なの? 夫さんは?」
「一人だよ。夫は留守番」
「大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫」
踏切が開いて、渚は歩き出す。
少し丸い背中は大丈夫とは言っていない。
「ダメかもしれない」と、呟いている。
渚と美咲は高校の同級生だった。三年のときクラスが一緒になったのをきっかけにどんどん親密になって、部活を引退してからはほとんど毎日同じ電車に乗って帰っていた。
「懐かしいね」
キョロキョロと周囲を見回しながら踏切の向こうの駅前通りを進んでいく。
「この辺変わった?」
「あんまり変わってないかなぁ」
「でも、帰りによく行ったあんみつ屋はなくなっちゃったよ」
「ほんと?」
角を曲がるとそこにはあんみつ屋の他にもこじんまりとした店があったはずが、今は大型ドラックストアになっていた。
「本当だ」
渚は目を丸くしている。
しかし、知っていた美咲も変わらないくらい驚いてしまった。
それは、ドラックストアの広い駐車場に、赤い提灯のぶら下がった屋台が停まっていたからだ。
「屋台があるのは初めて見たよ」
思わず立ち止まった美咲を置いて、渚は迷うことなく一直線に屋台へ向かっていく。
「えっ? いくの?」
「行こうよ。ラーメン」
渚はそれがさも当然のことのように言う。
「一緒に来て。ね、美咲」
(渚の笑顔はどうして、こんなに寂しそうなのだろう)
美咲はただ心配で、胸が痛くて、ついていくことにした。
暖簾には「月夜のラーメン」と書いてあった。
「こんにちは」
少しもためらうことなく、渚は屋台の椅子に座る。
美咲もそわそわと隣に座る。半ば強引に屋台に付き合うことになってしまったことに落ち着かない。
異空間に迷い込んでしまった気分だった。
「いらっしゃいませ」
奥には中年の男女が立っていた。開店したてなのか、男は客席側に椅子を運んでいて、女はワカメやネギなどのトッピングの入ったタッパーを並べている。
「お待ちしていましたよ」
女のほうが渚に向かって微笑んだ。
「知り合いなの?」
「うん」
渚は美咲の方へ体ごと向き直り、真剣な眼差しを向けた。
「私、ちょっと前に家出したの」
「えっ!」
「その時、空港で具合が悪くなって座り込んじゃって。お二人が助けてくれた。このご夫婦は命の恩人です」
「やだわ」
渚と女は顔を見合わせて笑った。
(なんだ。示し合わせていたのか)
騙されたような、置いていかれてしまったような気分になった美咲に、
「ラーメンでいい?」
と、渚は微笑む。
「……うん」
こんなところでラーメンを食べるとは思っていなかったけれど、何となく断りれそうにない雰囲気に仕方なくうなずいた。
「ラーメン2つ、お願いします」
「かしこまりました」
二人の注文を受けて、屋台の奥へ戻った男が寸胴の蓋をを開け、麺をほぐしながら湯の中へ放り込んだ。モクモクと白い湯気が屋台の中に広がっていくでいく。
女はどんぶりを2つ並べ、スープの準備をしている。その香ばしい油の匂いは食欲をそそる。
男が麺を茹でているのとは違う寸胴から大きなおたまでスープを掬い、どんぶりに入れる。スープの香りが膨らんで押し寄せてくる。
「家出したこと、詳しくきかないの?」
渚が訊ねる。
「きけないよ」
美咲には夫の実家を家出した詳細なんてきけない。
自分にも聞かれたくないことがあったから。
「渚が話したかったら話してよ。何でもきくよ」
「ありがとう」
渚がそう答えるのを聞いて、美咲の胸は後悔でいっぱいになった。
(もっと連絡すればよかった)
家出するほどの悩みがあるなんて知らなかった。
「美咲は?」
「私は何もないよ」
「美咲はずっーと、秘密主義だからなぁ」
渚の目からまた涙が溢れ出す。
「話してくれたらいいのに」
美咲は小さく首を振るしかない。
7年付き合った人と婚約破棄したーーなんて、言いたくなかった。
夫と喧嘩して家出をするにも、美咲にはその相手がいない。夫がいるだけいいじゃないか。そんなふうに卑屈になってしまいそうだったから。
「お二人はお友だち?」
ふと、女が訊ねる。
「はい。高校時代の」
「いいわねぇ。高校時代の友だちと屋台でラーメンなんて。二人は昔何して遊んでたの?」
美咲と渚はそろって首を傾げる。
「何をしてたっけ」
「……そういえば、ハモってたね」
美咲は思い出し笑いを浮かべていた。
「二人でハモってたよね」
「ハモってた?」
「ほら。おいしいハンバーグとか」
「あっ!」
思い出した途端、渚は身を屈め、小さく震えていた。
「……懐かしい」
最初は泣いていると思ったけれど違う。腹を抱えて笑っている。
「おいしいハンバーグってCMだよね」
ケタケタ笑い出した。その顔は高校時代の面影のままだった。
「おーいーしーいーはーんーばーあーぐー」
美咲が歌うと、
「そうそう!」
と、言ってさらに笑い転げる。
高校時代。美咲の渚はこのたった9文字を真剣にハモっていた。休み時間、昼休み、下校中、やたらと歌っていた。
数人で集まって、当時人気のダンスを踊る生徒はいた。それは流行りであり、見栄えが一番であり、多分かわいいやかっこいいを求めていた。
二人はそんなものいらなかった。ただ、レトルト食品のハンバーグのCMソングを二人だけでハモりたかったのだ。誰に見せるでもなく、動画を取るわけでもなく、二人でニヤニヤしながら仕上げていた。相当にくだらない思い出だった。
「息できない」
「苦しい」
あまりのくだらなさに、笑わずにはいられなかった。
その時、再び湯気が漂い始める。
麺が茹で上がったのだ。
男は湯切りをした麺をスープに入れ、渚と美咲をニコニコと見ていた女の前にどんぶりを置いた。
「姫、働いて」
「はーい」
女は流れるようにトッピングをした。
美咲と渚は顔を見合わせる。
(姫?)
中年男性が中年女性に。おじさんがおばさんに。「姫」と言ったのが不思議だった。
「ラーメンできましたよ」
姫と呼ばれた女は出来上がったラーメンを差し出されると、何はともあれ二人はラーメンを食べることになった。
「おあ、おいしそう!」
「いただきます!」
レンゲをスープに沈め一掬い。ゆっくりと口の中へ入れると、塩味と旨味が疲れた体にしみわたる。我慢できず、早速割り箸を割って麺をすすった。
「おいしい」
「ほんと、おいしい」
隣の渚はティッシュを取ると、鼻をかむのではなくて涙を拭いていた。目頭をおさえるのとはわけが違う。薄いティッシュではあふれる涙を拭いきれないほど泣いていた。
「美味しすぎて涙が止まらないよ」
それにしては泣きすぎな気がして、美咲はそっと背中に手を置いた。
「渚、大丈夫?」
「実は、まともにご飯食べたの久しぶりなの」
「どこか悪いの?」
「ううん、ただ食欲がなかっただけ」
ゴシゴシと涙を拭い、渚は再び真剣に食べ始めたので美咲も負けじと箸を進めた。ラーメンはとにかく、とてつもなく、美味しかった。
うまくいかない毎日を、一瞬、忘れさせてくれる。
「ーー戻りたいね」
こぼれるように呟いた美咲の言葉に、渚は小さく頷いた。
美咲の目にも涙が滲んで、二人は誤魔化すみたいに黙ってラーメンを食べ続けたせいで、あっという間に食べ終わってしまった。何だか気まずい。
「あの、姫、なんですか?」
空気を変えたくて、美咲はついつい気になっていたことを訊いてしまった。女はクスクスと笑う。
「そうよ。私は月から来たお姫様で、夫は王子様なの」
「やめなさい」
スープの加減を見ながら、男が姫をたしなめる。
「あら本当のことよ。会いたい人と一緒にラーメンを食べてもらう。満月の夜に。幸せでしょ?」
「離れていても?」
美咲の問いに、女は優しく頷く。
「ええ。強く願えば、少しの間だけなら会える」
「姫、喋りすぎですよ」
ふいに男がたしなめる。
「はいはい。わかりましたよ」
姫は楽しそうに手のひらで口をふさいでみせた。二人は仲の良い夫婦らしい。
微笑ましくもあり、羨ましくもあり、美咲の胸はしめつけられる。
(今の自分には叶えられそうにない未来だ)
★
会計を終えて渚と美咲は屋台を出る。
「おいしかったね」
「うん」
辺りを優しく月が照らしていた。
ふと渚が足を止める。
「ちょっと待って」
ドラッグストアの店先にあった自販機へとフラフラと近づき、飲み物を買った。
「はい」
渡されたのは温かいお茶だった。
「ありがとう、美咲。久々に楽しかった」
渚はあの頃と同じ笑顔だった。受け取ったお茶は美咲の手のひらの中で温かい。
「私も」
美咲だってあんなに笑ったのは久しぶりだった。二人ともあの頃と変わらない笑顔に戻っていた。
「じゃあ、またね」
「うん。また」
美咲は渚に背を向け、ドラッグストアの駐車場を出る。それは、歩道を歩き始めてすぐだった。電話が鳴った。知らない番号だった。
「もしもし?」
一旦ためらったが電話に出る。胸騒ぎがしたのだ。
「もしもし、美咲さんですか?」
男の声だった。
「はい、あの……」
「私は渚の夫です」
「渚の?」
「すみません、渚から連絡でしたありませんか?」
「渚から?」
「前に喧嘩した時あなたに会いに行くって言って出ていったことがあったので、もしかしたらと思って」
美咲は振り返る。すでに渚に姿はない。
渚なら、今の今まで一緒にラーメンを食べていた。そう言い出そうとしてしたときだった。
(えっ?)
振り返った先にあるドラッグストアには、もう赤提灯はなくなっていた。屋台の姿もない。どこにもにない。煙のように消えてしまった。
「1時間前に家を出て、帰ってこないんです」
「1時間前?」
思わず声が上ずる。
「渚、こっちに友だちも知り合いもいないし、心当たりが全くなくて」
1時間前。美咲は首を傾げる。
どう頑張っても渚の住んでいるところから、この地元には着かない。
それに、大人が1時間帰ってこないからって、遠く離れた高校時代の、しかも疎遠になった友人に連絡するだろうか。
まずコンビニに探しに行ったり、周囲に聞いたりしないだろうか。
「どういうことですか?」
「コンビニへ行くって言って出ていったんです。田舎なんでコンビニまでは車で5分くらいかかるんですがーーそれにしても帰ってこないんです。連絡しても繋がらないし、夜ですし……」
夫の声には焦りが滲んでいる。
渚は明らかに痩せていた。ラーメンを食べて泣いていた。
もともと、あったんじゃないだろうか。
妻がいなくなるかもしれないという不安が。予兆が。原因が。夫自身に思いたある節が。
「私、渚に電話してみます」
そう言って電話を切る。夫を問い詰める寸前だった。そんなことをしても意味がないことはわかっている。だから、今は渚の声を聞かないといけない。直接話さないといけない。
美咲は手に持っていたペットボトルを握りしめる。渚にもらったお茶はまだ温かい。
(あれは夢じゃない。嘘じゃない。渚だった)
でも、現実ではありえない。ラーメンの屋台は消えてしまった。
(落ち着こう)
美咲はお茶を開けると一口飲んだ。優しい香りと甘みが心に染みてくる。いま大切なのは辻褄とか現実とかじゃなくて、電話をすることだ。渚の声を、話を直接きくことだ。
2コールで渚は出た。
「もしもし? 美咲?」
渚の声だった。
言いたいことがこんがらがって何も言えない。でも電話に出てくれたという安堵が一番先に来たかもしれない。
美咲は大きくため息をついた。
「旦那さんから電話あったよ」
「えへへ」
「えへへじゃないよ。渚、いまどこなの?」
「近所のコンビニ」
「近所ってどこの?」
「旦那の実家の近所だよ」
「でも」
ついさっきまで屋台でラーメンを食べていたではないか。
「不思議だよね。ありえないよね」
「ーーもしかして、幽霊なの?」
渚は吹き出す。
「違うよ。生きてる。安心して。あの二人が魔法をかけてくれた。屋台でラーメンを作って待っているから、満月の夜に会いたい人と一緒に食べにおいでって。そう願えば叶うという魔法を。信じる? 信じない?」
美咲は答えられなかった。
「美咲に会えてよかった。元気を山ほどもらったから。今回はツラくて逃げたけど、また美咲に会うために戦いたい」
「本当に大丈夫?」
痩せた頬の渚がこれ以上戦うことがあるだろうか。
「くだらないことで笑いたい。そのためだから大丈夫」
その声の明るさに美咲は一人うなずく。
「わかったよ。でも、絶対に無理しないでね」
「うん。美咲もね」
「私は大丈夫」
「嘘つき」
きっと渚はお見通しだ。助けられたのは美咲も同じだということを。
「またハモろう。だから、ちゃんと、生きて待っててね」
美咲の返事を待たずに電話は切れた。
同時に、風を受けて我に返る。
気づくと、美咲は歩道で一人で踏切の前に立っていた。
けたたましい轟音を響かせて電車は目の前を通り過ぎていく。
やがて遮断機のバーが上がり、車が往来を始める。
振り返っても誰もいなかった。
渚の姿はどこにもない。
ーーちゃんと生きて待っててね
手にはまだぬくもりの残ったお茶があった。
ラーメンの味だって、ちゃんと覚えている。それは満月の夜、渚が美咲を助けに来たという証拠だった。
(夢じゃない)
頬に涙が伝う。
また、会いたい。また2人でラーメンを食べたい。
(ちゃんと、生きるよ)
美咲は歩き始めた。月に見守られながら。
月夜の屋台でラーメンを 花田縹(ハナダ) @212244
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