第5話:凍てつく記録

莉奈の運転するセダンが、舗装が途切れた林道で停まった。

目の前には、赤錆びた鉄格子で固く閉ざされた、古いトンネルの入り口が、まるで巨大な獣の口のようにぽっかりと開いている。夕暮れの赤い光が、その闇の深さを一層際立たせていた。


「……着いたわよ。それで? 計画は? お祈りでも始めるわけ?」


運転席の莉奈が、心底うんざりした、という声で言った。その皮肉に満ちた言葉とは裏腹に、彼女の視線は鋭く周囲を警戒している。刑事としての本能が、この場所の異様な雰囲気を無視できずにいるのだろう。


「まず、君の力をもう一度試す必要があります」


助手席の小樽内准教授が、静かに言った。彼は俺の方を向き、諭すように続ける。

「相田くん。君が見たビジョンは、おそらくこの場所に蓄積された『記憶の記録』だ。ここはその発生源……言わば、Wi-Fiの最も強い場所だ。もう一度、あの写真に触れてみてくれないか」


「また、あれを……?」


心臓が氷水に浸されたように冷たくなる。二度とごめんだ。しかし、俺たちがここにいる意味は、それしかない。俺は震える手で自分のスマホを取り出し、『KitaGram』を開いた。例の、黒い顔の写真。


隣で莉奈が呆れたように息を呑むのが分かった。構うものか。俺は意を決し、写真に指を触れた。


―――今度の感覚は、前回とは違った。

激しい奔流に叩き落されるのではなく、まるで凍てついた湖の、氷の底へとゆっくり沈んでいくような、静かな落下感。


ノイズの向こう側に、断片的な映像が浮かび上がる。

恐怖に歪む、田中さんの顔。

違う。泣き叫ぶ、セーラー服の女子学生の顔。

違う。絶望に目を見開く、軍服姿の青年の顔。

違う。もんぺを履いた、幼い少女の顔。

明治、大正、昭和、平成――時代も、性別も、服装も違う、無数の人々の最後の絶望。その全てが、同じ黒い手に掴まれ、闇に引きずり込まれていく。


これは、田中さん一人の物語じゃない。

この土地に、何十年、いや、百年以上にわたって堆積してきた、無数の**「凍てつく記録」**。


「……田中さん、だけじゃ……ない……」


現実に戻ってきた俺は、膝から崩れ落ち、喘ぐように言った。

「……昔から……ずっと……何人も……」


「しっかりしなさい!」


莉奈の鋭い声が、俺の意識を現実に引き戻す。彼女は俺の側に駆け寄ろうとしたが、その足が不意に止まった。彼女の視線は、トンネルの入り口脇、雑草に紛れた地面の一点に注がれている。

彼女はライトを取り出すと、その場所を照らした。


光の中に、泥に汚れた小さなマスコットが浮かび上がる。それは、田中さんが自分のデスクの鍵に付けていた、シマエナガのキーホルダーだった。


「……これ、は……」


莉奈の声が、震えている。オカルトや妄想ではない。彼女が追う事件の被害者が、確かにこの場所に来ていたことを示す、最初の*物理的な証拠」。

彼女の顔から、俺たちへの侮蔑の色が消え、ただひたすらに険しい、刑事の顔つきに変わった。


その時だった。

カサリ、と後方の茂みから、葉を踏む音がした。


三人が同時に振り返る。夕闇が迫る森の木陰に、一人の人影が立っていた。フードを目深に被り、顔はよく見えない。ただ、こちらをじっと観察している。


「誰だ! 警察だ、止まりなさい!」


莉奈が叫ぶと同時に、その人影はニヤリと口元だけで笑ったように見えた。そして、驚異的な速さで身を翻し、森の奥へと駆け去っていく。


「待ちなさい!」


莉奈が後を追おうとするが、相手はあっという間に闇に紛れてしまった。


その、直後。

俺のポケットで、スマホが短く震えた。

ディスプレイに表示されたのは、『KitaGram』からの通知。匿名の新規アカウントから、一件のダイレクトメッセージ。


心臓が跳ねる。

メッセージを開くと、そこには、たった一行だけ、無機質なゴシック体でこう書かれていた。


『観測者は、邪魔』


全身の血が、急速に冷えていくのを感じた。

これは、警察莉奈への挑戦状じゃない。大学教授小樽内への警告でもない。

他人の記憶を「観測」できる、俺だけに向けられた、明確な殺意のこもったメッセージ。


――彼らは、見ている。

俺たちが、ここにいることを。

そして、俺が、「何」であるかを。


俺はもう、ただの傍観者ではいられなくなった。

今この瞬間から、俺は彼らの「敵」として、明確に認識されたのだ。

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