第3話:その学者は、境界に立つ

どうしようもない衝動に突き動かされるまま、俺は大学のウェブサイトから小樽内聡介准教授のメールアドレスを探し出し、一通のメールを送った。


件名は「助けてください」。本文には、支離滅裂に「都市伝説」「同僚が消えた」「あなたしか頼れない」とだけ書きなぐった。社会人として、あまりにも常識を欠いたメールだ。迷惑メールとして削除されて、それで終わりだろう。


そう思っていた。

だが、送信ボタンを押してから、わずか五分後。

スマホが震え、受信トレイに一通の返信が届いた。


『件名:Re: 助けてください

 非常に興味深い。私の研究室まで来られますか。お待ちしています。 小樽内聡介』


簡潔な文面からは、感情が読み取れない。しかし、拒絶されなかった。それだけで、俺はコートを掴むと、半ば転がるようにオフィスを飛び出していた。


札幌駅から地下鉄を乗り継ぎ、道央学院大学のキャンパスへ向かう。

歴史を感じさせるポプラ並木と、古いレンガ造りの校舎。行き交う学生たちの楽しげな笑い声。そこは、俺が今いる悪夢のような現実とは完全に切り離された、知性と理性と平和の象徴のような場所だった。

こんな場所で、本気であの話をするのか? 俺は、本当にどうかしてしまったんじゃないか?

何度も引き返そうか迷いながらも、俺は文学部の研究棟、その一番奥にある扉の前までたどり着いていた。


【小樽内聡介 研究室】


深呼吸を一つ。震える指で、ドアを三回ノックする。

「どうぞ」

中から聞こえてきたのは、想像していたよりもずっと若い、穏やかな声だった。


ドアを開けると、そこは古書の黴びた匂いと、サーバーの放熱する匂いが混じり合った、不思議な空間だった。壁一面の本棚には、黄ばんだ民俗学の専門書がぎっしりと並んでいる。その一方で、デスクの上には三台のモニターが明々と光を放ち、無数のグラフや文字列を映し出していた。


そのモニターの前に、一人の男が座っていた。

年の頃は、三十代前半だろうか。柔らかそうな癖っ毛に、フレームの細い眼鏡。ネルシャツにチノパンというラフな格好で、彼はこちらを見て静かに微笑んでいた。


「はじめまして。あなたが、相田拓海くん、ですね」

「は、はい……」

「小樽内です。まあ、そこに座ってください。コーヒー、淹れますから」


彼はそう言うと、手慣れた様子でコーヒーの準備を始めた。その落ち着き払った態度に、俺のパニックは少しずつ鎮まっていく。差し出されたマグカップを受け取ると、俺は意を決して、昨日からの出来事を全て話した。


『KitaGram』で流行っている都市伝説。目の前で「いいね」を押した田中さん。翌日の彼女の失踪。そして、彼女のスマホに触れた時に見た、あの悪夢のようなビジョン。


普通なら、一笑に付されるか、気味悪がられるか、あるいは精神科の受診を勧められるか。そのどれかだ。

しかし、小樽内准教授は違った。

彼は一度も俺の話を遮ることなく、時折メモを取りながら、ただひたすらに真剣な眼差しで耳を傾けていた。その目は、俺を狂人としてではなく、極めて珍しい「現象」を報告する観察対象として見ているようだった。


俺が全てを話し終えると、彼は腕を組んで、しばしの間、沈黙した。

やがて、ゆっくりと口を開く。


「……なるほど。状況は理解しました」

「信じて、くれるんですか……?」

「信じる、信じない、という話ではありません」


彼はそう言うと、デスクのキーボードを叩いた。モニターの一つに、古い白黒写真と、デジタル化された新聞記事のようなものが表示される。


「旧豊平隧道。あそこは昔から、よくない噂の絶えない場所でした。開拓時代、トンネル工事の際に何人もの作業員が原因不明の失踪を遂げた、という記録が残っている」

「失踪……」

「土地の古い伝承では、『人柱』にされたとか、山の神に『神隠し』に遭ったとか、色々言われています。その記憶が、現代まで都市伝説として形を変えながら生き残っているのでしょう」


淡々とした、まるで歴史の講義のような口調。だが、次の瞬間、彼は初めて、眼鏡の奥の瞳を興奮に輝かせた。


「しかし、面白い。実に面白い。その土地に根差した『神隠し』という古い伝承が、ソーシャルネットワークという最新のシステムを『新しい隠れ蓑』として利用している……」


彼は椅子を回転させ、俺と真っ直ぐに向き合った。その目は、恐怖ではなく、純粋な知的好奇心に満ち溢れていた。


「相田くん。君が見たものは、単なる呪いじゃない。それは、忘れられたはずの古い“記憶”が、現代に適応して、再び人を攫い始めた『現象』そのものだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る