第26話 ここが私の帰る場所

 ほぼ一ヶ月ぶりの上野公園は相変わらず混沌としていた。バラックが立ち並び避難所としての体裁は整いつつあるようだが、人々の顔はげっそりとやつれ生気がない。これでは、治安や衛生も不安があるだろう。花は、この場所に戻ってくることに罪悪感を覚えたが、そうしなければ帰れない以上仕方のないことだった。


(帰る時はどうすればいいの? 来た時と同じ場所に行けば分かると言ってたけど、本当に大丈夫なのかしら?)


 前回降り立った場所は、少年の芝居小屋があった辺りだ。木々に覆われて暗い場所なので不安を覚えるが、迷う時間もないのでまっすぐ進んでいく。付近に数人の人影が見えるが、構わず歩いていった。


 この辺りだと見当をつけてその場に立つが、何も起きる気配がない。ただいたずらに時間が過ぎていくのみで、花はだんだん焦りを覚えた。


(どうして何も起こらないの? 特に何もしなくていいと言ったじゃない! どれだけ待てばいいのよ!)


 だんだん冷や汗が出てくる。その場にぼーっと突っ立っているように見えるせいか、通り過ぎる人が奇妙な視線を投げかけて去っていく。とうとう我慢できなくなり、周りをうろうろと歩き出した。


(どうなってるの? 何か返事をしなさいよ、少年!)


 そういや、少年の名前をまだ聞いてなかった。お互い名乗る機会がないままここまで来てしまったと今更ながらに気づく。あの子は不思議だ。何ものにも染まらない雰囲気があって、元から名前なんてなかったんじゃないかと思わされる。いやいや、今はそれどころじゃない。早く元の世界へ帰らなければ。


 しかし、その辺をさまよい歩くうちに、突然周りの空気が変わった。避難所の重苦しい雰囲気が、お祭りのような華やかなものに変貌したのだ。


(何? 何があったの?)


 思わずぎょっとして辺りを見回す。いつの間にか、よそ行きの格好をした老若男女が、にこやかに歩いているのだ。上野公園であることは変わらないのに、明らかにここは避難所ではない。花は、目を白黒させながら、視線の先にあるものを見て仰天した。


(不忍池にロープウェイがかかっている! どういうことなの!?)


 夢を見ているとしか思えなえい。石段の上から見える不忍池にはロープウェイが巡らされ、多くの客でにぎわっていた。もしかして、数十年前に開催された博覧会の光景では? 夢ではなさそう……ということは、過去の世界に迷い込んだということ? すっかり気が動転して、ここから抜け出さなければと、慌てて踵を返して元来た道を走り出した。


 走っているうちに再び景色が変わる。またお祭り騒ぎのようだが、博覧会とは雰囲気が違った。遠くの方で賑やかな音楽の音色が聞こえる。公園の高台から街を見下ろすと、路面を紅白の垂れ幕で飾った花電車が走っていた。道行く人たちの会話から判断するに、大地震からの復興記念パレードを開催しているらしい。よくぞここまで立ち直ったと一瞬胸が熱くなったが、感動してる場合じゃないと我に返った。


(これも違う。早くどこかに行かなきゃ)


 花は冷や汗をかきながら、今度は反対方向に走り出した。西郷隆盛像のところまで来ると、何やら多くの人が集まり、お祝いのムードに包まれている。いかめしい政治家がずらりと並ぶかなり盛大な会だ。これはきっと……除幕式ではなかろうか。西郷隆盛像の除幕式となるとまた明治時代に戻ったらしい。恐怖に震えながら今度は別の道へと折れていく。


 今度は、一気に人々の髪型や服装が簡素化された。着物を着ている人はほとんどいなくなり、女性でも腕や足を出した格好をしている。何やら長蛇の列ができており、みな口々にパンダ、パンダと口にしている。パンダって何? 花は首をひねった。列は動物園の方から伸びているから、新種の動物でも見に来たのだろうか。それにしても、ここは何時代なんだろう。もしかしたら、はるか未来の世界に来てしまったのだろうか。


 もしやと思い、懐中時計を確認する。表示盤の月は糸ほどの細さまで欠けていた。


(どうしよう! そろそろ新月になってしまう! 新月になったら元の世界には戻れない!)


 焦った花は、たまらず大声で呼びかけた。こんなところにいるはずもないのに、頼れる人物はたった一人。その人の名前を声の限りに叫ぶ。


「孝ちゃー! 助けてー!」


 並ぶ人の視線を一気に浴びるが、そんなのどうでもいい。花は無我夢中で孝臣に助けを求めた。


「私はここにいるわ、お願い、迎えに来て! 孝ちゃー!!」


 吸い込まれるほど青く高い空に、花の悲痛な声が空しく響き渡った。


 

 この一ヶ月、孝臣は、職場からまっすぐ上野公園に向かい、夜遅くまで花を待つのが習慣となっていた。もちろん休日は朝から晩まで居座っている。これだけ共通の時間を共にしたので、少年とはすっかり打ち解けた仲になっていた。


「今まで仕事漬けだったんだろ? ずいぶん暇になったね」

「過労で一度倒れたので、職場から制限しろと言われた。高木からも監視されてるし」

「ここにいたって奥さんが戻ってくるわけじゃないよ。そろそろタイムリミットだ。今回もやっぱりダメだったかあ」


 少年はそう言うと、ため息をつきながら天を仰いだ。だが、孝臣はまだ諦めていない。最後の一秒になるまで希望を捨てるつもりはなかった。


 それでも、ふと我に返ることがある。もし、花が本当に帰ってこなかったら? 花のいない世界なんて生きるに値するのだろうか? 花のいない帝都に守るだけの価値はあるのだろうか? そこまで考えるといまいち自信が持てなかった。 


 暗い考えを振り払おうと、両手で頬を叩いて己を叱咤する。その時、かすかに自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。


「…………おい、今ハナちゃんの声がしなかったか?」


 孝臣は突然立ち上がり、隣に座っていた少年に尋ねた。


「別に? 恋しすぎてとうとう幻聴が聞こえるようになった?」

「バカ言うな。あれは確かにハナちゃんの声だった」

「どういうことだろう……おかしいな? もしかしてバグかな?」


 少年も眉間にシワを寄せ、のろのろと立ち上がる。しばらく二人は辺りをぐるりと見渡し、一音も聞き漏らすまいと耳をそばだてた。やがて、孝臣は黒門通りの方角を向いて「こっちだ」と呟き、やおら駆け出した。


「わあ! ちょっと待ってよ!」


 一目散に走る孝臣の後ろを少年が追いかける。突き当たりまで来た孝臣は、そのまま黒門通りを走って行った。


「ハナちゃーん! どこにいるのー!」


 周囲にいる人が驚いて孝臣の方に振り返る。誰もいない場所に向かって呼びかけるなんて、気が触れてると思われても仕方ないが、孝臣は構わず叫んだ。

 

「泣かなくていいよ! 迎えに行くから待っててー!」

「ねえ、どうしたの! 奥さんの声が聞こえるの?」

「ああ、ハナちゃんだ。ハナちゃんがこっちに帰ろうとしてるんだ。でも、出口が見つからないらしい」


 孝臣は早口でまくしたてた。このまま花が戻れなかったらどうなるんだろう。死よりも恐ろしいことが起こる予感がして孝臣は考えるのをやめた。そして、恐怖を振り払うかのように、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。


「ここだよー! 大丈夫だから落ち着いてー! おいでハナちゃーん!!」


 誰もいない空に向かって両手を差し出す。冬だというのに全身汗だくだ。全身全霊をかけて両手を伸ばしていると、指先に触れるものを感じた。


「ハナちゃん! ハナちゃーーん!!」


 孝臣の声に呼応するかのように、空中に人影のようなものが現れた。それはだんだん形になり孝臣の胸の中にすっぽり収まる。花だ。花が帰ってきたのだ。


「孝ちゃ…………ただいま」

「お帰り、ハナちゃん……よく帰ってきたね……」


 孝臣はそう言うと、愛しい人を抱きすくめて動かなくなった。



 孝臣の胸の中は暖かくて懐かしい匂いがした。どれだけこの瞬間を待ち望んだことだろう。彼の体に腕を回し安心して目を閉じる。すると、花を抱きしめる腕が小刻みに震えていることに気づいた。


「ハナちゃん……ごめんね……ごめんね……」


 孝臣が泣いている。泣きながらうわ言のようにずっと謝罪の言葉を述べていた。


「どうして謝るの? 孝ちゃは何も……」

「ハナちゃんのこと散々傷つけた。好きだから、幸せになってほしいから、なおさら自分じゃダメだと思った……そんなことしたら余計に傷つけるのに……」

「何度も言ったでしょう? 私は孝ちゃがいいの。辛い運命に立ち向かった。逆境にもめげずに戦った。報われないと知っても自棄にならなかった。孝ちゃほど強い人を私は知らない」


 花は涙ながらに笑った。今まで数えきれないくらい泣いてきたが、この涙は嬉しさから来るものだ。温かい涙が頬を伝った。


「本当にいいの……僕で……」

「もちろんよ。だから戻ってきたのよ、ここに」

「だいぶ格好悪いところ晒したよ?」

「孝ちゃが格好悪いと思ってるところは、私にとってはすごく格好いい部分なの。女心を分かってないわね」


 ここでやっと孝臣が笑った。優しく慈しむような微笑み。挫折を乗り越えた人にしかできない柔らかな表情だ。

 

「じゃあ……もう一度プロポーズしてもいいかな? これからは……本当の夫婦になってくれますか?」

「はい。末長くよろしくお願いします」


 再び孝臣が強く抱きしめる。お互いの体が溶け合ってしまうのではないかと思うほどに二人の影は一つになった。


「もう離さない、ずっとずっと愛してる。今までも、これからも」

「私もよ。最期の日まで一緒にいようね」


 どちらからともなく顔が近づき、唇を重ねる。初めての接吻は柔らかく甘やかで、幸福の味がした。この瞬間において、自分ほどの果報者はいないと思った。


「あのー……お取り込み中申し訳ないけど、ここ大正時代だから、人前でキスはまだ早いんじゃないかな? ほら、ジロジロ見られてるよ?」


 頃合いを見ておずおずと少年が割って入る。ここで、初めて少年がいたことに気づいた。花はぱっと笑顔を輝かせ再会を喜ぼうとしたが、ふと表情を改め苦情を言わずにはいられなかった。


「簡単に戻れるって言ったくせに、大変な目に遭ったじゃない! あちこちの時代に飛ばされてどうなるかと思った!」

「ごめんごめん……まさか本当に戻ってくるとは思わなかったからメンテが行き届いてなかったみたい。こちらも迂闊でした」


 少年は肩をすくめて平謝りしたが、花の気は収まらなかった。


「それで終わり? こっちは死ぬ思いをしたのよ? それで、あなたの目標は完遂できたの?」

「もちろん! お姉さんのお陰だよ! ありがとう! これで僕も長年の苦労が報われる……と、その前にまだ一つ残ってた。お兄さんの兄さんを待たなきゃ」

「ええ? 光治さんのこと?」


 何も知らない花は、目を丸くして少年と孝臣を交互に見比べた。孝臣が花に説明する。


「そう……彼に頼んで、高度な治療を受けられる未来に兄さんを送ってもらったんだ。再び歩けるようになるために。そして、禍物祓いとしても復帰してほしいから」

「そうなの……よかった……」


 感動のあまり、最後まで言葉が続かなかった。光治の足が治るかもしれない。以前のように元気になって……想像するだけで涙が込み上げる。そして、孝臣が光治に寄せる愛情の深さも。この世界に戻ってきてよかった。心の底からそう思えた。


「すっかり元通りになるかまだ分からないけどね。でも、こないだ見舞いに行ったらリハビリも順調のようだよ? 春ごろにはこっちに戻れるかなあ?」

「リハビリ?」

「ああ、未来用語。機能回復のための訓練、みたいな?」


 花は少年の顔をじっと見つめた。数奇な運命に巻き込まれたが、彼がいなければこんな結末にはならなかったかもしれない。かしこまってお礼を言った。


「お礼を言うのはこっちだよ。お姉さんのお陰で二つの世界をつなぐドアを閉じられたんだから。お兄さんの兄さんはそのお返しみたいなもの。じゃあ、彼が戻ってきたらまた知らせるから。じゃあね」


 そう言って、少年は雑踏の中に消えていった。少年を見送ってから、孝臣と花は、久しぶりの我が家へと戻った。

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