第25話 孝ちゃじゃない
懐中時計の月が全て欠ける前にこの世界から去らなければ。既に「もう一つの世界を見て禍物が存在する理由を探る」と言う当初の目的は果たしたのだから。そのことは常に頭にあったが、目の前の幸せな日々についつい流されてばかりいた。
「花さん、どうしたの? 暗い顔をしてるけど? 最近、ずっと遠くを見ているようだね?」
ある土曜日の午後、花が縁側に座り、ぼんやり考えごとをしていると、孝臣が声をかけてきた。
「いえ、別に……ただこのままでいいのかなって……」
「記憶はじきに戻るよ。焦りは禁物だ。いつまでもここにいてくれていいんだからね?」
その時は元の世界のことを考えていたのだが、記憶が戻らなくて悩んでいると孝臣には思われたらしい。花は申し訳なさそうに肩をすくめ、弱々しい笑みを浮かべた。
「本当に何から何までありがとうございます……せめて気持ちだけでもお返しがしたいです」
「そんなこと考えなくていいよ。母様も兄さんも歓迎してるくらいなんだから」
「そうだ! ちょうど光治さんもいらっしゃいますよね? そこで提案があるのですが……」
花は、あるものが家にあるか孝臣に尋ねた。元の世界にあったからもしかしたらと目星をつけていたのだ。
「アイスクリン製造機? そういや子供の頃に何度か使った記憶があるな」
「もしまだ残っていれば、ご家族のために作らせてください!」
花の予感は当たった。台所の戸棚の奥にそれはあった。こんなところまで元の世界と同じだと背筋が寒くなる。それなのに、花はこの世界に存在しないところに、運命の不可思議さを感じた。
「花さんは作り方知ってるの?」
「ええ、昔作った覚えがあります」
「そうか。となると、やはりきちんとした家のお嬢さんなんだろうね。普通、なかなかそんな経験できないから」
そう言って、孝臣は花の出自を推理するが、永遠に答えには辿り着けないだろう。花は黙って材料を準備する。幸い、卵と牛乳と砂糖は簡単に揃えられた。
二人で、材料を冷やすための氷と塩を入れているところへ、光治がひょいと顔を出した。
「どうしたんだい、二人とも? 台所が騒がしいじゃないか」
「花さんがアイスクリンを作ってくれるんだ。兄さんの分もあるってよ」
「ああこれ、昔作ったことあるよ。氷に塩を入れるんだよね。でもどうしてなんだろう?」
「塩を入れると融点が下がるんだ。すると、零度でも氷が溶け始める。その際、周りの熱を奪うからアイスクリンが凍るんだよ。凝固点降下って習っただろ?」
「孝臣はよく覚えているなあ。理科得意だったものな」
孝臣と光治の会話があまりに他愛もないので、内心信じられない気持ちになりながら、知らない振りをして機械を回し始める。こんな未来もあったのだろうか。夢にまで見た光景が今、目の前で繰り広げられている。
「そろそろ完成したと思います。容器に分けますね。どこでいただきましょうか?」
「この場所でいいよ。ちょうど兄さんもいるし。いいだろ?」
「ああ、いいよ」
二人ともそう言うので、花は、ミルクガラスの容器に分けたアイスを渡した。
「花さんの分は?」
「私もいただきますから心配しないでください。まずはお二人の分です」
「じゃ、いただきます……うん、おいしい! ねえ、兄さん!」
「ああ、口の中で冷たく溶けて甘いね。花さんありがとう……あれ、どうしたの?」
孝臣と光治が仲良く笑顔でアイスを食べている。光治は健康そのもので怪我もしていない。元の世界では既に失われた光景だ。それを目の当たりにした花は、自分でも気づかないうちに涙をぽろぽろと流していた。
「どうしたの? いきなり!?」
「ごめんなさい、何でもないです……ただあまりに幸せなので……」
そう言って、慌てて手で涙をぬぐうが、次々と涙があふれ出る。孝臣と光治は、花の突然の涙に戸惑っていたが、「幸せ」という言葉を聞いて合点したように穏やかに微笑んだ。花の涙に深い理由があるなんて、二人とも夢にも思わなかっだろう。
*
夜が来てみなが寝静まった頃、花は布団に入りながら懐中時計を見つめていた。つい数日前は逆三日月だったのが更に細くなっている。いよいよ明日こそ暇を告げなければ。時計を握りしめながら決意する。
(この時間になるといつも同じことばかり考える。それなのに、毎日決心が鈍ってばかり……ダメ、これ以上孝ちゃを待たせては)
でも本当に? 本当に彼は待ってくれてるの? そもそも、この世界に来たのは、辛い現実から逃げるためでもあった。今の世界は、花の理想そのものであまりに居心地がいい。光治は健康で、摂子も穏やかで、何より孝臣が心の傷を負ってない。禍物の襲来にも怯えず生活できる。
だが、これは地震の犠牲者の上に成り立っている幸福とも言える。結局、何が正しい選択なのだろうか。悩んでいるうちにいつの間にか眠っていた。
翌日、花はすっきりしない気持ちのまま朝を迎えた。懐中時計を確認すると、月は弓のように細くなっている。昨夜より更に欠けたような気がして、さっと血の気が引いた。
もう限界だ。今日こそ別れを告げなければ。そう決意し家族のいる場所へと向かう。その時、廊下で孝臣に声をかけられた。
「花さん、ちょっと庭を散歩しないかい? 朝の清々しい空気を吸いに」
この時の彼は少し緊張しているように見えた。俳優ばりの端正な横顔が少しこわばっている。自分の家なのになぜ? 花は不思議に思ったが、断る理由が見つからず受けることにした。
百合塚家の庭は見事な和風庭園である。池には色鮮やかな錦鯉が泳ぎ、築山や苔むした庭石で変化をつけた意匠が凝らされ、そぞろ歩きにはぴったりだ。以前、元の世界で同じ庭を光治と歩いたことを思い出す。
他愛もない会話を二つ三つしたところで、孝臣が切り出した。
「急に改まってすまない。でも、ふと不安になったんだ。花さんがどこか遠くに行ってしまいそうで」
「ええ? なぜそんなことを思ったんですか?」
心の中を見透かされたように感じて、花は心臓が止まりそうなくらいびっくりした。誰にも気取られないよう、細心の注意を払ったつもりなのに。
「なんでかな――第六感ってやつかな、普段はこの類のは信じないんだけどね。それで、引き止めるような、こんな見苦しいことをしてしまってる」
花は動揺のあまり地面に視線を這わせた。その第六感は当たっている。孝臣から先に指摘されたら、こちらから言いにくくなってしまうではないか。
「それで、僕も正直な気持ちを伝えたい。とても不謹慎なのは自覚している。でも、記憶が戻らなければいいのにとすら思うようになってしまった」
「えっ? それはどういう……」
心が乱れて口をパクパクさせることしかできない。そんな花を、孝臣はまっすぐ見据えて言葉を発した。
「どうか僕と一緒になって欲しい。その、妻として――」
頭の中が真っ白になる。どうして運命というやつはこうも皮肉なのか。花は、全身が震え出すのを抑えられなかった。
「一体何を……どこの馬の骨とも分からぬ娘と……」
「僕も正直なぜ惹かれるのか分からない。でも、これこそ運命だと思うんだ。兄さんと母様にも相談したら賛成してくれた。てっきり反対されるかと思ったのに」
確かに「運命」なのだろう。だが、孝臣の考える運命と花の考えるそれとは、意味合いが異なるように思えた。
目の前の孝臣は完璧だ。明るくて優しくて自信に満ちている。おそらく、彼の歩く道は順調そのものだろう。彼について行けば花の幸せも約束されている。そう確信できた。
(でも、この人は孝ちゃじゃない)
心の最も深い部分で警笛が鳴った。ここは自分のいる世界じゃない。どんなに幸せで明るい未来が待っているとしても、元の世界に帰らなければならない。なぜなら、一番大事な人がそこにいるから。
花は何度も深呼吸をした。自らの意思で幸せを手放すのは、崖から飛び降りるくらいの覚悟が必要だ。喉がカラカラに乾くのを感じながら、口を開いた。
「あ、あの……ごめんなさい」
震える声でそう告げると、孝臣の顔色が変わった。まさか、拒絶されるとは思ってなかったらしい。
「あなたは非の打ち所がない完璧な人です。でも、私には帰らなきゃいけない場所がある……ずっとここにはいられないんです……」
「でも記憶が戻らないって――」
「ごめんなさい、今まで黙っていて。どうか私のことは忘れてください。受けたご恩は一生忘れません」
こんな場面で泣くなんて卑怯にも程がある。そんなこと分かっているのに、泣けて泣けてどうしようもなかった。
これ以上孝臣と向き合えない。彼の落胆した顔を見ると、胸が裂かれる思いがする。たまらず背を向け家の中に戻ろうとすると、彼に手を取られた。
「待って! 昨日は幸せだって言ったのに!」
「嘘じゃありません。すごく、すごく幸せでした。だからみなさんの好意に甘えてしまった。裏切ってしまって本当にごめんなさい!!」
それだけ言うと、孝臣の手を振り切って家の中に入った。そのまま自分の部屋に戻り、三人への謝罪と感謝の手紙を急いでしたためる。急いでいただけでなく、手が震えて乱筆甚だしいが仕方ない。そして、来た時の服装に着替えこっそり家を出た。
(ごめんなさい、別れの挨拶すらせずに。でも、顔を見たら余計に離れられなくなる。光治さんと奥様にも申し訳ない)
花は、涙ながらにごめんなさいごめんなさいと呟きながら上野公園へと急いだ。これから向かうのは幸せな世界ではない。でも「孝ちゃ」がいる。孝ちゃのいる世界こそが花のいるべき場所なのだ。
(孝ちゃ、どうか待っていて。あなたに会いたい。私にとっての孝臣さんは孝ちゃしかいないの!!)
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