第24話 無駄じゃなかった

 冬が訪れた。寒風に吹かれた落ち葉がカサカサと地面をこする音がそこかしこで聞こえる。光治を未来に送ってからも、孝臣は、毎日上野の少年の元に通っていた。


 少年は相変わらず派手な色の燕尾服姿で、いつもの場所にぽつねんと立っている。前を通り過ぎる人々が彼の存在に気づくことはない。彼の正体を知った今なら特段不思議に思わないが、よくもまあ飽きずに同じ場所にいられるなと、孝臣は思わずにはいられなかった。


「今日も来たの? 僕は食べたり寝たりしなくても平気って言ったじゃん」

「それでも、食べる楽しみってやつもあるだろ? ほら」


 孝臣は、手に抱えていた白い袋を少年に渡した。中にはあんぱんがどっさり入っている。


「この程度じゃ埋め合わせにならないけど、兄さんのことで恩もあるし。金品で喜ぶようには思えないから」

「案外義理堅いんだね……ありがたく貰っとくよ」


 少年はクスクス笑いながら紙袋を受け取った。そして、袋に手を突っ込み、あんぱんを一つ取り出して孝臣に渡す。


「せっかくだから一緒に食べよう。何かくれた人はこれで二人目だ」

「たった二人? みんなケチなんだな」

「一人目はあなたの奥さん。シベリアをくれた。僕が腹空かせていると思ったみたい」

「ああ……ハナちゃんらしいや」


 孝臣は、懐かしそうに目を細めた。自分が関わった人への気配りをいつも忘れない、花はそういう人だ。孝臣は少年の隣に腰を下ろし、あんぱんにがぶりつきながらしばらく話しこむ。ここ最近の習慣だ。


「奥さんのこと気にならないの?」

「そりゃ気になるさ。でも、ジタバタしても意味がない。おとなしく待つしかないよ」

「そんなこと言いつつ毎日ここに来てるくせに。本当は未練タラタラなんでしょう?」

「仕方ないよ。過去に戻れるものならやり直したいさ。でも、それはお前でもできないだろ?」

「一つの世界に同じ人間は存在できないと言ったでしょ? ただ、前みたいに大騒ぎしなくなったからつまらないと思っただけ」

「俺が見苦しく取り乱した方が面白いとでも言うのか?」


 眉間にシワを寄せてにらむ孝臣を見て、少年はクスクスと笑う。


「だってさ、こないだも言ったけど、お姉さんは、あちらの世界のあんたに会ってる可能性が高いんだよ? ライバルが自分なんて焦らない?」

「そうだな……禍物が存在しなかったら俺もまっすぐ成長してたかもな。父に劣等感を植え付けられず、兄とも仲良しのまま。家の中もきっと平和だっただろう。ハナちゃんがどちらを選ぶかなんて分かりきってるよ」

「それじゃ困るんだよ。お姉さんにはこっちに戻る方を選んで欲しいんだから」


 そんなこと言われても……と孝臣は困った顔をした。負い目や劣等感のない自分は、自分にとっても理想の姿だ。花に再会したばかりの頃は何とか取り繕えていたが、今はすっかり化けの皮がはがれてしまった。


「僕としては、そんなに卑下することもないと思うんだよな」


 その時、少年が足元の小石を弄びながらぽつりとつぶやいた。


「禍物は地震災害の影響で現れたと言っただろう? でも、実際には被害の程度は全く吊りあっていない。あちらの世界では、たった一日で十万人以上が死んだ。こちらの世界では、何年もかけて――それでも半分にも満たないんだ」

「どういう意味だ?」


孝臣は顔を上げてうわずった声を上げた。今まで聞いたことのない話だ。


「こちらの世界では、人間の叡智と抵抗が功を奉したってこと。禍物祓いだけじゃない。周りで働く人間の創意工夫が被害を食い止めたんだ」


 少年は真剣な目で孝臣を見つめる。いつも冗談混じりの彼にしてはまるで似つかわしくない態度に、周囲の空気まで変わった気がした。


「お兄さんは『禍物祓いになれなかった』ってずっと自分を責めてたんだろう? でもね、もしお兄さんが禍物祓いだったら、きっと今やってる仕事はできなかった。都市計画も、避難訓練も、予算の折衝も。それは禍物祓いじゃない人間にしかできないことなんだ。お兄さんは、お兄さんにしかできないことをやってきた。それが何万人もの命を救ってる」


 孝臣の手が震えた。ぶわっと視界がにじむ。


(俺は……無駄じゃなかったのか)


 何年も何年も、自分を無能だと責め続けた。兄に劣ると卑下し続けた。父に罵倒され、母に憐れまれ、それでも歯を食いしばって働いてきた。


 でも――


「俺は……間違ってなかったんだ……」


 声が裏返る。次の瞬間、堰を切ったように笑いが溢れた。


「あはは……ははは……!」


 涙なのか笑いなのか、自分でも分からない。急に声を上げて笑うものだから、少年がびくっとして身を引く。


「ごめん、あまりにびっくりしたもんで……」


 孝臣は袖で目元を拭った。


「今までやってきたことが無駄じゃなかったと知れただけでも嬉しい。報われたんだなって。ありがとう、教えてくれて」


 声を出して笑うのはいつぶりだろう。久しぶりすぎて、顔の筋肉がこわばっていたほどだ。孝臣は晴々とした気持ちに包まれた。


 誰にも賞賛されなくても、自分のやったことが身を結んでいると分かればそれで十分だ。


 そう、心から思えた。



 百合塚家に入った花は家族のように受け入れられ、孝臣たちと良好な関係を築いている。こんなにとんとん拍子に進むなんて怖いくらいだ。


 先日も、摂子が娘時代に着ていた着物を数着くれた。こんないいものをと恐縮する花に、摂子は優しく笑いながらこう言ったのだ。


「お嫁に来る時にどうしても手放せなくて一緒に持ってきたの。当時結婚したくなくて娘時代が忘れられなかったから。でも、幸いいい嫁ぎ先に恵まれたわ。何なら、厳しい士族の実家より緩かったくらい」


 すっかり別人の摂子に、花は圧倒されるしかなかった。禍物祓いの家系という重圧さえなければ、摂子もこんなに気さくな人だったなんて。


 それは孝臣や光治も同様だ。孝臣の今の仕事は特災課よりきつくないし、光治は財閥系の会社に勤めているというが、二人とも、元の世界のような悲壮感は見られない。これが元の世界だったら……浅草が襲撃されただけで大騒ぎになっていたのにと、その落差に驚くばかりである。


 帝都の平和の一端は、百合塚家の犠牲のもとに成り立っている。そんなこと考えたくもないが、事実だと認めざるを得ない。


 夕方になり孝臣は仕事から帰ってきた。常時なのにこの時間に帰れるの? と思ったのは秘密である。全て燃えてしまって手の施しようがないのだろうか。


 孝臣は花を見るなり開口一番、嬉しそうに声をかけた。


「朗報がある。高木と連絡が取れたんだ。郊外の親戚の家に避難したらしいんだが、通信や郵便が麻痺しているため連絡が遅くなったらしい」

「よかった! 無事だったんですね! 安心しました」


 我がごとのようにはしゃぐ花を孝臣は不思議そうに眺めた。無理もない。会ったこともない他人の安否をそこまで気にするのは普通ではない。彼の視線に気づき、花ははっと我に返った。


「ごめんなさい……! もしものことがあったら、孝臣さんが悲しむと思ったので……」


 うろたえながら弁明する花に、孝臣は優しく微笑みかけた。


「本当にあなたは心がきれいな人だな。様々な女性を見てきたが、花さんのような人は初めてだ」

「そんな……孝臣さんなら引く手あまたでしょうに」

「美しい女性ならたくさんいる。でも、僕が望むのは心も美しい人だ」


 孝臣はそう言うと、こちらに熱い視線を向けた。そんなこと言われたら花の顔まで熱くなってしまう。


(まさか、こっちの世界でも孝臣さんに気に入られてる? そんなことってあるの?)


 でも、少年は確かに「二つの世界は大体同じ」と言っていた。あれはこういう意味だったのだろうか。


 戸惑いも感じつつ、今の暮らしは花にとってとても心地いいものだった。いつまでもこの平和に身を委ねたくなる。外は、地震の被害で大変なことになっているというのに、百合塚家はとても穏やかな空気が流れていた。


 楽しい時間はあっという間に過ぎる。十日ほど経ったある日、花は久しぶりに懐中時計を開いてみた。本人の感覚ではまだ数日程度だったのだが――。


(満月だったのがもう半分近くに欠けている! どういうこと?)


 一瞬ぎょっとしたが、何もおかしいことはないと思い直す。ここしばらく、懐中時計を確認していなかっただけだ。初めのうちは「早く戻ろう」と思っていたのに、最近すっかり忘れてしまった。


(今までの人はみんな戻らなかったと言ってた……自分だけはそうならないと信じていたのに……怖い。どうして孝ちゃを忘れられたんだろう?)


 花は、自分の薄情さに恐れ慄いた。よりによって自分自身に裏切られるなんて。


 楽な方に逃げてうつつを抜かしていた自分を心の中で叱咤する。でもその一方で、元の世界の孝臣が花を再び受け入れてくれるかは自信が持てなかった。もし、また拒絶されたら……? そんなことを考えるだけでも身震いがした。

 

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