第20話 エクソダス

 もうやだ、限界だ。花は泣きながら病院を飛び出し、脇目も振らず走り続けた。すれ違う人たちがギョッとして次々に振り返るが、そんなのどうでもよくなっていた。


(どうしてこんなことに……もがけばもがくほどこじれてしまう……もし禍物がいなければ、今とは違っていた?)


 その時、花の脳裏に浮かんでいたのは「禍物がいないもう一つの世界」という言葉。普通なら不可能な「もしも」を経験できるなら。足は自然と上野公園へ向かっていた。


「……いつか来るとは思ってたけど、予想より早かったね。何かあった?」


 いつもの場所に、当たり前のように少年は立っていた。相変わらず、見せ物小屋の前を通る人は、誰一人興味を示さず素通りしていく。でも、彼が待っていたのは花ただ一人、そんな気がした。


 秋が深まった時節にもかかわらず、本郷から上野まで一目散にやって来た花はうっすら汗ばんでいた。ハアハアと息を切らしながら、覚悟を決めた強い視線で少年を見据える。


「もう……ダメ。何もかもめちゃくちゃ……」


 呟くようにそう言ってからまた涙があふれ出す。己の無力感に打ちのめされるのはこれで何度目だろう。いつもは飄々とした態度の少年が、この時ばかりは気づかわしげに花を見つめた。


「また旦那さんと喧嘩したとか?」

「喧嘩と言うより決別かな……私には無理だった……孝ちゃの絶望が深すぎて手が届かない……」

「確か旦那さんは禍物関係の仕事なんだよね?」

「そう……本当は禍物祓いになりたかったの。でもなれなくて……今もずっと苦しんでる」


 どうしてだろう。全く関係ないはずの相手にぺらぺら話してしまっている。花は不思議に思いながらも止めることができなかった。


「本当はすごい人なのよ? なのに自分は無能だと思いこんでる。どうしたら自信を持てるようになるんだろう……何も分からない」


 花は両手で顔を覆うと嗚咽を抑えられなくなった。外だからとか、他人に見られるかもしれないとか、そんな配慮をする余裕は残ってない。


「これも禍物のせい? 禍物さえいなければもう苦しまなくて済むの?」

「禍物のいない世界、行ってみる?」


 花は顔を上げると、静かに告げる少年の目と合った。黙って首を縦に振る。そうだ、そのためにここに来たのだ。

 

「不思議だね。あちらの世界に行きたがる人は、なぜか絶望してる人が多いんだ。そうでもなければ、知らない世界に飛び込もうとはしないだろうけど。一種の逃避行動なのかな?」

「逃げだと思われるかもしれないけど、そんな理由でもいいの?」

「もちろん。理由なんて関係ないよ。僕としては、申し出てくれただけで万々歳さ」


 すると少年は、懐から金でできた懐中時計を取り出し、花に渡した。


「向こうに行ってる間、肌身離さずこれを持っていて。一見懐中時計に見えるけど、これは、元の世界に戻れるリミットを表したものだ。今は満月だけど、時間が経つとだんだん月が欠けていく。新月になったらもうこっちには戻れない」


 花が蓋を開けると、時計の文字盤の代わりに満月が描かれているのが見えた。この絵がゆっくり動くのだろうか?


「つまり、月が見えている間はいつでもこちらの世界に戻れるってこと?」

「そう。もっとも、一度行ったら二度と戻ってこない人しかいないけどね。こんなの意味のない人が多いみたい」


 肩をすくめながら話す少年の話を、花はじっと聞いていた。


「どのくらいで新月になるの?」

「人によって違うけど、大体一ヶ月くらいかなあ。本物の月の満ち欠けの二倍に当たるね」


 花は懐中時計を握りしめた。一ヶ月――それが、自分に与えられた時間。 


「分かった。早く連れて行って」


 すると少年は、小屋の中へと花を誘った。実際に中に入るのは初めてだ。息を飲んで入り口にかかった暖簾をくぐる。


 中に足を踏み入れた花は、目の前に広がる光景に息を飲んだ。外からは粗末なバラックにしか見えないのに、内装は近代的な建物と変わらないのだ。


 いや、花の知ってる「近代的」ともまた違う。四方を花の知らない材質の白い壁に囲まれ、床は薄いカーペットのようなものが敷かれている。そう、これは「無機質」だ。まるで異空間だ。


 目を白黒させる花に、少年は苦笑しながら説明した。


「ごめんね、びっくりしたよね。ここは大正時代の空間とは違うんだ。説明が難しいけど未来……って言うか。こちらとあちらをつなぐ中継地点だ。あちらの世界に行くにはこれを着けてもらう必要がある」


 少年が手にしている物は、バンドがついた黒くて大きな水中眼鏡らしきものだった。眼鏡にしては視界が完全に覆われている。これでは何も見えないだろうに。材質は何だろう? セルロイドとも違うような……初めて見るそれは、花には異様に映った。


「これも説明が難しいんだけど……目に装着すれば向こうの世界が見える。バンドを頭にはめて……そうそう」


 花は、訳が分からないながらも少年の言う通りにした。見た目より軽く首への負担は少ない。だが、急に視界が遮られたので不安が一気に増幅した。


「あっちの世界に行く前に一言言っとく。本当は『時の旅人』にネタばらしするのは御法度なんだけど、いきなりだとびっくりするだろうから」


 真っ暗な視界の中、少年の声だけがする。すぐそばにいるはずなのに、遠くから聞こえるようで一層不安が募る。そんな花の気持ちなどお構いなしに彼は話し続けた。


「覚えてる? 前に言った『帳尻合わせ』の話。あちらの世界はちょっと大変なことになってるんだ。でも、それこそがこの世界に禍物が現れる理由なんだよ」


 少年の声がだんだん遠くなる。すると、ピッピッという聞いたことのない音がしたかと思うと、目の前に英数字が表示され、しばらくして消えた。混乱する花に、少年の最後の言葉が届く。


「じゃあ、気をつけてね。良い旅をボンボヤージュ


 次の瞬間、視界がぱっと開けた。いつの間にかゴーグルを着けている感覚もなくなっている。そして、目の前に広がる光景に唖然とするしかなかった。


「何なのこれ……!」


 さっきまでいた場所と同じなのは分かる。だが、緑深く平和な上野公園は、どこからか逃げ延びてきた人たちであふれ返っていた。みなげっそりとやつれ、着のみ着のままの姿でとぼとぼと歩いている。小さな子供が親を探して泣きわめき、誰かの名前を呼びながら歩いている人もいる。花は、訳が分からぬまま、状況を把握しようと辺りをうろつき回った。


 小高い公園からは東京の街並みが一望できるが、そこからの景色に愕然とした。


(一面焼け野原……上野駅もデパートもなくなっている……一体何があったの?)


 目につく建物は点々と散らばる程度で、それも壁だけ残り天井などは崩れ去っている。他は瓦礫と焦土が広がるばかり。浅草方面に目をやると展望台をなくした凌雲閣が見えた。見覚えある光景に、少年が別れ際言っていた言葉を思い出す。


(私たちの世界でも凌雲閣は崩壊した……ここまでの厄災ではないけれど、二つの世界で起こる出来事は関係があるんだ……)


 その時、風に飛ばされ植え込みに引っかかっている新聞紙が目に止まり、それを手に取った。


「帝都を中心とする大地震 帝都大火災 凌雲閣も倒壊 死者多数」


 日付は九月一日。他にも、東海地方を震源とし、横浜が壊滅状態、伊豆や熱海も死傷者多数と書かれている。


 新聞紙を持つ手がわなわなと震える。ということは、被災した人たちがここに避難してるのだ。ショックが覚めやらない花は、おぼつかない足取りで公園の中をさまよい歩いた。


 整然とした公園は今や、急ごしらえのバラックや、炊き出しの列で混沌としていた。西郷隆盛像には、行方不明者の名前が書かれた紙が無数に貼られており、すっかり様変わりしている。目に入る物全てが、花には受け入れがたいものだった。


 しかし、この光景を目の当たりにして、一つ判明したことがある。自分が長年追っていた問いの答えがようやく出たのだ。


(私たちの世界では大地震が起きなかった代わりに、禍物に襲われるんだ。一度の被害はここまで大きくないけど、その分何度も繰り返される)


 まだ確信を得たわけではないが、やっと点と点が線でつながった感覚を覚える。そういうことか。やった、早く孝ちゃに伝えなきゃ。


 完全な別世界に来たばかりなのに、花は早くもそんなことを考えていた。そんな気持ちがうっかり顔に出ていたのだろう、突然見知らぬ男に話しかけられた。


「嬉しそうな顔をしてるけど、探し人でも探しに来たのかい?」

「え? いえ……そういうわけでは……」

「じゃあ、取り澄ました格好で何しに来てるんだ? 俺たちゃ見せ物じゃねえんだぞ」


 言いがかりもいいところである。確かに、今の花は洋装姿ではあるが、元の世界から来たばかりなのだから仕方ない。被災して心が荒んでいる者に目を付けられてしまったのか、それとも、隠しきれない異質感が、相手の気に障ったのだろうか。とにかく、この場を離れなければと思った。


「や……ごめんなさい……そんなつもりじゃ」


 しかし、ますます疑いの目でにらまれるばかりである。どうしようと途方に暮れたとき、背後から新しい声がした。

 

「どうしました? 何があったんですか?」


 たった一言だったが、絡んで来た男は、面倒なことになったとでも言いたげに、顔をしかめてあっさりと去って行った。しかし、残された花はほっとするどころか、全身が凍りつき、心臓が早鐘を打つように鳴り響いた。


(この声は、まさか)


 恐る恐る後ろを振り返る。やっぱり。聞き間違えようがない。一番愛しい人。つい数時間前に会った人。でもなんで? こんな場所で会うなんて。神のお導きなんて本当にあるのだろうか。


「孝ちゃ……」


 かすれた声でそれだけ言う。目の前には、もう一つの世界で生きる孝臣が立っていた。


 でも――何かが違う。


 髭は伸びておらず、スーツも整っている。何より目に光が宿り、明るく朗らかな雰囲気だ。元の孝臣には見られなくなっていたものである。


 花は胸がざわついた。同じ顔なのにまるで別人に見える。目の前の孝臣は「孝ちゃ」ではなかった。

 

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