第19話 私の幸せは私が決める
孝ちゃだ! 孝ちゃが来てくれた!
どれだけ待ち望んだだろう。花は必死で孝臣の背中を見失うまいと後を追った。前を行く孝臣は、大股で足早に歩きながら、脇目も振らず光治の病室へと向かって行く。後ろからずっと花が追いかけているのに、全く気づいてないようだった。
ようやく花が追いついたのは、光治の病室の前まで来たところだった。息も絶え絶えになりながらも、万感の思いを込めて愛しい人の名を呼ぶ。
「孝ちゃ……!」
ここでやっと孝臣が振り返った。常に身だしなみに気を遣い、職場に寝泊まりしている時ですら隙のなかった孝臣が、この時ばかりは無防備な姿を晒していた。髭は伸び、スーツやシャツも皺くちゃ、いつもは丁寧になでつけた髪も無造作に乱れている。
「孝ちゃおかえり……今までどうしてたの?」
それでも花は、孝臣に再会できた喜びで一杯になっていた。無事な彼が見られれば、外見なんてどうでもいい。そう思っていたのだが、孝臣の方は、すぐに病院に駆け付けなかったことを責められたと受け止めたのか、バツの悪そうな表情を浮かべた。
「高度な手術ができる病院を探しに、日本中回ってた。帝都以外にも海外の最新技術を導入してるところがあると思って……でも、骨が粉々に砕けたらどこに行っても完治は無理だと言われた……」
そのために今まで駆けずり回っていたと言うのか。花は、胸がいっぱいになって、かける言葉が出てこなかった。
(やっぱり孝ちゃは光治さんを見捨ててなかった。本当は心配で心配でたまらなかったんだわ。よかった……希望はまだある)
「とりあえず光治さんの顔を見てあげて。薬で寝てるけど、孝ちゃが来たと知ったらきっと喜ぶわ」
そう言って部屋のドアを開け入室を促す。孝臣は逡巡する表情を浮かべていたが、意を決したように部屋の中へ入った。
包帯まみれで静かに目を閉じて横たわる光治を、孝臣は棒立ちになったままじっと見つめた。その表情は固く、何を考えているのかこちらからはうかがい知れない。
「ずっとこんな感じなの。そばにいても何の役にも立たないのは分かっているけど、どうしても離れられなくて」
「ありがとう。ハナちゃんがいてくれて、兄さんも心強いと思う」
「そんな、孝ちゃの方が立派だわ。悲しむだけでなく行動したんだもの……」
その時、病室のドアが開き、摂子が中に入ってきた。
「孝臣。今まで何をしていたのですか。光治が大変な状況だと言うのに? 今頃になって、よくのこのこと姿を表せたわね? 恥を知りなさい!」
「奥様! 孝臣さんは、光治さんの怪我を治せる病院を探し回っていたんです! どうか責めないでください!」
花が二人の間に入って孝臣を擁護するが、孝臣は黙って首を横に振った。
「いいんだ。結局芳しい結果にはならなかったんだから。ただの徒労に終わったんなら、何の意味もない」
「そんな……! 意味ないわけないじゃない! 光治さんを本当に思ってなければできないことだわ!」
花は必死になって孝臣を庇ったが、摂子の怒りは収まらず、孝臣も反論する素振りを見せない。ただ全てを諦めているように見えた。
「そう。結果が伴わなければ努力したって意味ないの。あなたはもう帰りなさい。後のことはこちらでやるから」
摂子に叱責されるがまま、孝臣は黙って部屋のドアに向かった。花は慌てて後を追う。さらに摂子は、彼の背中に向けて追い討ちの言葉を投げかけた。
「さっき、お花ちゃんに、光治と再婚しなさいと話をしたところなの。あなたも分かってくれるわよね?」
いきなり何を言い出すのか。花は弾かれたように摂子の方へ振り返った。
「やめてください! 私はちっとも納得してないし、光治さんの前でする話じゃありません!」
自分の立場も忘れ、真っ赤になって猛然と反論する。しかし、孝臣の方は、冷めた口調でこう言った。
「母様は兄さんのこと何にも知らないんだな……ずっとそばで見てたくせに。兄さんは禍物祓いでなくなったら、迷わず死を選びますよ。そういう人だ」
死という言葉に、摂子も花もはっと息を呑む。特に摂子は真っ青になった。
「簡単に死なれてたまるものですか! 光治には子孫を残すという使命がまだあるの! 次の禍物祓いを作る使命が!」
「禍物祓いが兄さんの全てです。生まれた時からそう教え込まれて育ってきた。今さら別の生き方をしろと言われても器用に立ち回れる性質ではありません。僕には分かる」
それを最後に、孝臣は部屋を去る。花は迷わず彼を追いかけていった。
「孝ちゃ……! 待って、孝ちゃ!」
花は、廊下の途中で孝臣を呼び止め、ハァハァと息を整えながら駆け寄った。
「今のはどういう意味? 光治さんが死を選ぶって?」
「死を選ぶは言い過ぎかな。でも、兄さんは、ああ見えて柔軟に立ち回れる性格じゃない。他人には完璧じゃなくてもいいと言うくせに、自分は完璧でないと気が済まない。少なくとも、母様が考えてるほど簡単じゃないよ」
孝臣は、皮肉な笑みを浮かべながらそう言うと、階段の手前で立ち止まった。窓の方に体を向け、花と正面から向き合うのを避けているように見える。
おそらく、「完璧じゃなくてもいい」とは、過去に孝臣が言われた言葉なのだろう。花はそう考えたが、ここでは黙っていた。
「でも、母様の言ってることも分かる。これ以上兄さんを絶望させたくないんだろう」
「それどういう意味?」
花はびっくりして声を上げた。なぜここで猛反対しないのだろう。本来なら、もっと怒ってしかるべきではないか。彼の反応がまるで信じられなかった。
「孝ちゃはそれでいいの? あんなことを言われて何も感じないの?」
「不自由になった兄さんに、それでも嫁ぎたいという人がいるだろうか。いくら百合塚の名前があっても。その点ハナちゃんなら兄さんも納得するだろう。何せ――」
「私のことはどうでもいいの!?」
思わず大きな声が出た。静かな空間に花の声が響き、孝臣もハッとして彼女に向き直る。口にしてから我に返り、恥ずかしい思いをしたが、幸い周囲には誰もいなかった。
「ごめん……そんなつもりじゃ……ただ、ハナちゃんにとっても悪い話ではないと思ったんだ。少なくとも僕よりは――」
「孝ちゃどうしたの? こないだからおかしいよ! どうしてわざと嫌われるようなことを言うの?」
涙ながらに訴える花の視線に耐えきれず、孝臣は気まずそうに視線を逸らした。
「僕はそこまで価値のある人間じゃないよ。ハナちゃんを守ることもできない。兄さんを助けることもできない。何一つ成し遂げられない愚か者だ。ハナちゃんを幸せにできる資格なんてない」
「私は孝ちゃじゃなきゃダメなの! どうして分かってくれないの?」
孝臣の心に訴えるように花は声を張ったが、彼はどこか遠くを見るような寂しい目をしたままだった。
「……昔、貝殻の首飾りを貰ったの覚えてる?」
「それなら奥様から聞いた。光治さんが贈ったものだって」
「もう聞いたんだ。今さらだけどごめん……最低だよね」
「それが何? まだ子供だもの、間違えることぐらいあるわよ! その程度で見損なうとでも思った?」
どうにか励ましたい一心で声を振り絞ったが、孝臣は、かえって追い詰められた表情を浮かべた。これ以上辛そうな様子を見たくないが、ここで退くわけにはいかない。何とかして彼を奮い立たせなければ。彼には自分が思う以上に価値があるんだ。それだけを考えた。
「孝ちゃは誰から見ても強くて立派な人だよ。努力家で決して弱音を吐かない。私はそんなあなたが好き。だから、そばにいさせて」
「…………ごめん。好きだからこそ自分じゃ駄目だと思ってしまう。一緒にいると辛いんだ。幸せにできない自分が恨めしくて――」
最後まで言い終わるより先に平手打ちの音が響いた。花が孝臣を引っ叩いたのだ。
「幸せかどうかは私が決める! あなたに私の幸せを測ってほしくない! 私のことが好きなら、どうして信じてくれないの? どうして私の気持ちを尊重してくれないの? もういい!」
そう捨て台詞を吐くと、花は素早く階段を降りて彼の前から去って行った。一方、孝臣は、打たれた姿勢のまま、いつまでもその場に立ち尽くしていた。
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