第18話 機械の部品を取り替えるように

 光治が入院している帝都大学附属病院は、赤レンガがあしらわれたルネッサンス様式の建物で、重厚さと美しさを兼ね備えている。特に正面玄関から続く玄関ホールは吹き抜けとなっており、天井からは柔らかな光が差し込んでいた。


 摂子は、玄関ホールから右手に折れた場所にある中庭へと花を誘った。中庭の真ん中には人工的な池があり、周りを緑が覆っている。こんな時でなければ、オアシスのような心地よさを覚えたであろう。他にも何人かがそぞろ歩きをしていた。


「昨夜は眠れた? 私はまだ疲れが取れなくて。これも年かしらね」


 先を歩いていた摂子がふと立ち止まり、こちらに振り返って弱々しく微笑んだ。普段は若々しい摂子だが、その横顔はげっそりとやつれ、目の下のシワが深くなったように見える。花は胸がつぶれ、彼女を励ましたい気持ちに駆られた。


「私も生きた心地がしませんでした。まだ現実を受け止めきれないでいます。奥様は、あまり根を詰めないよう――」

「お花ちゃんこそ大丈夫? 昨日も朝早く来て、夜遅くまで残っていたと言うじゃない。毎日続けてたら体が参ってしまうわ」

「何もできないけど、そばにいないと不安なんです。こうしてるのが一番楽なので」


 そう答えたが、光治がこれ以上悪くなることがあっても、良くなる見込みはない。この状態がずっと続くとしたら、果たして自分は耐えられるのか、正直自信がなかった。


「孝臣はどこに行ったのかしら。内務省に問い合わせたら、光治の報を受けてから仕事を休んでいるって言うじゃない。下宿にもいないようだし、あの子が何を考えてるか分からない」


 そう。事故から二日経ったが、孝臣は姿を消したままだ。見舞いに駆けつけるでもなく、仕事をしているわけでもない。何やら慌てた様子で行き先も告げずいなくなったらしい。それもまた花の心を塞ぐ一因となっていた。


「孝臣さんなりの考えがあるんだと思います。いずれにせよ待つしか……」

「そのことなんだけどね? あれから私考えたの。孝臣は夫としての役割をきちんと果たしているの?」


 突然摂子の声色が変わった。それまで弱々しく気づかわしげだったのが、強さと激しさを内包したものになっている。突然の変化に、花ははっとして顔を上げた。


「ええ、もちろん……今は仕事を優先してますが、普段は仲良く暮らしてますし、何不自由ない暮らしをさせてもらってます」

「そうじゃなくて、夫婦としての生活はしてないの?」


 一瞬、何を言われたか分からずきょとんとしたが、だんだん意味が飲みこめてくると顔が熱くなってきた。二人が本当の夫婦ではないと摂子は言っているのだ。過去の「おままごと」発言がぐわんぐわんと頭の中で響く。


「ごめんなさいね。あなたたちが心配で、キヨから話を聞いたのよ。そしたら、床を一緒にした様子がないというから。こんなこと口を挟むべきでないのは分かっているけど、大事なことだから放っておけなくて」


 何てことだ。キヨは通いのお手伝いだから、二人が夜どうしているか見ていないはずだ。それでも、毎日来ていれば大体想像がついてしまうだろう。キヨはそんなことまで報告していたのかと思うと、花は恥ずかしさのあまりその場から逃げ出したくなった。


「どうかキヨを責めないでやってね。あの子はずっと渋っていたけど、私が無理やり聞き出したの。佐々木はうちに代々仕える家柄で主人の命令には逆らえないから」


 確かにそうだろう。キヨの立場で、花と摂子のどちらに忠誠を誓うかを考えたら明らかである。そんなことは分かりきっているのに、それでも裏切られたという気持ちを抑えられなかった。


「だからってどうということはないから安心して。むしろ都合が良かったとほっとしているの」

「それは……どういう意味ですか?」

「孝臣と別れて光治と一緒になってくれないかしら?」


 摂子の口調は穏やかだったが、花は、頭を石で殴られたような衝撃で身動きがとれなくなった。全身の血の気が引いて一歩二歩後ずさる。それでも、やっとの思いで声を振り絞った。


「は……一体何を……」

「禍物祓いとしての光治は絶望的になった。でもあの子には子孫を残す義務がまだあるの。禍物祓いを輩出できる家は限られている。彼らがいなければ、帝都の安全を保つことはできないのよ」

「でもどうして私が……! 光治さんならいくらでもお相手がいらっしゃるじゃないですか! こんな、使用人の娘じゃなくても、いい家のお嬢さんが……」

「私もね、鬼じゃない。不自由な体になった光治を、少しでも幸せにしてあげたい気持ちがある。それには、見ず知らずのお嬢さんより、お花ちゃんみたいなよく知っている子の方が、あの子にとってもいいと思うの」

「確かに光治さんは私にも優しいし、私も実の兄のように慕っております。でも、男女の仲では――」

「あら、知らないの? 光治はあなたのことが好きだったのよ? 異性として」


 絶句した。まるで訳が分からない。そんな話は一度も聞いたことがない、素振りすら見ていない。花は、口をポカンと開けたまま、摂子の説明を聞いていた。


「本当に身に覚えないようね。昔光治が友達と伊豆へ行ったことがあって、あなたへのお土産を買ってきたのよ? 貝殻で作った首飾り、覚えてない?」

「でもあれは孝ちゃからだって……」

「ああ、そういう話になってるようね。でも、直接渡されたわけではないでしょう? 確か部屋の前に置いただけなのよね。それをあなたは孝臣からだと勘違いした。孝臣も敢えて本当のことを言わなかった。光治は、全て飲み込んで自分の中にしまったのよ」


 駄目だ。喉がカラカラになって声が出ない。呼吸が浅くなりそうになるのを、意思の力で何とか押し留めている。そんな花を眺めながら、摂子は淡々と続けた。


「孝臣もひどいわよね。まだ子供だったとは言え、兄の気持ちを踏みにじって自分の手柄にすり替えたんだから。私が事実を知ったのは後になってからだったの。あなたに本当のことを話そうとしたけど、光治に止められたわ。男性が女性に贈り物をする意味は当然知ってるわよね? あの子にとっては、それが精一杯の行為だった。だから今こそ、あの子の願いを叶えてやりたいの」

「でも孝ちゃの方は……」

「あなたたちが本当の夫婦じゃないなら、こんな都合がいいことはないわ。過去の負い目もあるから、孝臣も強く反対はできないと思う。禍物祓いの血を継承する意味としても、孝臣より光治の方が可能性はあるはずよ」


 摂子の考えはあまりに合理的すぎて、花にはついていけなかった。まるで、機械の部品が壊れたから新しいものに取り替えると言うような。でも、人の心は部品ではない。簡単に代わりが利くものではないのだ。


「ごめんなさい……それだけは承服できかねます……それに、光治さんと孝ちゃの話も聞いてないし……」

「もちろん、まだ何も決まっていない。でも、こうなった以上、常に次善策を考えて動く必要がある。百合塚家の行く末には、多くの人の命が懸かっているの。帝都の平和の前では、個人の幸福なんて些細な問題なの」


 高い使命感と責務を持つ旧家の主人の考えとしては、至極真っ当なのであろう。でも、そこに人間としての尊厳はあるのだろうか。孝臣を思う気持ちすらエゴイズムだと批判されてしまうのか。


 二人とも黙りこくったまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。その時、人気がまばらな玄関ホールの大理石の床を、騒々しく駆けていく姿が中庭からちらりと見えた。


「孝ちゃ……!」


 中庭からは視界が遮られたが、見間違えようがない。一番会いたかった人、孝臣がようやく姿を現したのだ。花は、地獄に吊るされた蜘蛛の糸のように希望が灯るのを感じた。今すぐ会って話をしたい。そのまま摂子を置いて、孝臣のいる方へと駆け出して行った。

 

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