第17話 残酷な運命

「お嬢! 大変です! 光治様が!」

「光治さんがどうかしたの?」


 花は健三の真っ青な顔を見て、ただ事ではないと察した。光治は先日肩を怪我したばかり。普段から危険な仕事に従事しているから、花が最悪の想像をしてしまうのは仕方なかった。


「禍物との戦いで重傷を負ったって――すぐに帝大病院に運ばれたそうです!」


 やはり。嫌な想像が的中して目の前が真っ暗になる。すぐに病院に行かなければと思うが、衝撃のあまり全身がしびれたようになり、うまく力が入らない。何とか自分を奮い立たせ、外出の用意をして健三と共に家を出た。


「孝臣様に知らせなくて大丈夫ですか? 高木様の家に電報を打ちましょうか」

「孝ちゃは職場で知らされたと思うわ。特災課にいれば嫌でも耳に入るし」


 今の時間帯ならまだ退勤はしてないだろう。どうせ遅くまで職場に残っているだろうからと自分の中で結論づける。それでも、こんな時に彼と離れ離れなのはとても不安だった。


 電車を使うのがもどかしいので、タクシーを呼んで帝都病院へ向かう。教えられた個室へ直行すると、全身包帯まみれでベッドに横たわる光治と、憔悴しきった様子で傍に座る摂子が目に飛び込んだ。


「光治さん……!」


 花はそれきり絶句して、ふらふらした足取りで枕元に近づいた。呼びかけに対して光治は一切反応しない。端正で静謐さをたたえた顔は血のりがこびり付き、頭にまかれた包帯は血が滲んでいる。前に会った時には元気だったのを思い出し、あまりに変わり果てた姿に二の句が告げなかった。


「全身打撲の上脳震盪を起こして意識が戻らないの……おまけに左の大腿骨を粉砕骨折していて、もう歩けないんですって……」


 横にいた摂子がしわがれた声で説明する。歩けない? 布団に隠れた部分を想像して身震いする。恐ろしすぎる宣告に、花の心臓は止まりそうになった。


「じゃあ禍物祓いは……」

「もちろん無理に決まってるじゃない……なぜ……なぜ光治がこんな目に! ここまで来るのにどれだけ努力をしたと思ってるのよ!」


 摂子は両手で顔を覆ってさめざめと泣き出した。常に凛としている彼女がこんなに取り乱す姿を、花は今まで見たことがなかった。


 確か摂子は、さる高名な士族の娘と聞いている。いかなる時も己に厳しく、家にいても気を緩めたところを見せない。結った髪がほつれるほど身をよじらせ、声を限りに泣く様はあまりに痛々しかった。


 先日花と会ってから程なくして、光治は仕事に復帰したらしい。肩の痛みも訴えず、いつも通りに職務をこなしていた。今日は品川方面に三体の禍物が出現したと知らせが入り、複数で対応したと言う。


 禍物祓いの中でも、光治は一、二位を争うほどに強いと聞く。なのになぜこんな大怪我を? どうやら逃げ遅れた者たちの中に子供が混じっていたらしい。助けが入る前に禍物の犠牲になった親の亡骸にすがりついて離れられなかった子供がいた。光治はその子をかばって一瞬挙動が遅れたところを禍物に攻撃され、全身を地面に打ち付ける結果となったのだ。


(実に光治さんらしい……昔からそうだった。ぱっと見は冷たい印象だけど、本当は誰にも優しくて温かくて公平なの。こんな高潔な人どこにもいない。なのにどうして……)


 残酷な運命に言葉が出ない。花は摂子の反対側に回り、もう一つの椅子に腰掛け、布団の下から光治の手を取った。異能の力を宿す日本刀を握る右手だ。骨ばった手の平の皮膚はなめし革のように固くなっており、この手で禍物から帝都を守ってきたのだと伝わる。花は肩を震わせながら、じっとうつむき涙をぽたぽたと流した。


「そう言えば、孝臣はどうしたの? なぜ一緒じゃないの?」


 ふと、摂子が思い出したように口を開く。ここは黙っていても仕方ないので本当のことを説明した。


「この時間だと、孝臣さんはまだ仕事から帰ってきません。それに今、別々に暮らしているんです」

「は? どういうこと?」

「仕事が忙しすぎて、内務省の近くに住んでいる同僚の下宿から通っています」

「あなたたち夫婦なんでしょう? いくら忙しいからって、どうしてそんな必要があるの?」


 まなじりを上げて問い詰める摂子を避けるかのように、花は目を逸らした。孝臣と花が「おままごと」夫婦だと看破している摂子でも、今の状況は異常だと映るのだろう。本当にその通りなので何も言い返せない。


「こないだ、孝臣さんも過労で倒れたんです。すぐに復帰できましたけど、それもあって体に負担をかけたくないのかもしれません」

「でも目白から大手町なら遠くないでしょ?」

「きっとそれだけ大変なんだろうと思います……」


 最後の方はしどろもどろになってしまった。それでも摂子は不満顔だったが、すぐに光治の方へと戻った。とにかく今は光治が最優先だ。平常時すらそうなのだから、今は尚更である。


 花は、死んだように目を閉じる光治をじっと見つめた。目が覚めたとしても、自分の足が使い物にならないと知った時どれだけ絶望するだろう。光治のことだ、傍目には動揺や悲嘆を見せることはないだろう。でも、それでいいのだろうか。高潔な人物だって、弱音を吐ける場所は必要なのではないか。


(恋愛の好きとは違う……でも、光治さんの力になりたい。孝ちゃだってそれは許してくれるはず)


 青白い顔で目を閉じる光治を見つめながら、花はもう一度、彼の手を握りしめた。



 翌日も、そのまた翌日も、早い時間帯に花は光治の見舞いにやって来た。聞いたところによると、前日に意識を取り戻したという。しかし、怪我の痛みがひどく、今はモルヒネで眠らせているらしい。何せ、脚を粉砕骨折しているのだ。筆舌に尽くしがたい痛みだろう。花は、己の非力さに打ちのめされながら、せめてもと彼の手を握り続けた。


 昨日より手が熱い。熱があるのは生きている証拠だ。そう思うとしたが、怪我の開口部からの感染症も心配されるという。この時代には、まだ抗生剤が発明されていなかった。だから、感染症で命を落とす者は実に多かったのだ。


(これだけの怪我だと、歩けないだけでなく合併症で命を落とすこともあるってさっき診察に来たお医者様が言ってたわ。そんなことまで考えなくちゃいけないの?)


 可能性を考えるだけで涙がこみ上げてくる。禍物祓いなんてどうでもいい、歩けなくてもいい、せめて命さえあれば。


(お願い孝ちゃ、早く来て! 光治さんが亡くなったら二度と仲直りできないわよ!)


 目をぎゅっとつぶって心の中で強く祈る。気づくと、背後に摂子が立っていた。ドアが開く音にも気づかなかったのだ。


 はっとして後ろを振り返り、慌てて挨拶をする。摂子は、ろくに眠れてないのか、白い顔をしていたが、身だしなみはきっちりしていた。


「お花ちゃん、ちょっといいかしら。話があるの」


 光治がいるにもかかわらず、摂子は部屋の外で話そうと提案してきた。花は不思議に思ったが、摂子の言うことは聞かないわけにはいかない。一旦部屋を出て、おとなしく彼女の後に付いていった。

 

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