第16話 二つの世界

 花は魂が抜けたように、柱にもたれかかる形で縁側に座り、ぼんやりと庭を眺めていた。孝臣の見舞いには、入院した当日しか行けてない。後は健三に用事を頼むことにした。それも一度か二度で済み、翌々日には退院の運びとなった。


 しかし、孝臣はこの家に帰ってこなかった。そのまま高木の下宿に向かうから必要なものを家から持ってきて欲しいと健三に頼んだらしい。高木からも「百合塚さんは私が責任を持って見守りますから」と言われ、従うしかなかったと言う。


「私……すっかり嫌われちゃったな。何がいけなかったんだろう? お弁当を持って行ったこと? それともずっと前から?」

「お嬢、今は待ちましょう。孝臣様はそんな不義理を働く人ではありません。きっと深い理由があるんですよ」

「分からない……! 思えば、浅草の頃からどこかおかしかった! 仕事が忙しくなっただけじゃない! 光治さんに助けてもらったからよ……」


 そう言って両手で顔を覆う。光治のせいじゃないのは分かっている。でも、どうしてあそこに現れたのが彼だったんだろうと何度も考えてしまう。と同時に、命の恩人にそんな気持ちを抱く自分が浅ましく思えて自己嫌悪に陥った。


 孝臣が退院して一週間。週明けから職場復帰するという。わざわざ高木が手紙で知らせてくれたのだ。花を安心させるために報告したのだろう。高木のような人がいてくれてよかったと思う。


 一方、何もやることがなくなった花は、心にぽっかり穴が空いた心地だった。孝臣がいなければご飯を作る張り合いもない。日中は洋間にこもりきり、食欲がないのを見かねて健三が食事を作るも半分近く残してしまう。家の中はすっかり灯火が消えたようだった。


「ねえ……私がここに住み続けるのはおかしくない? 孝ちゃがいないこの家にいていいのかしら? こうなった以上、契約結婚の意味がないのだから出て行った方が……」

「ただでさえ孝臣様は余裕がないのに、その上お嬢がいなくなったら、きっと半狂乱になりますよ。余計に混乱させるだけです。きっと時間が解決してくれます。慌ててもいいことはありません」


 健三が真剣に説得してくれなかったら、本当に出て行ったかもしれない。それくらい花の心は千々に乱れていた。


「このままだと孝臣様より先にお嬢の方が参ってしまいます。ずっと家に閉じこもっていると精神衛生によくありません。どこかお出かけしたらいかがです?」


 そんなことを言われても、帝都の至るところに孝臣との思い出が染みついている。週末ごとのデートがもうずいぶん昔の出来事のように思えた。同じ場所に一人で行ったところで、寂しさと悲しさが募るだけだ。


(そう言えば……一つあった。一人で行った場所が。あの子はまだいるかしら?)


 前に会った時「またおいで」と言われた気がする。正確に言うならば、「きっとまた来るよ」と予言めいたニュアンスだったが。逃れられない運命に引き寄せられる心地は快いものではなかったが、花はしばらくぶりに上野へと足を運んだ。


 あの少年は、前と同じ場所にいた。薄い藤色の燕尾服姿で、掘立て小屋の入り口に所在なげに立っている。なぜ他のところに移動せずこの場所に留まるのか、分からないことばかりだ。


「あれ、お姉さんまた来たんだ。まあ来ると思ってたけど。今日はどうしたの?」

「どうしたのじゃないわよ。はいこれ」


 のん気に無邪気な笑顔を向ける少年に、花はむすっとしたまま紙袋を渡した。


「何これ?」

「シベリアって言ってね、カステラの中に羊羹を挟んだお菓子よ。最近人気なの。おいしいわよ」

「ああこれ! 聞いたことあるよ! へえ、この頃からあったお菓子なんだ?」


 やっぱり言ってることが変だ。悪い子ではないと思うが、得体の知れなさが怖くて警戒心を解くことができない。左目だけ紫色なのもその一因だろうか。花は複雑な気持ちが顔に出て眉間にシワを寄せた。


「ありがとう。本当は食べなくても平気なんだけど、食べる楽しみがないのって味気ないよね。いつまでこんなこと続けなきゃいけないのかな?」

「それより、客が入ってるところ見たことないけど、やっていけてるの? この辺は人もまばらだから別の場所を見つけた方がいいんじゃない?」

「ここじゃなきゃ意味がないんだよ。上野公園というのが大事なんだ」


 いちいち質問を挟むのも面倒くさく、花はげっそりとため息をついた。シベリアをかじる少年の横顔は年相応で、なぜこんなことをするのか分からない。そう思いながら彼を見ていると、向こうから質問をしてきた。


「お姉さんは用事があって来たんでしょう? 何かあったの?」

「別に……いえ、実は主人と喧嘩……じゃないんだけど、うまくいかないことがあって気晴らしに家を出てきたの」

「へえ! お姉さん既婚者だったんだ! そうは見えなかった!」

「子供ぽくて悪かったわね!」

「ごめんごめん。旦那さん何やってる人なの?」

「その……禍物に関係する仕事。禍物祓いしゃないんだけど」

「ははーん。だから禍物に興味を持って講演会に行こうとしたと、そういうことか」


 シベリアを食べ終わった少年は、指をペロペロ舐めながら言った。


「そう、だから禍物がいなくなればいいなあと思ったの。でも、もう一つの世界なんて本当にあるの?」

「あるよ。そこでは禍物は最初から存在しない。お姉さんの旦那さんも苦しまずに済む」


 少年の言葉に、花は息を呑んだ。禍物がいなければ、孝臣の人生はもっと明るかったはずだ。本当にそんな世界があるのなら――。


「その……禍物がいない世界を見たところでどうなるって言うの?」

「禍物にいなくなって欲しいんでしょ? それなら、なぜ存在するのかを知る必要がある。詳しい話はあちらに行けば分かるよ。帝都で何が起きたのか――それを知れば、禍物が生まれた理由も分かるはずだ」

「でも、行ったら戻れないんでしょう?」

「戻れるよ。むしろ戻ってきて欲しいんだ。ただ……」


 少年は紫の目を花に向けた。


「みんな、あっちの世界を選んでしまう。こっちより幸せになれるから」


 花の胸に幸せという言葉が突き刺さる。今が幸せじゃないから、いつも以上に深く胸をえぐられる。


「どうしてそうなるの……?」

「よく分からない。曖昧な表現だけど、運命の歯車のカラクリがそうなっているとしか思えない。ただ、向こうの世界に行けるのは、こっちの世界でのみ存在する人間だけ。お姉さんもその一人」


 突然少年に指を刺され、花はびくっと体を震わせた。


「つまり、私という存在は、もう一つの世界にはいない……?」

「そういうこと。あまり見ないケースなんだけどね。そもそも二つの世界は似てるんだ。人も、出来事も、大体は同じ。例えば、一方で災厄が起きたら、もう一方も何かが起きることで帳尻合わせをしてる」

 

 少年は花に見えるように指を二本立てた。

 

「でも、完全に同じじゃない。だから、片方の世界だけの人も出てくる」


 花は唇を震わせた。自分が存在しない世界があるなんて。考えるだけでも恐ろしい。


「でも、そういう人だからこそ二つの世界を行き来できる。同じ世界に同一人物がいる状況にならずに済むからね」

「どうやってそういう人を見つけるの?」


 すると、少年はニヤリと笑って紫の左目を指差した。そう言えば、初めて会った時、彼の左目が一瞬光ったのを思い出す。


「これで判定するんだよ。こいつが反応するのは久しぶりだったから、お姉さんと会った時はすごく嬉しかった」

「もしかして、轟教授の言ってた証人って……」

「正解! 僕が情報の発信源! でも、みんなあっちの世界へ行ったきりから、断片的な情報しか伝わってない。僕としては、二つの世界をつなぐドアを閉じて欲しいだけなのに!」


 二つの世界をつなぐドア!? ますます訳が分からず目を白黒させる。


「片方の世界にしかいない人が、二つの世界を行き来して、そして、元の世界を選んで帰ってくる。そうすると、世界は『この人はここにいるべきだ』って納得するんだ。そして、繋がっていた通路が自然に閉じる」


少年は遠い目をした。


「理屈は僕にも分からない。世界の摂理、としか言いようがない」


 少年の説明は分かりやすかったが、本当の意味で納得できたか怪しかった。世界が自分の意思を持っているかのように言われても、戸惑うしかない。


「今までも何度かチャンスはあったんだけどね。お姉さんは何人目だと思う?」


 少年が唐突に話題を変え質問した。そんなの分かるはずがない。花は目をぱちぱちさせただけだった。


「条件に合う人間は、一年に一度くらいしか現れない。僕は……もう何人見送っただろうな。みんなあちらの世界を選んだ」


 少年の紫の目に一瞬だけ寂しさが宿る。花ははっとして息を呑んだ。


「だからお姉さんを見つけた時は本当に嬉しかった。今度こそ、って勇気が湧いた」


 少年に熱い目で見つめられ、思わず顔が熱くなる。飄々とした表情の裏に、底知れない孤独を見た思いがした。


「僕のことは気にしないで。誰も干渉してはいけないルールがあるから。自分の選択を第一にして」

「どうやって行くの?」

「ちょっとした道具を使う。お姉さんは見慣れないものだけど……安全だから心配しないで」


 そんなこと言われても……花は心が乱れて何も考えられなかった。ここより幸せになれる世界があるとしたら。一見心惹かれるが、どうしても譲れないものがあった。


「今は……できない。孝ちゃを置いて、別の世界になんて行けない。たとえ、そっちの方が幸せでも」


 少年は予想通りと言うように、静かに頷いた。


「そっか。でも、もし心が変わったら、いつでもおいで。僕はここにいるから」


 花は振り返らずに歩き出した。でも、心のどこかで、もしかしたらいつかまた来てしまうかもしれないとそんな予感がしていた。



 上野から帰ってきた花はまっすぐ家に戻ってきた。もしかしたら孝臣が――なんて、一瞬期待したが、当然ながらそんな奇跡は起こらなかった。寂しそうにため息をつきながら、しんと静まり返った家の中に上がる。


 百合塚家からの使いがやって来たのは、それから数十分後のことだった。


「お嬢! 大変です! 光治様が!」


 使いの対応をした健三が、血相を変えて花のいる部屋に飛び込んできた。


「光治さんがどうかしたの?」


 ただならぬ健三の様子を見て、花は驚いて立ち上がった。

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