第15話 好きだからこそ

 ぐしゃぐしゃに泣きじゃくったまま、健三に付き添われ花は帰っていったようだ。泣くだけの理由がありすぎて、最後は何の涙か分からなかっただろう。


 また泣かせてしまった。孝臣の心は申し訳なさと後悔で満たされたが、自分を責めるだけの気力も体力も残ってなかった。彼女を悲しませたくないが、自分の気持ちは変わらない。やりきれないまま目をつぶるうちにいつの間にか意識を失っていた。


 今までの睡眠不足を取り戻すかのようにこんこんと眠り続け、夜が明け窓から差すカーテン越しの光で目が覚めた。混乱した頭が次第に整理され、昨夜花が訪れたのは夢ではなかったのだと思い返す。


 午前九時ごろに職場から高木がやってきた。彼は一期下の後輩で、仕事でも孝臣と一緒に組むことが多い。だから今回も世話役を任されたのだろう。


「おはようございます、百合塚さん。お加減はどうですか? よく眠れましたか?」

「ああ。体調が戻っているのを感じる。こんな忙しい時に仕事に穴を開けてすまなかった。お前にも迷惑かけたな」

「そんな。いつも助けてもらってるじゃないですか。これくらいどうってことないですよ」


 孝臣が回復傾向にあるのを確認できて、高木は安心しているようだった。この分ならあの話を切り出せるだろう。そう考えた孝臣は思い切って口を開いた。

 

「一つ頼みたいことがあるんだが、お前の下宿、一部屋余ってただろう? しばらくそこを借りられないかな?」

「ええ? そんなの必要ないじゃないですか! 家できれいな奥様が待ってるのに!」

「毎日タクシーで帰るのも大変だし、お前んちなら徒歩圏だから、遅くなっても泊まらずに済む」

「ダメですよ! 昨日、奥様からあなたを働かせすぎないでくれとお願いされたばかりなんです。もうこんな無茶はしないでください」

「俺が無理しないように、お前がそばで見張ればいいじゃないか」


 孝臣の無茶振りに、高木は呆れたようにため息をついた。元より、孝臣の頼み事は断りにくい。それでも抵抗を試みた。


「そんなことしたら奥様が泣きますよ。百合塚さんのためにあんなに頑張っているのに」

「だからだよ。俺なんかのために頑張る必要はないのに。そこまでの価値がない人間のために、辛い思いをさせるのが忍びない」

「そんな……何言ってんですか……疲れてるからそんなことを考えるんですよ」

「どうなんだろうな……とにかく今は、顔を合わせるのも辛いんだ」


 これ以上かける言葉が見つからなかったのだろう。高木は、迷った表情で口を開きかけたが、何も言わずに閉じてしまった。


「下宿についてはおいおい……とにかく今は体を休めてください。復帰するのもお医者様の許可が出てからですからね」


 そう言って高木は出て行った。これから職場に向かうのだろう。彼にも迷惑をかけて申し訳なく思う。


 窓の外は穏やかに晴れている。ここ数日秋雨が降っていたが、この日は透き通った青空が広がっていた。それにもかかわらず、孝臣の心は嵐が吹き荒れていた。


 ぼんやりと昨夜のやり取りを思い出す。まさか、向こうから契約の枠を越えようとするとは。本当なら喜ぶべきなのに、とてもそんな気になれない。


 思えば一目惚れだった。当時十歳だった孝臣は、子連れの未亡人がお手伝いとして入ると聞いて、もし男の子なら遊び友達ができるかもと期待してわざわざ見に行った。そしたら女の子だったものだから、大層がっかりしたのを覚えている。


 しかし、不安げな表情で母にしがみついていた少女が、自分を見てほっとした笑みを浮かべたのを見て、そんな気持ちは吹っ飛んだ。


 あの子は、歳が近い自分を見て安心したんだ。それなのに、同性じゃなくてつまらないと思った自分が恥ずかしい。何が「男女七歳にして席を同じゅうせず」だ。そんなの関係なく仲良くすればいいじゃないか。幼いながらもそう思った。


 幸い、とやかく言う大人は周りにはいなかった。花の母のはるだけはしばしば恐縮していたが、それは使用人の子供と主人の子供が同じ扱いを受けることを遠慮したからだ。孝臣は身分の上下で区別するのを嫌い、両親や光治も反対しなかった。そこだけは家族に感謝している。


 最初のうちは光治も含めた三人で遊んでいたが、禍物祓いの才能が開花した兄は、勉強か修行に追われることが多くなった。その結果、花と孝臣だけで遊ぶ時間が増え、二人の絆はより強いものになった。


 だから、光治が花のために旅行の土産を買ってきたと知った時は、天地がひっくり返るほどびっくりした。光治が十五歳の時、友人数人と伊豆へ小旅行に行ったことがあった。その時、家族だけでなく使用人の娘の花にも密かに土産を買ってきたのだ。しかし、本人に直接渡すのは恥ずかしかったらしく、彼女の部屋の前の廊下にそっと包みを置いただけだった。それを花は、孝臣からのものだと勘違いしたのだ。


「孝ちゃありがとう! でもどうして直接渡してくれなかったの?」

「え? 何のこと?」

「貝殻の首飾りよ! 部屋の外に置いたでしょう! 水臭いんだから!」


 何も知らなかった孝臣は、最初聞いた時は訳が分からなかった。だが、花から話を聞くうちに光治がやったとすぐに分かった。いかにも奥ゆかしい兄がやりそうなことだ。


(ってことは、兄さんはハナちゃんを好きなんだ。でなきゃ、首飾りなんてあげるはずがない)


 男が女に贈り物をする意味なんて、子供の孝臣にも分かりきっている。ただ、自分はまだ、花を異性として強く意識したことはなかった。そんな面倒なことをしなくても、花には自分しかいないだろうと漠然と思っていた。だから、光治の大胆な行動に驚かされたのだ。


(そんな、許せない。兄さんはずっといなかったじゃないか。僕の方がハナちゃんと仲いいんだ)


 にわかに黒いモヤが心の中に湧き出る。こんな感情は初めてだ。でも、一度認識してしまったらもう取り消せない。孝臣は、考えるより先に口走っていた。


「そうだよ。ハナちゃんが気に入ってくれればいいんだけど」

「気に入らないわけないじゃない! 一生の宝物にするから!」


 一生の宝物。この言葉が今も孝臣の心に突き刺さっている。あれは兄の思いだったのに、自分がかすめ取ってしまった。花は今でもあの首飾りを大切にしているのだろうか。孝臣の思いだと信じて。


 この後、光治からは何も言われなかったが、孝臣は己の欺瞞に長く苦しめられる羽目になった。それでも、憧れの禍物祓いになって活躍すれば、そんな些事など忘れられるだろう。漠然とそう思っていた。


 百合塚家に生まれた以上、禍物祓いになるのは既定路線だ。それこそが生まれた意味のはずだった。


  だが、本人と周囲の思惑から大きく外れ、孝臣は異能を開花させることができなかった。普通は十代前半で、遅くとも後半になれば顕現するはず。彼の十代の半分は、焦りと苛立ちと諦めで塗りつぶされることとなった。


 兄はすでに禍物祓いとして父の下で働き始めている。一方、孝臣は、どれだけ血の滲むような修行をしても一向に進歩がなかった。せいぜい禍物の気配を察せるくらいが関の山。これでは全く使い物にならない。


 厳格な父は、孝臣を激しく責め立てた。見るに見かねて母と光治が仲裁するが、その程度で父の怒りは収まらない。言葉だけでは飽き足らず折檻もされたが、孝臣は甘んじて受けることしかできなかった。


 そんな中、孝臣の中で膨れた憎悪は父ではなく光治に向けられた。何事もそつなくスマートにこなす光治。父の期待に応え、臣民からの信頼も厚い兄。


(できそこないの俺とは何から何まで違う。それなのに余裕ぶって、不肖の弟にお情けまでかけてやがる。何て慈悲深いお兄様なんだ。ありがたくて涙が出てくるよ)


 憐れまれる屈辱は何よりも耐えがたい。正しいのは兄の方なのは分かってる。でも、その正しさが腹立つのだ。兄弟の断絶は決定的なものになった。光治が孝臣の味方をすると、かえって憎まれるというおかしな事態になってしまった。


 このまま心が荒みきって堕落してもおかしくなかったが、それでも何とか踏みとどまった。そして、次善策として、帝大を出て官吏になることを目指した。禍物祓いになれないのならせめて、それに関係した職に就いて罪滅ぼしをしたいと願ったのだ。当然、その程度で父から認められることはなかったが。


 父は、出来の悪い次男を蔑んだまま、三年前に亡くなり、光治が家督を継いだ。この頃になってやっと、孝臣の身辺が落ち着いてきた。それまで自分のことで精一杯だったのが、やっと周りに気を配る余裕ができたのだ。


(そういやハナちゃんはどうしているんだろう……はるさんが再婚して出て行ったきり何も聞いてない)


 孝臣はその時初めて、花の両親が事故死したことを知った。そしてお家騒動に巻き込まれ家を追い出されて消息不明になっていることも。初恋の子がそんな目に遭っているなんて予想もしてなかった。


 自分も少し余裕が出てきたし、窮状に陥っている花を救ってやりたい。そう思い、慌てて捜索を始めたが、探し出すまで困難を極めた。一年以上かけて、下町の長屋に住んでいるところまで突き止めた。そして、彼女に会うために偶然を装って東京駅に行ったのだった。


 貧しい暮らしをしていると言うが、十年ぶりの花はどんな姿をしているのだろうか。辛い想像までしていたが、東京駅で歌うアルプスの少女は、溌剌としていて憎らしいくらい強かだった。しまいには警官から追いかけられるのを見た時には、孝臣は涙が出るくらい笑っていた。


(こんなに笑うのは久しぶりだな。ハナちゃんは何も変わってなかった。あの頃のまんまだ……)


 ずっと陰鬱な雲が垂れ込めていた孝臣の心は、たったこれだけですっかり快晴に変わった。彼にとって太陽のような存在の花。会えなかった月日を軽く飛び越え、一瞬で魅了されたのも無理のないことだった。


 契約結婚の提案は、花に楽な生活をさせてやりたい一心からだった。「契約」という縛りを作ったのは、自分に自信がなかったから。結局、禍物祓いになれなかった自分を今でも許せないでいる。こんな自分が本当に愛されるはずがないが、契約の枠組みなら納得してもらえるだろう。そんな思惑があった。


 それだって、いざ始まったら予想外の連続だった。好きな人と一つ屋根の下にいるのに指一本も触れられないのは拷問に近い。しかもその枷を作ったのは自分自身なのが笑える。紳士でいなければ。そう思うあまり、泥酔したところを花に介抱されて服を脱がされかけた時は、必要以上に当たり散らしてしまった。つくづく己の青さを呪う。


 花が一人で光治に会いに行ったと聞かされた時も、狭量な心を晒してしまった。光治が彼女を好きだったのを知っているから。光治なら彼女を幸せにできるだろうという考えがどこかにあるから。醜くも過剰反応してしまったのだ。


 花は不幸な運命でも自分を曲げない強さがあるのに、自分は弱いまま。こんな自分に花を愛する資格はあるのだろうか。花を幸せにできる人物が他にいるような気がして、孝臣は枕に顔を埋めて忍び泣きをした。


 

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