第14話 あがいてもあがいても

 弁当を差し入れしてもアイスクリンを作っても気休めにしかならないことは、花が一番よく分かっていた。そんな程度で孝臣の苦労を軽減できるはずがない。それでもただ黙って見てるなんてできない。手を動かしてないと気が済まないのだ。


(内務省で聞いた会話も大概だったけど、孝ちゃはのめり込むタイプだと光治さんも心配してた。このままじゃ本当にどうにかなってしまうわ。そうなる前に手は打てないの?)


 悶々としながらも、内務省に通って夕食の弁当と着替えを届けるだけの日々。運が良ければ、孝臣が直接受け取りに来てくれるが、そうではない日の方が多かった。たとえ会えたとしても一瞬だけ。職場に泊まった翌日もでも身だしなみはきっちりしていたが、さすがに疲労の色は濃くなっていた。


「昨夜眠れたの? 目の隈が目立ってるわ」

「平気だよ。今日は帰れるから。ハナちゃんこそ無理しないで。毎日来なくていいって言ったじゃないか」


 帰れると言ったって、どうせまた午前様でしょ、と心の中で愚痴を吐く。それに、もう一つ気になることがあった。家にいてもほとんど顔を合わせる機会がないから、一目だけでも内務省に通っているのに、孝臣の方は、花を見ると一瞬顔がこわばるのだ。特に最近その傾向が出ている気がする。まるで、花に会うのを避けるかのように。嫌われるようなことを知らず知らずのうちにしていたのだろうか。


「そんなの気のせいですよ。孝臣様はいつもお嬢を第一に考えてるじゃないですか。気を遣ってくれてるんですよ」


 健三はこう言って慰めてくれるが、どうにも心が晴れない。そんな日々が一ヶ月ほど続いたある日、とうとう孝臣が職場で倒れたという電報が届いた。


「やっぱり! いつかこうなるんじゃないかと思ってた! すぐに病院に行かなくちゃ!」


 カタカナで書かれた手短な内容の電報では事の詳細が分からない。無機質な文体のせいで余計に不安が煽られる。空が暗くなる頃合いだったが、花はタクシーを呼んで、健三と共に病院に向かった。


「孝ちゃ! 大丈夫?」


 気が動転していたため、公共の場所にもかかわらず、いつもの呼び方になってしまう。孝臣は、点滴につながれた状態で、血の気のない顔で眠っていた。華族ということで配慮されたのか、特別個室があてがわれている。


「お医者様によると、過労で倒れたとのことです。数日体を休めて滋養のあるものを食べれば長引かずに回復するとおっしゃってました」


 そう説明してくれたのは、前にも泥酔した孝臣を家まで運んでくれた同僚の高木だった。


「何度もありがとうございます……確か以前も助けてもらいましたよね」

「いえ……百合塚さんに助けられているのは私たちの方です。これくらいどうってことありません。本来ならば、上司が駆けつけるのが筋ですが、今どうしても手が離せない状況でして。代わりに私が来ています。ご無礼をお許しください」


 折目正しく高木が頭を下げる。花の立場で、特災課の仕事に口を挟めるわけがない。本音では、孝臣を酷使しないでほしいと言いたいがぐっと我慢する。


「皆さん大変な状況なのは承知してます。彼のことだから、復帰したらすぐに今まで通り働くと言い出すでしょう。でも、少し仕事量を減らしていただけるとありがたいのですが……」

「はい、それはもう、もちろんです。私からも上に働きかけます」


 高木がそう言ってくれたので、花はほっとした。ベッドで眠る孝臣に目を移す。青い顔で気を失ったように眠る彼を見ていると、このまま息が止まったらどうしようと不安に駆られる。高木がいなかったらその場で泣いていたかもしれない。


 そんな中、高木が言いにくそうにしながらも口を開いた。


「あの……百合塚さんが起きる前にお知らせしたいことがあります。前にも申しましたが、彼は元から仕事熱心ですが、特にここ最近は鬼気迫るものがありました。おそらく、浅草の一件が影響してるんだと思います」

「ええ? そこまで……?」


 その話は孝臣からすでに聞いていたから、それほど驚かないはずだった。しかし、高木から聞いた話は、予想を上回るものだった。


「あの時駆けつけた禍物祓いは、お兄様の光治さんでした。それで、兄弟だから優遇されたのではと一部で噂が立ったんです。つまり、弟の危機に家族のコネを使ったんじゃないかと」

「バカなこと言わないで! そんなはずがないでしょう!」

「はい、もちろんその通りです。ですが、部外者ほどあれこれ邪推するみたいで……」

「信じられない……どうしてそんなひどいことを言う人がいるの?」


 悔しくて視界が滲む。くだらない憶測なんて無視すればいいのに、孝臣はそれができなかったのだろう。光治との関係がこじれているのも拍車をかけたに違いない。彼の悔しさと屈辱感が手に取るように理解できる。


「百合塚さんは、出自を鼻にかけたことは一度もありません。むしろ、誰よりも謙虚で身を粉にして働いています。それでも、色眼鏡で判断する人が後を絶たないんです。特災課の中でも微妙な立場で……だから実力で認められたいんだと思います」


 それを聞いたら、涙があふれだすのを止めることができなかった。なぜ孝臣ほどの人がこんなに苦しむ必要があるのか。彼の枕元で花は、同じ問いを何度も繰り返した。


 そのうち高木は、一度職場に戻りますと退室したので、花と健三だけが取り残された。外はすっかり暗くなり、雨がしとしとと降っている音が聞こえる。二人ともずっと無言のままだったので、雨の音が病室内によく響いた。


 孝臣が目を覚ましたのは十時ごろになってからだった。ぼんやりと目を開け首を動かす彼に、花も健三もはっと息を呑む。


「あれ……ハナちゃん、どうしたの?」

「職場で倒れて病院に運ばれたのよ! 過労のせいだって高木さんが言ってた。お願い、無理をしないで! このままじゃいつか死んじゃうわよ!」


 そう言うと、こらえきれずに彼の枕元に突っ伏してわんわんと泣き出した。幸いここは個室だ。同室の人に迷惑をかける心配は少なくともなかった。


「ごめんね……いつもハナちゃんを悲しませてばかりいるね。不甲斐ない……」

「なんで謝るの? 私こそ孝ちゃの力になりたいのに何もできない。どうしたらいいの!」

「いいんだよハナちゃんには関係ない。これは僕の問題だから」

「そうやって突き放すのはもうやめて。今まで我慢してきたけど、もう耐えられない。孝ちゃのために私も何かしたい」

「今までで十分すぎるよ……そのことなんだけど」


 孝臣は一旦言葉を切ってから、少し時間を置いてまた話し始めた。


「うちからだと職場まで時間がかかるから、退院したら高木の家にしばらく居候させてもらおうと思ってる」

「何を言ってるの?」


 驚きのあまり目を丸くする花に頓着せず、孝臣は掠れた声で淡々と言葉を紡いだ。


「高木は職場の近くで下宿してるんだ。もう一人なら余裕があるって言うから……それならば職場に泊まる必要もなくなるし、ハナちゃんがお弁当を持ってくる手間も省ける」

「いや、そんなのいや。さっき高木さんにも、孝ちゃを働かせすぎないでってお願いしたばかりなの。仕事は他の人に任せて、しばらくお家で休みましょうよ」


 孝臣は複雑な表情のまま黙りこくる。花の提案には否定的なのだろう。


「体が壊れたら身も蓋もないわ。もっとそばで孝ちゃを支えたい…………ねえ、前から考えてたんだけど、契約結婚じゃなくて本当の夫婦にならない?」


 唐突な言葉たったが、心の中でずっと考えてきたことだ。孝臣を思うたびに「契約結婚だから」という心の枷が邪魔だった。今となっては意味がないくらい深入りした後なのに。もうだいぶ前から、何なら子供の頃から、彼を好きだったじゃないか。


 病身にもかかわらず、孝臣は思わず上半身をもたげて、花をまじまじと見つめた。


「いきなり何を言い出すの……」

「ずっと前からそう思ってたの。そうすればもっと孝ちゃの力になれるかなって」


 花は孝臣の手を握りしめた。

 

「契約なんてもういらない。私、本当の意味であなたの妻になりたい。そばにいさせて」


 小首を傾げ心配そうに問いかける花だったが、心のどこかでは本当に断られるとは思ってなかった。孝臣の真心は十分届いている。だから、彼が花の手をほどいて、黙って顔を背けてしまった時、心臓が止まるくらいにびっくりした。彼は、しばらく反対側を向いたままだったが、やがて静かな声で告げた。


「今はまだその時じゃないと思う。ごめん、ハナちゃんのせいじゃない。自分の中で整理ができてないんだ。大事な話だから少し考えさせて」

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