第11話 決して越えられない壁

 孝臣、お花ちゃんを連れて逃げなさい。


 混乱と無秩序の中にあって、光治の言葉は光の矢のごとく孝臣の心臓を貫いた。


 孝臣の中で光治は絶対的な権力者だ。権力者の言葉は疑問の余地なく従わなければならない。


(でも俺にできることは? 逃げ惑う人たちを導かなくてはならないのでは? 本当にこのままでいいのか?)


 湧き起こる疑問を、彼の脳内にいる「光治」が冷たく却下した。


『お前は何もできない。花を守ることすら兄に頼るしかない無能者だ』


(ああそうか……俺にできることは何もないものな。俺は「能無し」だから)


 実際には光治から「能無し」と言われたことはない。それどころか、配慮された記憶ばかりである。能無しとは己の内から発せられた言葉に過ぎない。


 孝臣が逡巡する間にも、現実の光治は光のような速さで禍物に突っ込み、一太刀を浴びせていた。


(ああこの背中、この光景。嫌と言うほど見てきた)


 家で血の滲むような修行を続けた日々。何度あの背中に憧れただろう。孝臣は血が出るほどに唇を噛み締めた。


 花を助けた十年前よりも更に光治は進化していた。今や祝詞を上げなくても、日本刀に異能の力を込めるだけで戦えるようになっている。重力すら凌駕し、凌雲閣と同じ高さまで跳躍して禍物と対峙していた。


「何してるんだ、孝臣! 早く逃げろ!」


 光治の叫びに孝臣は我に返る。そして、花の手を握り全速力で走り出した。


「孝ちゃ、いいの!?」

「兄さんに任せておけば大丈夫だ。僕たちは安全なところまで逃げよう!」


 一旦頭を切り替えたら、花を安全な場所へ逃すことだけを考えた。花の腕を引きちぎらんばかりに全速力で走る。何があっても絶対に彼女の手を離すまいと誓いながら。


 数百メートルほど離れた辺りだろうか。背後で轟々という地響きと共に何かが崩れるような音が轟いた。一緒に逃げていた者たちは、はっとして後ろを振り返る。


「あれを見て!」


 同じく背後を確かめた花が、尋常ならざる剣幕で叫んだ。他のみなも思わず足を止めて、目の前の信じられない光景に目が釘付けになった。


「ああ……何てことだ……」

「浅草のシンボルが……」

「まだ残ってる人はいないのか?」


 先ほどまで上っていた凌雲閣の展望台の部分が、見るも無惨に大きく崩れ落ちていた。一階から十階までは総レンガ造りだが、展望台の十一階と十二階は木造なのでこのようなことが起きたのだろう。もうもうと煙が上がるのが見え、こちらまで破片がパラパラと舞い落ちてくる。


 孝臣は、崩れ落ちる展望台を見ても不思議に静かな気持ちだった。ただ、一つの時代が終わったような寂寥感が彼の中を満たした。


「光治さんは!? 光治さんは無事なの?」

「きっと大丈夫だ。この程度でやられる人ではない」


 現場を見ていないにもかかわらず、孝臣には絶対の自信があった。今のは禍物が建物にぶつかった衝撃で起きたものだ。光治が仕留めたのだろう。不快極まる感覚も途絶えているのがその証拠だ。


(禍物は迅速に倒された。兄さんも無事だ。十二階の損傷は大ごとだが、人への被害は最小に抑えられた)


 ほっとすると同時に、重苦しい気持ちがよみがえった。結局自分は何もできない。大切な人を守ることすらできない。それは光治の役割なのだ。


(この役立たずめ……)


 そんなことを思いながら重い体を引きずって再び歩き出した。



 浅草に禍物が襲来した事件は、連日新聞の一面を飾った。怪我人は出たものの、繁華街にありながら奇跡的に死者は出なかったこと、迅速に禍物が倒されたことを華々しく書き立てる一方で、凌雲閣が致命的な損傷を受けたニュースは、人々の心を暗くした。


 近年、入場者数が減っていて経営不振が囁かれていたが、損傷部位を直す費用が捻出できずこのまま解体されるらしい。倒壊した展望台だけでなく、レンガ造りの部分もひどい損傷を受けているとのことだ。数週間後にダイナマイトで爆破されることが決定した。


 花は、久しぶりに百合塚家を訪ねた。光治に会ってお礼を言うのが目的だ。孝臣が言ったように、光治は無傷のまま任務を遂行した。この件で、禍物祓いの中でもとびきり優秀だと光治の評判は一層上がった。この日は非番で家にいると聞いたので、わざわざ赴いたのだ。


「先日は命を助けてもらって本当にありがとうございました。お礼のしようがありません」


 開口一番、丁寧に礼をする。この時の光治は藍色の麻の着流し姿で、池の鯉に餌やりをしていた。その横顔は、浅草で会った時とは打って変わって穏やかでリラックスしている。孝臣とはまた違った高貴さが備わっていた。


「まるで他人行儀じゃないか。相手が誰であろうと任務をこなすだけだからかしこまらなくていいんだよ」


 光治が苦笑しながら返す。堅苦しい挨拶は抜きにしようと言ってきたので、花も彼と一緒に庭園を歩きながら話をした。


「いいえ、けじめとしてきちんとお礼はしなくては。まさか、あんな場所で光治さんとばったり会うとは思いませんでした」

「私もだよ。孝臣から緊急連絡があったのは知ってた。だが、現場でも出くわすとは。帝都も広いようで狭いね」


 光治はさりげなく言ったが、花には不思議な巡り合わせとしか思えなかった。何て皮肉な運命なんだろう。あの日から何度となく考え続けている。


「孝臣はどうしてる? 浅草の件で忙しいだろう?」

「ええ、毎日午前様になるし、職場に泊まることも珍しくありません」

「我々は禍物を処分したらそれで終わりだが、特災課はここからが始まりだ。しかも、人間を相手する方が何倍も面倒くさい。孝臣の方が私より苦労してると思う」


 光治はそう言ってくれるが、孝臣はそう考えていないことは火を見るより明らかだ。どれだけ努力しても兄には近づけない。働けば働くほど己の無力さを痛感する、それが孝臣の本音なのだろう。彼の気持ちを思うとと花は胸が塞いだ。


「私自信がなくて……孝ちゃの妻に本当になれているのか。苦しんでる彼を支えたいのに何もできない。ただ見ているだけしかできない。不甲斐なくて泣きたくなります」


 気付くと、光治の前で弱音を吐いていた。花にとって光治は「一見とっつきにくいけど頼りになるお兄さん」だ。もう大人なんだからいつまでも子供気分じゃいられないと自らを戒める一方、昔の関係に戻りたいと思う自分もまた存在している。


「うーん……お花ちゃんは十分によくやってるよ。孝臣を救えるのは他にいないと思う」

「まさか! 私何も……」

「ただそばにいるだけでいい。孝臣が助けを求めた時に手を差し伸べられる位置にいれば十分だ。あいつもそれを望んでると思う」

「そんな……」

「私じゃ無理なんだ。禍物祓いなんかならなくてもいいと言ったところで嫌味としか受け取られない。何を言っても裏目に出るんだ。だから、お花ちゃんが来てくれてすごく喜んでるんだよ」

「本当ですか……!?」


 まるで信じられない。摂子が「おままごと」「吊りあわない」と言っていたことを思い出す。光治は違う考えなのか。


「本当だ。今回のことも、孝臣があの場にいてすぐに通報してくれたから迅速に動けた。あんな人の多い繁華街で一人の死者も出なかったのも彼の采配が功を奏したからだ。ただ、本人だけがそれを信じない。理解させられるのはお花ちゃんだけだと思う」


 手放しで褒められて顔が赤くなる。光治は昔からこういう人だ。決して他人を否定しない。どんな人にも美点を見出し評価する。感情表現が下手だから、初見だと勘違いすることもあるが、彼の人となりを知れば悪く言う人はいない。


「ありがとうございます……何だか勇気が出てきました。お話できてよかった」


 安堵のため息をもらしながらそう言うと、光治は控えめに微笑んだ。昔から知っている花でなければ見逃すほどの笑みだった。


「そう言えば髪の毛切ったんだね。お花ちゃんが断髪するとは意外だった」

「おかしく……ないですか?」

「まさか。よく似合ってる。時代も変わったね。私は少し古い人間だから、最初は驚いたけど」

 

 光治が穏やかに微笑む。その笑顔は、十年以上前と同じ表情だ。

 

「十分かわいいよ……と言いたいところだけど、こんなところ見られたら孝臣に怒られてしまうな」


 確かにこんなところを孝臣に見られてはまずい。下手すれば痛くない腹を探られることにもなりかねない。でも光治から断髪を褒められるとは思わず、はにかんだ笑みをもらした。


「光治さんに褒めてもらえて嬉しい……実は孝ちゃが勧めてくれたんです」

「そうなんだ。新しいものに偏見がない孝臣らしい」

「そう、孝ちゃは心が広くて、すごく大事にしてくれます。私には過ぎた人です」


 そう言ってから自分がのろけていることに気づき、耳まで真っ赤になる。そんな花に、光治は朗らかに笑いかけた。

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