第10話 十二階の惨劇

 浅草凌雲閣は、別名浅草十二階とも言われ、眺望用に造られた、当時ではトップクラスの高層建築物だった。周りは低層建築ばかりだったので、てっぺんからの眺めは関八州までカバーしたと言われている。明治に建てられた当初は、眺望目当てに客が押し寄せたが、この頃になると客足が遠のき、ふもとには私娼窟もできたりした。そんな事情もあり、花は一人で訪れたことがなかった。


 入場料を払い中に足を踏み入れる。十一階と十二階が展望台となっており、途中は土産物屋が並ぶ構造だ。花と孝臣は途中の階段に飾られている芸妓の写真を眺めながら最上階まで上った。


 天気がいいのが幸いし、この日は遠くまで景色が見渡せた。そのせいか、他の客の姿もいつもより多いようだ。二人は、見慣れない眺望に胸を躍らせた。


「ねえ見て。富士山が見えるよ。今日晴れててよかった。上野も手が届くほど近くに感じる」

「本当にどこまでも見渡せるのね。女王様になった気分だわ」

「帝都で一番高い建物だもんね。望遠鏡があるから見てみなよ」


 童心に返ってはしゃいでも別に気に留める者はいない。きっと初々しい新婚夫婦に見えたのだろう。


「本当に不思議ね。ここに来れば遠くまで見渡せるのに、足元はよく見えないんだから」

「灯台下暗しってやつだね。もしかして十二階下のこと言ってる?」


 花は頷く。この辺りには俗に十二階下と言われる私娼窟が発展していて、花やかな浅草の裏の顔とも言えた。光あるところには必ず影が付きまとう。そんな万物の法則がここでも生きていた。


「ここは空気が澄んでいて、家族連れもたくさん来て、みんな無邪気に遊んでいるのに、すぐ下では違う世界が広がっている。何か不思議ね」

「時々考えるんだ。禍物もそんなものじゃないかって。進化の過程で隅に追いやられた存在が具現化したものが禍物になると言われてるじゃないか。それなら僕たちが元々持っている一面に過ぎないわけだ」

「孝ちゃったら休みの日でも仕事なんだから……」


 花は笑って受け流そうとしたが孝臣の顔は真剣だ。それに気付いて慌てて口をつぐむ。花も、上野の講演会と少年の姿が脳裏をよぎった。


(もう一つの世界とやらと関係があるのかしら? いけない、結局あの子の術中にはまってるじゃないの)


 花の内心などつゆ知らず、孝臣は遠くを見つめながら淡々とした口調で語り続けた。

 

「人に仇をなすからって片端から倒してるけど、本当にそれでいいのかなと思う時もある。自分自身の一部を否定し続けても意味ないんじゃないかって。禍物祓いになれない僕だからこそ、そんなことを考えてしまうのかもしれないけどね」


 花は何も返せなかった。この挫折体験は、孝臣の中で重くのしかかっているはずだ。禍物祓いの家に生まれてこのような考えを持つこと自体禁忌に近いものだろう。彼も普段は押し隠しているに違いない。


「孝ちゃは色んなことを考えながら仕事してるんだね。何かあったら溜め込まずに相談してね」


 せいぜい自分に言えるのはこのくらいだ。彼の苦しみを取ってやりたいが、自分はそばにいることしかできない。それが歯痒い。


(これじゃ、ますます上野の話なんて相談できないじゃない。孝ちゃにこれ以上背負わせてはいけない。私は足を引っ張りたくない)


 それからしばらくの間、二人は遠くの景色を眺めて雑談を続けた。十五分ほど経過した後だろうか、そろそろ下に戻ろうと花が切り出そうとした時、ふと、花は妙な違和感を覚えた。空気が重くなったような――いや、気のせいだろうか。孝臣は突然、弾かれるように身を正して、辺りをキョロキョロと見渡した。


「孝ちゃ、どうしたの?」

 

 孝臣はそれに答えず、望遠鏡のところに行って北の方角を覗く。そして、震える声で呟いた。


「禍物が来る……」

「えっ?」

「北だ。こっちに向かってまっすぐ来る」


 孝臣の顔が青ざめた。花はそんな彼を見たことがなかった。肉眼では何も見えない。孝臣から望遠鏡を渡され、レンズを覗くと、黒いモヤみたいなものが山の稜線に係る形で小さく見える。


「あれが禍物なの?」

「そうだ。独特の嫌な気配も同時に感じる。遠くからでも分かる。今からすぐにここから離れよう」

「あんなに遠くなら、こっちに来るか分からないんじゃ?」

「気配がこちらに向いている気がするんだ。見た目は遠いけど、気配は先にやって来る」

 

 花はピンと来なかったが、孝臣は本気だった。二人は急いで建物から出た。周囲の人は、禍物の気配に気付く素振りもなく、賑やかな雰囲気のままだ。


「今すぐみんな避難させた方がいい。気配がどんどん濃くなる」

「気配って言うけど何も変わった様子はないわよ?」

「僕は禍物祓いじゃないけど、この程度の気配は察知できるんだよ。だから、関係機関で働いている」


 そして、電話を借りて内務省の禍物対策課に連絡をした。上から避難指示を出してもらうように交渉し、他にも関係機関に連絡を取っているようである。


 しかし、いつまでものん気な雰囲気は変わらなかった。

 

「クソ! 上は何をしてるんだ! まだ何の動きもないじゃないか! 禍物は標的を見つけたら一瞬で来てしまう。ここはハナちゃんだけでも逃げて!」

「標的って何のこと?」

「まだ研究段階ではあるけど、禍物はただ無軌道に暴れるんじゃなくて、その時々の目的があるんじゃないかという説がある。こっちに来ると言ったのも、そんな意思を感じたからだ」

「意思って禍物の?」

「禍物は強い感情を持つ者を狙うという説もある。でも、感情は目に見えないし再現性もない。特定の誰かを標的にしているのかもしれないけど……今はそれどころじゃない」


 孝臣はここから逃げるようにと花を繰り返し説得した。しかし、孝臣を置いて逃げられるわけがない。彼は現場に残り、最後まで指揮をとり続けるだろう。


「私も孝ちゃのそばにいたら駄目?」

「駄目に決まってるだろう! ハナちゃんの身に何かあったら僕は……とにかく逃げて!」


 髪を振り乱し汗だくの孝臣に、周りの人が奇妙な視線を投げかける。辺りは何の気配もないのに、一人で息巻いてるのが奇妙に見えるのだろう。ここで孝臣が周りの人に呼びかけても気が触れてると思われるだけだ。隣にいた花もどうしたらいいか分からず、やきもきすることしかできなかった。


 その時だった。完全日食が起きたかのように、何の前触れもなく一瞬で空が真っ暗になった。流石に周りの人もただ事ではないとざわめき出す。花と孝臣もその場で立ち尽くした。場所は、浅草公園のひょうたん池付近だ。


 それから禍物が現れるまであっという間だった。真っ黒なモヤのようなものが地面に落下――見た目にそぐわず重量感のある衝撃音が辺りに響いた。


「孝ちゃあれ!」


 二人から五十メートルくらい離れたところで、黒いモヤのような異形は身を起こした。花にも見覚えある、前回は百合塚家で遭遇した――禍物だ。


 前のものより大柄に見える、体長はゆうに三メートルを越えているだろうか。前回にもあった嫌な臭いとうめき声で長らく眠っていた不快感を思い出し、花は胃液が込み上げる感触を覚えた。


(まさか目の前に現れるなんて……! しかも前に見たやつより大きい! 強さも違うのかしら?)


 その場にいた人たちは、金切り声を上げて一斉に逃げていく。大人も子供も関係なく、蜘蛛の子を散らすように駆けていく。そんな中、花と孝臣だけが動かずに残っていた。


「ハナちゃん! 逃げろ! どこでもいいからすぐに!」

「孝ちゃは?」

「みながここから避難して禍物祓いが来るまで残る。安全を確保しないと――」

「そんなことしてたら孝ちゃまでやられるわ!」

「僕のことはいいから! ハナちゃんは行って!」

「嫌! 私も一緒にいる!」

「バカ言うな! そんなことしたら――」


 禍物は、顔らしきものをこちらにぐいと向けて、まるで獲物を品定めするかのように首を傾げた。そして興味を惹かれたように、足音も立てずにのろのろと近づいてくる。それに気付いた二人は、はっと息を飲んだ。


(何? 今の? 私たちを認識したの? まるで思考があるような)

「クソ……『標的』にされたか」

「標的!?」


 つまり自分たちが狙われているということか? 花は、先ほど孝臣が言っていたことを思い出し背筋が凍った。


 禍物はゆっくりとした歩みでこちらに寄ってくる。目なんてないのに、じっと凝視されてるような心地がして冷や汗が止まらない。孝臣は、花を庇うように前に出て禍物と対峙した。

 

(孝ちゃには、禍物を倒す力がない。私を守る術もない。それでも――)

 

 そう知りながらも、孝臣の背中を強く掴んだ。彼の体が小刻みに震えているのを感じる。恐怖からではない。自分の無力さに対する悔しさだろう。花もそれを理解していたからこそ、より強く彼にしがみついた。


 禍物との距離が数メートルまで迫っている。このまま無惨に殺されるのか。そんな考えが頭をよぎり、ぎゅっと目をつぶった瞬間、目も眩む光が両者の間を隔てるように走った。


(これは、まさか!)


 もうもうと上がる砂煙の向こうで、禍物がよろめくのが見える。視界が晴れてくると、鮮やかな藍色が浮かび上がってきた。禍物祓いが来てくれた、助かったんだ!


 だが、耳に入った声を聞いて、花は頭が真っ白になって全身が凍りついた。


「孝臣、花ちゃんを連れてすぐに去りなさい」

「…………光治さん!」


 何という偶然か。正に十年前の焼き直しだ。その声はあの時と同じく冷静で、しかし絶対的な安心感を与えてくれた。収まった砂煙の向こうには、打刀を抜いた藍色の制服姿の光治が立っていて、まるで時が舞い戻ったかのように、凛として佇んでいた。


(何て神々しいんだろう……憧れても決して届かない光、それが光治さんなんだ)


 花の胸に複雑な感情が渦巻いた。安堵と同時に、なぜか胸が締め付けられるような思いが込み上げてくる。またしても光治に救われ、孝臣は無力な自分を痛感するのだろうか。

 


 

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