第9話 浅草でデート
花はほうほうの体で上野を後にした。土産を買う余裕もなくまっすぐ上野駅に向い、電車に揺られながら冷静になって思い返す。特別ひどい目にあったわけではない。講演会に行って風変わりな少年と会話をしただけだ。それなのに、重労働をした後のようにどっと疲れていた。
(もう一つの世界って何? それと禍物がどう関係してるの? 嘘に決まってると思うのは簡単なはずなのに、なぜか耳にこびりついて離れない。どうしてこんなに心がざわつくのかしら?)
帰宅した後も、孝臣には相談できなかった。気にするなんておかしいと自分でも思うし、変なことに首を突っ込むなと怒られてしまう可能性もある。何より、ストレスの種を家に持ち込みたくない。
(こんなこと話したら余計孝ちゃを疲れさせてしまう。仕事が大変な分家ではくつろいで欲しいから、余計なことはしないでおこう)
それから一週間が過ぎた。謎の少年の言葉は相変わらず頭の片隅に残っていたが、やっと訪れた休日の朝、孝臣の誘いにそれも吹き飛んだ。
「そういやまだ浅草に行ってなかったね。今まで避けてたんでしょ?」
浅草、と聞いて花は思わずぎくりとする。孝臣と出会うまで浅草の劇場で清掃の仕事をしていたのだった。まさか、そこへ行こうと言うのか。積極的に誘ってくれるのはありがたいが、大丈夫かなと少し不安を覚えた。
「浅草は元の職場があるから気が引けるんだけど……知ってる人に会ったらどうしよう」
「今のハナちゃんならきっとバレないよ。それを確かめるのもスリルあるんじゃない?」
そう言って、孝臣は悪戯っぽい笑みを浮かべる。彼の視線の先には、髪をばっさり切った花の姿があった。
そう。孝臣が背中を押してくれたこともあって、花はとうとう断髪に踏み切った。実行に移すまで時間がかかったのは、やはり最後の最後で躊躇してしまったからだ。この時代、「髪は女の命」とも言われ、断髪するのは先進的を通り越して不謹慎と見られる向きもあった。それでも頭がすっと軽くなり、鏡に映る新しい自分を見た時は思わず笑みを浮かべた。当然孝臣からも好評で、彼の笑顔を見てまた嬉しくなった。
改めて「モガ」に生まれ変わった自分を鏡に映す。サイドを耳の下で切り揃え先端を緩くカールし、後ろは襟足を残して短く切っている。西洋風ながら今流行りの耳隠しの意匠も取り入れられ、お気に入りの髪型となった。
「男はちょんまげを捨てて久しいのに、女だけ髪が命なんて言うのは不公平もいいとこだ。ハナちゃんすごく似合ってるよ」
孝臣に愛おしそうに見つめられ頰を赤らめる。ここだけ切り取れば仲睦まじい新婚夫婦に見えるだろう。誰が契約結婚と疑うだろうか。
摂子のいう「おままごと」は百も承知している。幸せな日々だが、いつまで続けられるんだろうという不安もだんだんと積もっていく。
(契約結婚だから、二人の距離はこれ以上近づかないのよね)
心の奥で、花は契約が終わることを恐れている自分に気づいた。いつの間にか、孝臣と過ごす時間が花の心の大部分を占めている。
(のめり込みすぎては駄目。でも、もう遅いのかもしれない)
幸せと感じる一方で、これは永遠に続かないと自分を戒めた。所詮二人は吊り合わない運命。いかなる時もそれを忘れてはいけない。
*
結局孝臣の誘いに乗り、二人は多くの行楽客で賑わう浅草にやって来た。先日、孝臣が買ってくれたローウエストのプリーツワンピースに身を包み、モガとして闊歩する花とスーツを粋に着こなすハンサムなモボのカップルは、大層人の目を引いた。
「ハナちゃんは六区の芝居小屋で働いてたんだっけ?」
「そう。少女歌劇をしていてね、女の子だけのレビューやお芝居とか。私も舞台の袖から覗いてたわ。手が足りない時は裏方の仕事の手伝いもしたことあるわ」
浅草六区とは、芝居小屋や演芸場や映画館が軒を連ねた、帝都一の繁華街である。道にせり出すように興行の幟や旗が林立しており、人がごった返す大賑わいを見せている。いわば、最先端のエンターテイメントの発信地だ。
「舞台に出たいと思ったことはある?」
「まさか! 私には無理よ」
「でも、歌は上手だったよ? アルプス少女の姿も可憐で愛らしかった」
「もうあの時のことは思い出したくないのに……あれは衣装部屋から勝手に借りてきたの。掃除をしながら袖や隙間から華やかな舞台を見て、キラキラした世界に憧れてた。衣装を着た時は、正直シンデレラになった気分だったな」
「またハナちゃんの歌が聴きたいな。健三さんにアコーディオンで伴奏弾いてもらって」
「恥ずかしいな……後でね。一回だけよ」
そんな会話をするうちに仲見世を通過して浅草寺に着いた。二人でお参りをした後、お婆さんから餌を買って鳩の餌やりを楽しんだ。
「お昼どうする? ハナちゃん何か食べたいものある?」
「そうねえ……どじょう鍋なんてどうかしら? 私まだ一度も食べたことないの」
上目遣いで彼の反応を伺いながら提案する。この界隈に評判の店があることは知っていた。花の意見に孝臣が否定しないのは分かっていたが、遠慮する癖がなかなか抜けない。
もちろん孝臣は快諾してくれ、浅草寺からどじょう料理の店へと移動した。広々とした入れ込み座敷に案内され座布団に座り、味噌で味付けしたどじょう鍋を二人で囲む。孝臣はぐつぐつ煮える鉄鍋にネギをどさりと入れた。
「これはね、ネギをたくさん入れるのがいいんだよ。あふれるくらいにね」
「前にも来たことあるの?」
「うん、だいぶ前だけどね。ずっと昔のことだよ」
孝臣は、少し寂しそうに笑いながら話した。彼がこんな表情をするのは光治も一緒だったのかなと一瞬考える。でも敢えて聞く気にはなれなかった。
(もしかしたら、まだ仲良かった頃に一緒に来たことあるのかな……ううん、根拠のない憶測で頭を悩ませるのはやめよう)
汗をかきながら食べたどじょう鍋は、浅草の名物料理だけあって評判に違わぬおいしさだった。孝臣と二人、向かい合って鍋をつつく。こんな何気ない時間が、今の花にはかけがえなく思える。
お酒をちびちびやるお客もいたが、孝臣は注文しなかった。家でも飲酒の機会は少なく、職場の付き合いで無理に飲む方が多いようだ。
お腹も膨れた二人は店を出てから浅草六区に繰り出した。特に見たい演目があるわけではなく、賑やかな喧騒を冷やかしにきただけだ。六区通りは多くの老若男女が入り乱れ、狭い隙間を縫うように風鈴売りが歩いていた。これだけ人が多ければ簡単にバレないだろうが、どうしても元職場の劇場に足を踏み入れるのは勇気がいった。
「ごめんね、どうしても顔見知りに会いそうな予感がして……孝ちゃ楽しみにしてたよね」
「ううん、僕はハナちゃんと一緒ならどこでもいいから。今も腹ごなしに歩いてるだけ。ハナちゃんは他に行きたいところある?」
「私ばかりわがままを聞いてもらって悪いけど……実は、凌雲閣に一回上ってみたかったの。一人じゃ勇気が出ないけど、孝ちゃと一緒なら大丈夫な気がする」
「分かった。一緒に行こう」
孝臣は中折れ帽を直しながら花に微笑み、凌雲閣の方向に向かって歩き出した。自分のお願いを何でも聞いてくれる孝臣は正に王子様だ。こんなに幸せでいいのかしらと、花は内心怖くなるくらいだった。
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