第7話 上野の少年

 本格的に夏が来た。孝臣の帰りは相変わらず遅く、華は毎晩冷めた夕食を温め直す日々が続いていた。中でも、食べ物が腐りやすくなるのは悩ましい問題だ。足の早いものは井戸の中に吊るしておくなど昔から工夫はされてきたが、この頃になり、ようやく富裕層を中心に冷蔵庫が普及し始めた。


 そんな中、百合塚家の新宅にも冷蔵庫がやって来た。木製で高さは七十センチほど、二段式になっており、上段に入れた氷で下段の庫内を冷やす仕組みだ。電気が通る前の時代ではこれが最新式だった。


「わあー! すごい! 本家にあるのと同じじゃないですか!」

「そう、孝ちゃは新しい物好きよね。保守的な家に育ったのに、考え方は合理的よね」

「奥様に楽してほしいんですよ、あると便利ですもの」

「せっかくだからゼリィを作ってあげる。キヨちゃんも食べてって?」

「ええ? いいんですか? ありがとうございます!」


 季節の果物を入れたゼリィは、母のはるが存命中によく作ってくれたお菓子だ。この頃はまだ寒天の方が一般的で、ゼラチンを使ったゼリィは富裕層にしか広まってなかったが、百合塚家で働いていたはるは西洋料理を教わる機会に恵まれた。そのお陰で花も母親から教えてもらっていたのだ。


 はるが作ったゼリィは、当初は光治と孝臣に振舞われていた。だが孝臣が「ハナちゃんと一緒に食べたい」と駄々をこねたため、使用人の娘の花も御相伴に預かれたのだ。孝臣は昔から、自分たちと花の扱いを同じにするよう気を配っていた。


(今こそ私が作ってあの時の恩返しをしよう。孝ちゃもきっと懐かしんでくれるわ)


 水でふやかしたゼラチンを溶かしながら切っておいた桃を入れ、ゼリィ液を外から冷やしながらかき混ぜる。これらの工程をキヨに見せながら説明し、キヨの方も熱心にメモを取りながら聞いていた。


「ある程度冷やしてから固めないと、果肉が沈んでしまうの。これがコツよ」


 母に言われた言葉を今度は自分がキヨに言っている。たったそれだけなのにむねがじんとしてしまう。


「お嬢が一丁前に料理を教える日が来るとは思いませんでしたなあ。つい最近まで子供だったのに」

「やあね。子供扱いしないでよ」


 感極まった口調でぼそっと呟く健三に反論したが、自分も言葉に詰まり、気の利いた返しができなかった。健三は、母の手料理を父と花が喜んで食べていた時代を思い出したのだろう。これからは花が孝臣に作る番だ。まるで本当の夫婦みたいねと心の中で自嘲する。


 数時間冷蔵庫で冷やして完成したゼリィをキヨに食べさせ、彼女は満足して帰って行った。孝臣に出すのが後になってしまったが、毎日帰りが遅いのだから仕方ない。残りを冷蔵庫にしまい保存する。


「一番食べてもらいたい人が後回しになるのは残念ね。出来立てをあげたいのに」

「お国のために働いてるんだから仕方ないですよ」

「一日くらい定時に帰ってきてもいいのに。体が参ってしまうわ」


 結局この日も、孝臣は夜遅くなって帰宅した。疲れが顔に出ていたが、花を見るとにこっと微笑んだ。彼女を心配させまいという心づもりなのは分かる。だがそんなことをされると、余計に彼のことが心配になるのだった。


「懐かしいな! 当時を思い出すよ。しかもハナちゃんが作ってくれるなんて、こんな嬉しいことはない」


 冷蔵庫の氷が溶けて保冷効果が弱まったせいで少しぬるくなったぜリィを、孝臣は大げさに思えるくらいに喜んで食べてくれた。


「よかった……私はこれくらいしかできないから」

「謙遜しないで。ハナちゃんがいてくれるだけでいいんだから」

「それじゃ今度はアイスクリンを作りましょうか? 機械が実家に残っているかしら?」


 花が昔のことを思い出してそう言うと、孝臣も嬉しそうに賛成してくれた。彼の反応を見て、今度百合塚家に行って確かめてこようと心に決める。


 でもこれじゃ足りない。もっと彼のためになることをしたい。それには孝臣の仕事についてもっと知る必要があると考えた。


(孝ちゃや光治さんが命をかけて戦っている相手。私はそれについて何も知らない。契約結婚とはいえ、このままでいいのだろうか)


 孝臣の苦労を理解するには、禍物について知る必要がある。そんな気持ちが日に日に強くなっていた。そんな矢先、何の気なしに新聞を眺めていたところ、広告欄の端に気になる告知を見つけた。


「刮目せよ!『禍物とは何か?』新進気鋭の大学教授が解き明かす! ですって。広告とは言えずいぶん鼻息荒いわねえ」


 新聞の片隅にある小さな広告だったので、普段なら見過ごしていただろう。日付は今日、場所は上野の公会堂で午後二時。今からでも何とか間に合う。花の決断は早かった。


「あれ、お嬢、一人で外出ですか。珍しいですね」

「ちょっと上野まで行ってくるわね。聞きたい講演があるの」


 健三には「禍物についての講演」ということは伝えなかった。帰りに土産を買ってこようと思いながら、よそ行きの服に着替えて山の手線に乗り込んだ。


 目的地は確か上野公園の近くだったはずだ。花は上野駅を降りると、上野公園に向かって歩き出した。しかし、肝心の公会堂が見つからない。日々発展する上野の町は、訪れるたび違う顔を見せる。当てもなく歩いた挙句、いつの間にか公園の敷地内に足を踏み入れていた。


 途方に暮れて辺りを見回すと、桜並木が続く黒門通りから一歩入った小道に掘立て小屋が建っていた。入り口に大きな看板があるから見せ物小屋の類だろうか。こういうのは繁華街や神社のお祭りでよく見かけるが、なぜこんな場所に? 花は疑問に思いつつも、入り口で呼び込みをしている少年を見つけ道を尋ねた。


「あの……ちょっとお聞きしたいんですが……」


 近寄って見ると、相手は十代半ばくらいの少年だ。淡い藤色の燕尾服という珍妙なスタイルにもかかわらず、サイズはぴったりでオーダーメイドかと思うほどにしっかりした作りだ。垢抜けた、どちらかと言うと西洋風の顔立ちに見えるのは左目がやや紫がかっているせいか。なぜこんな風変わりな少年が見せ物小屋の呼び込みをしているのか。戸惑っている間に相手がこちらに興味を持ったようだ。


「お姉さん珍しいね。ちょっと見せて」


 少年はそう言うと、無遠慮に花の手首をつかんで自分の方に引き寄せた。何が起きたのか分からぬまま二人の目が合った時、一瞬紫の左目が光ったような気がした。すると、それまでヘラヘラした態度だった少年は急に真顔になり、手を離してまじまじと花を見つめた。その表情には怯えすら見える。


(一体何が起きたの? 私変なことした?)


「あの……どうしたの?」

「ごめんごめん、驚いちゃったよね。別に何でもないよ。お詫びにタダで入らせてあげる」


 少年はすぐに気を取り直してニカっと笑って見せた。それでも違和感が取れない花に気付いたのか、再び彼女の腕をつかんで、小屋の中へ招き入れようとした。


「そうじゃないの。公会堂への道を聞いただけよ。禍物の講演を聞きに来たの」

「禍物に興味があるの? うちのお客さんにぴったりだ!」

「それどういう意味?」


 花は顔をしかめて尋ねたが、それには答えないまま少年は続けた。


「どこのお偉い教授か知らないけど、うちの方が有意義な体験ができるよ。この中では『禍物が存在しない帝都』を見せてるんだ。せっかくだから寄っていかない?」


 少年は何を言っているのか。花はつかまれた手を振りほどくことも忘れ、彼をしげしげと見つめた。普通見せ物小屋とは、曲芸や軽業を披露したり、お化け屋敷や動物園などを催す場所だ。「禍物が存在しない帝都」なんて客の興味を引けないだろうに。


「あなた何を言ってるの? さっぱり意味が分からない」

「嘘は言ってない。きっと予想外のことになってるよ。もう一つの未来、見てみたくない?」


 明らかに異様なことを言っているのに、人懐っこい笑みを深くするばかりの少年に、花はだんだん恐怖を覚えてきた。自分より年下の、まだ奉公に行っているような年代の少年に恐れを抱くなんて馬鹿馬鹿しい。そう思うものの、言葉にできないモヤモヤした感情が彼女を縛り付けた。

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