第6話 週末の銀ブラ
約束通り次の日曜日に、花と孝臣は銀座の街に繰り出した。幸い天気も晴れ、真っ青の空にはもくもくと入道雲が発生し、初夏のさわやかな風が頬をくすぐる。絶好の銀ブラ日和だ。
花は、質に流さずにいた母の形見の着物に袖を通し、精一杯のおめかしをして玄関で待っていた。孝臣が姿を現したのは五分くらい経ってからだった。
「こういう時は、普通男の人が待つものよ。孝ちゃったら何を……!」
文句を言いかけた花だったが、振り返った瞬間に言葉を失った。外ではスーツ姿の孝臣が珍しく和装だったのだ。浅葱色の単衣に群青色の紗の羽織を合わせカンカン帽を被った姿は上品なのにどこか粋で、花はすっかり魅了されてしまった。
「素敵! まるで文士さんみたい! 和装も洋装もすごく似合うなんて羨ましいわ! 私も美容院に行って最新の耳隠しにすればよかった」
「耳隠しって何だっけ?」
「今流行りの、横髪をウェーブさせる髪型のことよ」
「それならいっそのこと断髪して今流行りのモガになってみれば?」
孝臣の提案に花は驚いた。当時、女性は髪を短く切ることは、貞淑を是とする保守的な人からはひどく忌避されていたからだ。
「ええ? 本当にいいの?」
「僕は全然気にならないけどハナちゃんはどうしたい?」
話を振られてしばし考える。もう、身の振り方をとやかく言う人はこの世にはいない。健三だって、極端に人の道に外れたことでなければ干渉してこないだろう。なにせ、契約結婚までした身だ。今さら断髪したところでどうということはない。
「……実はちょっと憧れてたの。不道徳とか不謹慎とか世間では言われているけど、見た目でそこまで言われる筋合いはないわ」
「よし。これで決まりだ。せっかくだからデパートに行ってハナちゃんの洋服を買おうよ」
そういう訳で、銀座の繁華街にあるデパートの一つ、香月屋にやって来た。
この香月屋も、他のデパートの例に漏れず、数年前に地上五階地下一階の鉄筋コンクリート造りに新築したばかり。この日は日曜日ということもあり、家族連れで賑わっていた。
「家の周りはみんな着物姿ばかりだけど、ここまで来ると洋服の人が増えるわ。さすが銀座ね」
「ハナちゃんもこれからああなるんだよ」
「大丈夫かしら。雑誌で見るモデルさんのようにはなれないわ」
「何より僕が見たいんだ。アルプスの少女もかわいかったしね」
東京駅で再会した時のことを思い出して頰を赤らめる。なるべく思い出したくない記憶だが、孝臣に他意はないようで、いそいそと店の中へ花を案内した。二人は、建物の中央部分にある、五階まで続く大きな吹き抜けのホールにやって来た。
「すごーい! 外国に来たみたい!」
内装は外国の宮殿かと思うほど豪華絢爛で、各階をつなぐ階段とアーチの曲線が芸術的な美しさを誇っている。はるか上方にある天井はアールデコで装飾されており、乳白色のガラスのドームから柔らかい光が注ぎ込んでいた。
花は、写真でしか見たことのなかった外国の風景が、日本にいながら見られることに驚きと感動を隠せなかった。
「デパートは前にも来たことあるけど、こんな素敵なところは初めてよ。一日中いても飽きないわ」
「これから婦人服売り場に行こう。ハナちゃんに似合うものがあるはず」
夢見心地のまま婦人服売り場へと向かう。そこでも人間そっくりのマネキンが、最新流行の洋装に身を包んでいた。ウエストが絞ってないローウエストで膝下のワンピース。着物とは違う多種多様なデザインに、花は目が回るほど圧倒された。
「どう? ハナちゃん。気に入ったのある?」
「目移りしてしまって全然ダメ……孝ちゃはどれがいいと思う?」
情けないことに孝臣に判断を委ねてしまう。孝臣は、辺りをぐるりと見渡し顎に手を当ててしばし考えた。
「うーん……ハナちゃんは小柄だから、大きいプリント柄は合わないな……」
孝臣はぶつぶつ呟きながらあーでもないこーでもないと唸っていたが、店員の意見も取り入れた上で、水玉柄でスカート部分がプリーツ加工してあるデザインと、襟が大きく空いていて前でリボンタイを結ぶデザインを選んだ。孝臣はそれを後で自宅に送らせる手続きをしたあと、別のことに気がついた。
「服だけ買っても意味ないな。帽子に靴、鞄にストッキング、アクセサリーも」
「ちょっと待って! そんなに甘えられないわよ!」
「だって、洋服に草履は変だろう? どうしても必要になるじゃないか」
確かに孝臣の言う通りである。花はガックリ肩を落としながらも、認めざるを得なかった。なぜ女性の装いはお金がかかるのか。
「ハナちゃんは、うちに来てから自分のものを何も買ってないじゃないか。自由に好きなものを選んでいいんだよ? デパートのカタログだけ見て満足してるんだもの」
「だって悪いもの……ただでさえ豊かな暮らしをさせてもらってるのに、贅沢なんてできないわ」
「じゃあ、こう考えてよ。僕の奥さんが質素な身なりなのは不自然だろう? それに、モダンな奥さんがいる方が僕も鼻が高いよ」
孝臣は笑いながら軽い調子で言う。こう言えば、花が引け目を感じずに済むという配慮からだろう。そうだった。孝臣は子供の頃から気が細やかだった。
(思い出した。百合塚家に来たばかりの時、光治さんに怒られたと早とちりして泣いてたら、孝ちゃが飛んできたことがあったっけ)
光治は昔から感情表出が乏しかったから、花はなんでもない一言に過剰反応して泣いてしまったのだ。花と光治の年齢が離れていたせいもある。その時に真っ先に駆けつけて花を庇ってくれたのが孝臣だった。当時は兄弟の仲はまだ悪くなかった。
(思えば、あの頃から孝ちゃはすごく優しかった。私はいつも孝ちゃに懐いていた)
それが、今では手の届かないほど立派な青年になっている。なのに、こうして一緒に並んで歩いている事実を、なかなか受け入れられないでいた。
洋服以外の小物まで揃えた頃には、もう昼近くになっていた。
「そろそろお昼だね。この近くにおいしい西洋料理店があるけどどう?」
「ねえ、それなんだけど、デパートのレストランに行きたいの。孝ちゃは嫌じゃない?」
「嫌なもんか! ハナちゃんの行きたいところが一番だ」
こうして二人は、五階の大食堂へ行った。入り口には大きいショーケースの中に食品サンプルがずらりと並んでいた。ライスカレー、ビフテキ、ハンブルグステーキ、カツレツ、コロッケ、お子様ランチ、サンドウィッチ……花は目を輝かせながらいつまでも見入っている。
「ごめんなさい、私ったらまるで子供みたいね」
「そんなことないよ、大人が見てもワクワクするもの。こんなにあると迷っちゃうね。僕はコロッケにしようかな、あと、一緒にアイスクリン頼まない? 一人だと気後れしちゃって」
結局、コロッケ定食とライスカレーと二人分のアイスクリンの食券を買って中に入った。大食堂の内部は、アールデコの装飾がそこかしこに見られ、ステンドグラスで作られたランプがいくつも天井から吊るされている。花は、席に通されても、口をぽかんと開けたまま辺りをぐるぐる見回していた。
「あのね、まだ両親が生きていたときに、三人でデパートのレストランに来たことがあったの。それまで母と二人暮らしだったから家族三人で外食できるのが嬉しくて。それが懐かしくて、実は今日が楽しみでした」
「その時もライスカレーを頼んだの?」
「そう! 実の父は物心付いた頃にはいなかったから、これが家族なのかなあなんて漠然と思ってた。短い間だけど幸せだった」
懐かしそうに目を細める花を、孝臣は優しい表情を浮かべて見つめた。彼はあまり言葉を挟まず、ずっと聞き役に徹していたが、花が一息ついてからぽつぽつと自分の話を始めた。
「よかった……ハナちゃんは家族の温かさを知ることができたんだね。うちは週末にデパートに行くような家じゃなかった」
「大変だよね、百合塚家は……」
「禍物を中心に回ってるからね、うちは……あのさ、うちに禍物が侵入してきた時のこと覚えてる?」
「私が襲われたやつ?」
もちろん覚えている。あれは確か十歳の時だった。花は使用人の娘だったが、子供同士は平等だったから、家の中を自由に遊び回ってもお咎めはない。その日は、光治も孝臣もその時は勉強中で花は一人ぼっちだった。だから、庭をぶらつきながら退屈しのぎにツツジの蜜を吸っていた。異変は何の前触れもなく起きた。
低いうめき声と何かが腐ったようなにおい。全身の毛穴が一気に粟立つ。正体は分からないが、何か得体の知れないものが迫ってくる。そう本能が告げていた。
息を呑んだまま動けないでいる花の前に、真っ黒い体をした痩せこけた鬼のような異形が、音もなく立ちはだかった。体長は二メートル超もあり、眼窩は落ちくぼみ表情は真っ黒でうかがい知れない。なのに、それが嘆き悲しんでいるのだけはなぜか察せられた。
もしやこれが禍物なのか。輝かしい進化の影にはかなく消えていった声なきものたちの呪詛と怨念。なぜそんなものが自分の前に……と花は思わずにいられなかった。
『あ…………あ……………………』
助けを呼びたくても声が出ない。体が恐怖で固まり、心臓だけが激しく打っていた。得体の知れない相手になす術もない。それでも、非力な自分はこのまま死ぬんだということだけは分かった。
何も抵抗できぬままなぶり殺されると察しぎゅっと目をつぶる。一閃の光が二人を分かつように差し込んできたのはそんな時だった。
『…………光治さん!』
光治が、低い声で祝詞を上げながら禍物にじりじりと近づく。雰囲気も声色も、普段の彼とはまるで別人だった。
『禍つ霊よ 去れ去れ
清き光もて 祓ひ浄めん
急々如律令』
ここで初めて、訳の分からぬ異形が禍物だと知る。でもなぜ屋敷の中に侵入したの? そんな疑問を発する前に、孝臣にぐいと手を引っ張られた。
『ハナちゃんこっち!』
孝臣は、安全な場所まで花を連れ出した。だから、光治と禍物の勝負は最後まで見られなかったが、あの後すぐに光治が退治したのは明らかだった。
「あの時光治さんと孝ちゃに助けられたのよね。二人がいなかったらどうなってたか分からなかった」
花が苦笑いしながらそう言うと、孝臣はびっくりしたような顔をした。
「いや、僕は何も……」
「そんなことないわよ。孝ちゃは安全な場所まで避難させてくれたでしょ? 私は足がすくんで一歩も動けなかった」
「でも、禍物を退治したのは兄さんだ」
「それはそうだけど……光治さんだけじゃないわ」
花の反応が意外だったのか、孝臣は困った顔をして鼻を掻いた。
「そんなつもりじゃなかったんだけどな……ただ、あの時、家族でデパートに行く話があったんだ。それが禍物騒ぎで立ち消えになったって話をしようと思っただけで」
「だけ」と言う割には、孝臣はずいぶん戸惑っているように思える。花は、胸にくすぶる疑問を吐き出さずにはいられなかった。
「まさか、自分は何の役にも立っていなかったなんて思ってない?」
「いやそんなことは……」
(あの後、孝ちゃは禍物祓いになるための稽古に躍起になっていた記憶がある。もしかして、ずっと心にしこりが残っていたのではないかしら)
彼の気持ちを想像しただけで心が痛む。それに、兄弟喧嘩の会話をこっそり聞いていたこともある。内心は複雑というのが彼の本音だろう。
しかし、これ以上その話題を持ち出すのはやめようと思った。今は彼と過ごす時間を大切にしたい。そのためにデパートに来たんだから。
「孝ちゃ! アイスクリンが来たよ! 久しぶりだわ! 百合塚家にいた頃はアイス製造機があったからよく一緒に食べたね」
「そうだね、ハルさんが作ってくれたこともあったね。あの機械まだ実家にあるかな?」
二人クスクス笑いながら瑞々しいアイスを口に運ぶ。ひんやりして、口の中で甘くとろけて、あの頃の懐かしい味がした。
(このアイスだって、一人で頼むのは気後れするとか言ってたけど、本当は私に食べさせたかったんだと思う)
花は孝臣の横顔を見つめた。彼はいつも自分を後回しにして、さりげなく人を思いやる。でも、そんな自分の優しさに気づいていない。
デパートのレストランで食べるアイスもおいしいが、もう、何も知らなかった頃に戻れないんだなと思うと花の心はちくんと痛んだ。
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