第5話 新婚生活
立ち聞きした会話が頭から離れず、孝臣との関係も曖昧なまま。そんな五里霧中の状況にあって、一つの救いは二人だけの新居に移れることだった。ここでなら、お互いの本当の気持ちと向き合えるかもしれない。
実家だと花の気苦労が絶えないと孝臣が配慮したのだろう、目白の閑静な住宅街の一角にその家はあった。華族の別邸にしてはこぢんまりしているが、オレンジの洋風瓦で覆われた三角屋根がトレードマークの和洋折衷の家が、花はすぐに気に入った。
「すごいわ! こんな素敵なお家に住めるなんてお姫様になった気分!」
「それは言い過ぎだよ。もっと立派な家はごまんとある。前に住んでいた東堂家はこれよりずっと立派だっただろう?」
「私と孝ちゃの二人だけだもん、これくらいがちょうどいいわ。大きすぎても管理しきれないし」
大正期に建てられた和洋折衷の文化住宅。花が憧れた西洋文化がここにはあった。
「普通は洋間は客室なんだけど、来客があった時しか使わないんじゃもったいないだろう? だからハナちゃんが使えるように改装したんだ」
オレンジ屋根の洋間は天井が高く、内装は漆喰の壁と寄木張りの床でできている。天井からは小ぶりのシャンデリアが吊るされ、中央には丸テーブルと座り心地の良さそうなソファがあった。これも孝臣が選んだのだろうか。趣味の良さがうかがえる。
花が特に気に入ったのは、二箇所ある台型の出窓だ。外から見ると西洋の意匠がこらされたおしゃれなデザインになっている。機能面も充実しており、広く採光が取れ室内は明るい。出窓のそばにはソファがあり、本を読んだり作業したりするのにうってつけだ。ここでの生活を想像するだけでうっとりする。
「何から何までありがとう……健三の部屋もちゃんと用意してくれたのね。私は何も言わなかったのに」
「使用人部屋じゃかわいそうだろうと思って、それも計算に入れといた。大事な『お嬢』の親代わりだからね」
孝臣が軽くウィンクしたので、花も声を上げて笑った。こんな清々しい気分になるのはずいぶん久しぶりな気がする。
「よかった……実はちょっと心配してたんだ。最近ハナちゃん元気なかったから。やっぱり無理させてたんだね。僕の方から頼んだことなのにすまなかった」
(私が元気ないのはあなたのせいなんだからね! 今だって、孝ちゃの屈託ない笑顔が見られて嬉しかっただけ。でも、孝ちゃも実家を離れたら元の明るさを取り戻せるかしら?)
もしかしたら、新居を構えたことは、予想以上にいい方向に働くかもしれない。孝臣の悩みの根本は光治との確執だろうから、原因から離れればだいぶ解消されるだろう。
他にも、通いのお手伝いさんを一人雇うことになった。摂子が気を配って手配してくれたのは、使用人頭である佐々木の娘、キヨだ。
孝臣は、百合塚家の息がかかってない者がいいと主張したが、佐々木の娘なら安心だという花の意見を最終的に採用してくれた。キヨはまだ十五歳、活発ではきはきした娘である。
「孝臣様と奥様のために精一杯働かせていただきます! 父からくれぐれも粗相のないようにと言われてきました!」
「私も幼い頃、佐々木さんにお世話になったのよ。どうぞよろしくね」
こうして長屋を引き払い、健三を呼び寄せ、三人の暮らしが始まった。健三は、長屋から持って来た両親の位牌を和室の仏壇に置いて、手を合わせながらしみじみとこう言った。
「旦那様から『花を頼む』と言われた身として、孝臣さんがお嬢を大切にしてくれているか見守るのが俺の務めです」
「何言ってるのよ。孝ちゃなら心配ないわ。すごく優しい人だもの」
「それでも俺は、虫よけのためにお嬢を利用するのが気に入りません。確かにあの優男なら、女性から引く手数多でしょう。でも、男ならもっとしゃきっとするべきだ」
「まあ、ずいぶん手厳しいわねえ」
「もちろんいいところもありますよ。この家を見つけてくれたのはよかった。実家住まいじゃ息が詰まると思いました。実際、ここに来てからお嬢も明るくなったし」
やはり健三から見てもそうなのか。花は、百合塚家で見聞きした話を健三には黙っていた。彼を心配させたくなかったのと、「そんな家に嫁ぐな」と言われそうな気がしたからである。
(どうせままごとと言われるんだろうけど、それでもいい。お金にあくせくしない生活がしてみたかったの。平和な環境を用意してくれた孝ちゃに感謝しなきゃ)
いよいよ孝臣と花の契約結婚生活がスタートした。まだ不安はあるが、期待に胸を膨らませる幕開けとなった。
*
一緒に暮らすようになって新たに分かったことがある。孝臣が何の仕事をしているかは知っていたが、ここまで心身共に負担の大きい業務だとは思わなかったのだ。
孝臣は、禍物祓いの下部組織である内務省警保局特殊災害対策課、略して特災課に勤めている。禍物が襲ってきた時に人々の避難を誘導するのはもちろん、人身被害の対応も行っている。仕事内容が多岐に渡るので気苦労が多いのは想像に難くないが、帰宅後の彼のやつれ具合を見て、花は、自分の考えは甘かったと思い知らされた。
帰りはいつも午後九時ごろになる。花たちは先に夕食を済ませ、孝臣の分を取っておく毎日だ。出来立ての温かいご飯を食べさせたいという望みは早くも断たれた。
「帰りが遅いのに朝も早いのよ。これじゃ体が参ってしまうわ」
「今日はとりわけ遅いですね。もう九時半だ。俺が待ってますからお嬢は休んでください」
「これくらい大丈夫よ。本当の妻じゃないけど孝ちゃを放っておけない」
そんなことを言っているうちに玄関から物音がしたので、二人は慌てて駆けつけた。この日はタクシーで帰ってきて、同僚らしき男性も一緒だった。
「孝ちゃおかえり……ずいぶん酔ってるじゃないの! どうしたの?」
「奥様ですか。同僚の高木と申します。百合塚さん一人じゃ不安だったので一緒に参りました」
高木と名乗る青年は、孝臣と同年代で同じ部署で働いているらしい。一緒に飲んでいたらしく彼も少し顔が赤らんでいる。
「今日は、仕事がひと段落したついでに一杯引っかけてきたんです。そしたら、いつもより酔いが回ったみたいで……ここ最近疲れが溜まっていたせいかと思います」
「そうですか……わざわざありがとうございます。高木さんですね? いつも主人がお世話になっております」
契約結婚とは言え、対外的には普通の夫婦を演じなくてはいけない。花は、改まった態度で高木にお礼を言った。
「いえいえ、普段面倒を見てもらっているのはこちらの方です。百合塚さんは若手の中でも中心的な存在で、頼れる先輩です」
家族の間では引け目がある孝臣が、外部の人間に評価されるのは、花にとっても誇らしかった。お世辞が含まれている可能性を考慮しても十分に嬉しい。花はそれだけで高木に好感を持った。
「どうもお世話になりました。健三、高木さんにお礼を渡して」
「ん……あれ、もう家なの?」
ようやく孝臣が目を覚ましたらしい。花は高木を見送ると、すぐに孝臣の介抱に取り掛かった。寝るところを準備して、健三と一緒に孝臣を運ぶ。上着を脱がせてから布団に横にしてネクタイを緩めたところで、孝臣が目を覚ました。
「孝ちゃしっかりして。高木さんが家まで運んできてくれたのよ」
「ああそうか……それはすまないことをした。ここは寝室? なぜハナちゃんがいるんだい?」
「やあねえ。玄関から運んできたんじゃないの。着物に着替えさせるところよ」
「そんなことしなくていいよ。ハナちゃんとはそういう関係じゃないんだから」
急に酔いが醒めたかのように孝臣は身を起こし、花をまじまじと見つめた。どちらかと言うと怪訝な表情を浮かべる孝臣に、どういうことだろうと首を傾げる。
「急にどうしたのよ? 何か気に障った?」
「ここは僕の寝室だ。嫁入り前のお嬢さんが入っていい場所じゃない。悪いが出て行ってくれ」
「何言ってるの! 便宜上とは言え、孝ちゃの奥さんなのよ? それに、身近な人が具合悪いのに黙って見過ごせと?」
人として当たり前のことをしただけなのだが、孝臣は厳しい表情のままだった。まったく訳が分からない。
「だったら健三に任せりゃいいじゃないか」
「お
花も負けじと孝臣をにらみ返す。ここで、健三が二人の間に割って入った。
「まあまあ、ここは俺がやっときますから大丈夫ですよ。孝臣様もだいぶ酔いが醒めたようだからある程度お一人でできるでしょう」
このまま口論しても平行線のままなら仕方がない。花は頬を膨らませながらも部屋を出た。
少しして、孝臣の部屋から健三が居間に戻ってきた。花は気を紛らわせようと雑誌をパラパラめくっていたが、気休めにはならず、いい加減床に入ろうと思っていたところだった。
「孝臣様も変に意識してしまってるんですよ。ああ見えてまだ若いから許してあげましょう」
「健三ったら、孝ちゃのこと突然理解したつもりになってない? 訳が分からない!」
健三までそんなことを言うなんて! つい最近前まで「男ならしゃきっとするべきだ」なんて言ってたのに、いつの間に孝臣の味方になったのか。
「孝臣様が意地を張る気持ちも少し分かるから……まあ、これは男同士だからこそ理解できるってやつで」
「何もったいぶってんのよ! もう知らない!」
その日はぷりぷりしながら就寝した。しかし、翌朝になり、体調の戻った孝臣がわざわざ謝りに来た。
「ハナちゃん……昨夜はごめん。せっかく心配してくれたのにひどいことを言った……」
髪はざんばらに乱れているが、一晩眠ったお陰でだいぶましになっている。冷静になって反省したのだろう。申し訳なさそうにうつむく彼を見て、花はすぐに許す気持ちになった。
「別にいいのよ。大したことじゃないし」
「ハナちゃんにはお手伝いさんのようなことはさせちゃいけないと思っただけなんだ。でも、きつい言い方になってしまった……僕も余裕がなかった」
「私は、こんなにいい暮らしをさせてもらっているのに、タダで置かせてもらってる方が心苦しいわ。お返しに、できる範囲で孝ちゃの助けになりたい。その方が気が紛れるの」
「ハナちゃんの気が済むのなら……無理ない範囲でお願いしてもいいかな?」
「もちろんよ! ぜひやらせて!」
ぱっと笑顔になる花を見て、孝臣もはにかみながら微笑み返す。よかった、簡単に仲直りできて。そんな空気が二人の間を取り囲む。
「お詫びと言うわけじゃないけど、今度の休みに街歩きでもしないか? ここに来てからハナちゃん一度も外に出てないだろう。よく百貨店のカタログ眺めてるじゃない。実際に行ってみようよ」
「気を使わなくていいって言ったばかりなのに」
「そうじゃないよ。僕がハナちゃんとデートしたいんだ。仲直りのしるしに。いい?」
それならばと花も了承する。かくして、次の日曜日に二人で街に出ることとなった。
(契約結婚だからって孝ちゃのためになることをしたい。その方が私も嬉しいもの)
本当の夫婦だって喧嘩くらいするもの、これくらいどうってことないわよ、と自分に言い聞かせながら、次の休みの日を待つことにした。
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