第4話 偽りの祝言
百合塚家への挨拶から一週間が過ぎ、花の周囲は、にわかに慌ただしくなった。自分は何もしなくても周りが勝手に動いて、着々と祝言の準備が進められる。長屋から百合塚家に通う頻度が多くなり、何も知らない花に先んじて摂子が率先してあれこれ決める始末だ。
家の中で孝臣の地位が低いせいか、やるべきことは多くない。形式もごく簡素なものと聞いている。しかし、内実はただの契約結婚であることから、その方が花にとっても精神的に楽だった。
(孝ちゃはああ言ったけど、摂子さんも光治さんも驚いた素振りはなかったわ。むしろ、孝ちゃは反対されるのを望んでたんじゃないかしら。内心どう思ってるんだろう)
結婚話がとんとん拍子で進む傍ら、今度は別の懸念が生まれた。孝臣の考えていることが分からなくなったのだ。家族に挨拶した日から孝臣とじっくり話す機会がない。だが、こちらが相談しようと思ってもやんわり牽制されるようになったのだ。
(孝ちゃはあれから私を避けているような気がする。確かに微妙な空気だったけど、彼が何を考えているか分からない。自分から契約結婚を持ちかけたくせに)
祝言が直前に迫ったある日、ようやく孝臣の方から花に接触してきた。
「ハナちゃんに任せきりにしてすまないね。仕事が忙しくて毎日残業続きだったんだ。ほら、先日、隅田川で禍物騒ぎがあっただろう? 町も大きな被害を受けたから、あの辺一帯を根本的に整備しようという話が出ているんだけど、反対運動もあってなかなか進まないんだ」
確かに、孝臣は前会った時より少々やつれている気がする。彼の言うことは嘘ではないのだろう。でも、それだけではないように花には思えた。
「こっちは特に問題ないから大丈夫よ。孝ちゃの方が大変なのは分かってるから」
「こないだ見ただろう? あんまり僕は、この家では大事にされてないんだ。反対すらされなかったとはね……ごめん、こんなことハナちゃんに話すべきじゃなかった。本当はもっと盛大にお祝いしてやりたかったけど、僕の力じゃせいぜいこの程度だ」
「ううん、その方が私も好都合だわ。仰々しかったらどうしようと思ってたくらい。だって……本当の婚姻じゃないのよね? だんだん外堀を埋められると不安になってきて」
「も、もちろん。ハナちゃんの名誉は守られると言っただろう? 対外的にはそれらしく振る舞う必要あるが、家の中では他人同士だ」
「でも、公爵令嬢との結婚話は白紙になったのよね? それだと私の利用価値はもうないと思うんだけど? そう言えば契約についてはっきりした取り決めをしてなかった――」
「もしハナちゃんが嫌ならばいつでも解消していいんだよ? 僕には君を縛る権利は――」
「そうじゃないの! 逆にこんなに至れり尽くせりでいいのかなって。だって、私は何もやってないのに」
「そんなことあるものか。ハナちゃんがいてくれるだけで助かってるんだ。でも、確かに契約期間を決めてなかったね。何となく、ほとぼり冷めるまでとしか考えてなかった。いつでもいいよ。ハナちゃんが飽きるまで。もしくは他に好きな人ができた時でも構わない」
そう言った時の孝臣はどこか寂しそうな表情をしていた。そんな顔をされたら離れがたくなってしまうではないか。もちろん、花の方から別れる理由はない。ただ、曖昧な関係のままで許されるのかと漠然と不安になってくるのだ。孝臣の真意が別のところにあるような気がしてならない。
気になることがもう一つある。古くからの使用人は、花のことをどう思っているのだろう。百合塚のような名家には、先祖代々仕えている使用人が何人かいる。もちろん、花たち母娘のことも覚えているはずだ。彼らとは、初めて挨拶に来た日に他人行儀な挨拶を交わしただけなのがずっと心に引っかかっていた。
(内心では快く思われてないのかもしれない。使用人の娘がお嫁さんになるなんておかしな話だもの。でも、一度ちゃんと挨拶しておかなくては)
そう思いずっとチャンスを狙っていた。ある日、摂子の目が離れた隙を狙って、家の裏手に回って知ってる人を探しに行った。細い廊下を音を立てずに歩いていると、先代から仕える佐々木という初老の使用人頭が目に止まった。
「あの、佐々木さん。覚えてますか? ここに昔勤めていた城崎はるの娘、花です。先日は失礼しました」
城崎とは母の旧姓だ。緊張しながら頭を下げたが、髪に白いものが混じるようになった佐々木は、花を認めると目を細めて朗らかに笑った。
「なんだ、お花ちゃんか。こないだ挨拶に来た日に顔を合わせたじゃないか。水臭い」
「でも直接ご挨拶したかったんです。遅くなりすいませんでした」
「何をしゃちこばってるんだい? 孝臣様の婚約者なんだろ? もっと胸を張らなきゃ」
少なくとも疎まれているわけではないと知りひとまず安堵のため息を漏らす。よかった、嫌われてなかった……と。
「おかしな話ですよね……私も驚いてます。身の程知らずなのは百も承知で……」
「誰もあんたを悪く言う人はいないよ。むしろ喜ばしいと思ってるんだ。孝臣様が報われてよかったって」
「そうなんですか……?」
花は信じられないと言うように顔を上げた。佐々木の柔和な顔がこちらを見つめる。
「うちらも孝臣様のことは気にかかってた。先代からずいぶん責められて、光治様との関係も険悪になってしまった。そんな時幼馴染のあんたと再会したなんて渡りに船だ。子供の頃から仲良かったもんなあ」
ポンと肩を叩かれたが、花はかえって戸惑ってしまった。孝臣が先代の父親に責められたのは、禍物祓いになれなかったのが原因だろう。彼の一番辛い時期にそばにいてやることができなかったのだ。想像するだけでも胸が塞ぐ。
「あの……孝ちゃ……孝臣さんと光治さんはいつから仲悪くなったんですか?」
「まあ、わしらの立場でぺらぺらと喋れるもんじゃないが……光治様は一貫して孝臣様の味方だった。だが、孝臣様のお気持ちも分かる。男子たるもの、同情されるとかえって神経を逆撫でされるものだ」
(光治さんも孝ちゃも悪くない。でも、二人の間には越えられない溝がある。それは光治さんが優しければ優しいほど、深くなっていく――)
深刻な表情で考えにふける花を、佐々木は微笑みながら励ました。
「だからこれからはあんたが支えてやるんだよ? はるさんもきっと天国で喜んでいる。二人で幸せになっておくれ」
自分が嫌われてないことが知れてほっとしたが、孝臣のことを考えると別のモヤモヤが生まれた。花と違い、佐々木たちは百合塚家の確執を間近で見ている。それはどれだけ激しいものだったのか。百合塚家に平穏が訪れるのは、使用人たちにとっても嬉しいのだろう。
それから数日後の夕暮れ時。百合塚家を辞去しようと廊下を歩いていた花は、ふと足を止めた。障子の向こうから、孝臣の鋭い声が聞こえてきたのだ。
「母様が結婚に反対しないのは、僕がどうなろうが興味ないからだろう? つまり僕に利用価値がないから――」
「なぜそんな穿った見方しかできないの? まるで反対して欲しかったみたいじゃないの。あなたお花ちゃんと結婚したかったんでしょう?」
自分の名前が出てきて体をこわばらせる。花は音を立てないように、そのままの姿勢で聞き耳を立てた。
(やっぱり。私は利用されただけなのかしら? でも、それなら最初からそう言ってくれればよかったのに)
孝臣は、自分が家族からどう思われているか確かめたくて花を利用したのかもしれない。ただの契約結婚に過ぎないのに、なぜこんなに胸が痛むのだろう。どんな答えが返ってきても大丈夫なように、腹にぐっと力を入れて心の準備をする。
「もちろん結婚はしたい。でも知ってるよ、母様がハナちゃんにうちのしきたりや親戚のことなど一切教えていないことを。まるでうちの一員になることを拒んでるみたいじゃないか。どうしてそんな仕打ちができるんだ?」
そう言えば。花は、今の今まで摂子から百合塚家の嫁の心得のようなものは教えられてこなかった。私のお下がりの着物をあげるとか、花嫁の心得の本を読むとか浮ついた話ばかりしてきた。でも、本来は違うんじゃないか。嫁に入るというのは、相手の家に入るという意味なのだから、もっと覚悟めいたものが伴うのではないか。
孝臣が指摘するまで念頭になかった自分も大概だと思ったが、摂子がどう考えているか興味あった。そしてその答えはさらに驚くべきものだった。
「だって、これは女の勘ですけどおままごとみたいなんですもの。一体どれだけ続くのかしらというのが本音よ。お花ちゃんは悪い子じゃないけど、百合塚家の人間とは吊り合わないわ。でもあなたは、これと言ったらテコでも動かない人間だから、一度やらせてみなきゃ分からないと思ったの」
直接姿は見えないが、それを聞いた孝臣がわなわな震えているような気がする。花も同じ気持ちだった。摂子の勘が当たっているのも怖いし、平然と「吊り合わない」と言ってのけたのも驚きだ。花の前では友好的な態度を崩さないのに。
(でも、どちらも奥様の本音なんだわ。私のことは嫌いじゃないけど孝ちゃには吊り合わないのも本当。きっと悪気はないんだと思う)
それでも膝がガクガクと震えて、動揺が収まらない。その場を立ち去ることもできず立ち尽くしていると、今度は光治の声が聞こえてきた。
「孝臣、落ち着きなさい。母様はああ言ってるが、実のところ私が説得したんだ。お前は今まで辛い思いをしてきたから、せめて好きな人と添い遂げるのを許してやってくれと。私と一緒にお前まで不自由な思いをしなくていい。これからは自分の幸せを考えて生きて――」
「ふざけるな! それで俺に恩を売ったつもりか!」
「孝臣! やめて!」
急にドタドタッと騒々しい物音が響き、花は飛び上がるほど驚いた。何やらつかみ合う音。もしかして、孝臣が光治に飛びかかったのか? 先ほどの震えとは比較にならないほどの恐怖が花を襲い、物音を立てずにいられるのが難しいほどだった。
(どうして孝ちゃは光治さんに楯突くの? 奥様の時は我慢してたのに、光治さんにはあんなに逆上するなんて。しかも、怒るような内容じゃないじゃない?)
花には理解しきれなかったが、きっと孝臣にとって光治は特別な存在なのだろう。憧れと憎しみが入り混じった、複雑な感情の対象なのかもしれない。
「あなた、誰に歯向かってると思ってるの? 禍物祓いがいなければ帝都の平和は守れないのよ? 天子様に背くのと同じことなのよ?」
「母様、大丈夫ですから。孝臣の考えていることは分かります。ご心配は不要です」
「あんたの取り澄ました顔が死ぬほど憎いんだよ! 俺の気持ちが分かるって? 知った風な口を聞くな!」
花には決して見せない孝臣のもう一つの顔。彼女の前では決して「俺」なんて言葉は使わなかった。駄目だ、これ以上ここにいられない。花はおぼつかない足取りでその場から去ると、急な用事を思い出したから早めに帰る、挨拶できずに申し訳ないという言伝を使用人に託し、百合塚家を出て行った。
(おままごと……か。確かにその通りかも。でも、孝ちゃにとってはそうではないはず。あの人は本気で苦しんでる)
帰り道、花は悶々と考え続けた。差し出がましいことはできないと思ってきたが、そんな簡単に割り切れるものではない。孝臣を一人にしたくない。
*
それから一週間後、花と孝臣の結婚式が、百合塚家の離れの一室で行われた。
参列者はごく内輪の者だけに絞られた。東堂家からは健三のみ。百合塚家も摂子と光治以外は数人程度だった。華族の結婚式ならもっと華やかなのが普通ではないかと、花すら思うほどである。
契約結婚なのだから大袈裟でない方が助かる。だから、この質素な結婚式は好都合のはずだ。でも、孝臣の方は、花に対して申し訳なく思っているのだろう。彼の気持ちが想像できる分、複雑な気持ちだった。
本当にこのままでいいのか。とても罰当たりなことをしているのではないか。そんな不安に駆られ、角隠しの下から隣にいる孝臣をそっと垣間見るが、彼は涼しい顔をしたままだ。
(こんなのただの儀式よ。少し我慢をしていればあっという間に過ぎ去るわ)
でも、三々九度の杯を口に運ぶ時、隣の孝臣の横顔がいつもより大人びて見えた。いつもと違う羽織袴姿が新鮮で彼の凛々しさを引き立たせている。美しい横顔につい見とれてしまう。
(偽りの夫婦なのにどうしてこんなにドキドキするんだろう)
盃を受け取る手がわずかに震えた。
問題はこの後だ。新婚生活は、本家の邸宅ではなく、目白の一戸建てで暮らすことが決まっている。それを聞いた時、最初は喜ばしいと思ったが、今では不安の方が大きい。
(あれから孝ちゃは私を避け続けてる。立ち聞きしたことがバレたわけじゃないのにどうして? もしかして、家族に本音をさらけ出したのを恥じているのかしら?)
傍目には完璧な花嫁を演じても、花の心中は複雑だった。それを隣の孝臣に分かってもらえないことが、とても寂しく思えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます