第3話 家族への挨拶

 数日後、花は白地に鮮やかな牡丹が描かれた友禅に袖を通し、百合塚家への挨拶に臨んだ。もちろん着物も着付けも孝臣が手配したものである。母が再婚してからの数年間はいい暮らしができたが、その時もここまでの最高級品はお目にかかれなかった。結婚式でもないのにとすっかり恐縮しきった花に、孝臣は「着物だってきれいな人に着てもらいたがっている」と変な理由をつけて説得した。


「きれいだなんて、孝ちゃってば、お世辞が過ぎるわよ」

「お世辞じゃない。心からの本音だ。これは親戚から借りたものだけど、すごくハナちゃんに似合っている。僕の目もなかなかだろう?」


 孝臣が自ら選んでくれたと聞いて頬を赤らめる。そう言えば、前にも似たようなことがあったなと思い出し、とっておきのエピソードを明かした。


「孝ちゃのセンスがいいのは昔からだわ。前にもお土産くれたじゃない?」

「お土産? 何かあったっけ?」

「ほら、貝殻のネックレス。朝起きたら部屋の前の廊下に置いてあったの。まだ子供だったからすごくドキドキしたのよ? 今でも大事に取ってある」

「ああ、あれか……そんなこともあったね……」


 孝臣は意外にも、気まずそうに視線を下にさまよわせた。てっきり、一緒に懐かしがってくれると思ったので、花は訳が分からず目をしばたかせる。もしかして恥ずかしがっているのだろうか? 孝臣は、慌てた様子で別の話題に切り替えた。


「それより、時間がないから今日は借り物だけどそのうちハナちゃんのものを買ってあげるからね」

「私はいいのよ。別に贅沢をしたいわけじゃないから」

「近頃は洋装も流行ってるから色々見てみようよ。僕も今日は新しいスーツにしたんだ」


 孝臣はこの日も仕立てのいいグレーのスーツを着ている。これなら西洋人にも見劣りしないのではと思うほどに似合っている。でもこれから会う人は……花は、孝臣の兄、光治のことを考えて、不安と期待の入り混じった心地に包まれた。


(光治さんは孝ちゃと二つ違いだから二十五歳か。孝ちゃと同じくらいかそれ以上の美丈夫になってるんだろうな。当時からすごかったから)


 光治の名声は、花が百合塚家にいた頃から四方に轟いていた。長男が優秀なら百合塚家も安泰だろう、後は次男が続けば文句なしだなどと囁かれていた。


(だけど、孝ちゃは禍物祓いになれなかった。今回の契約結婚は、家族に対する意趣返しみたいなことを言ってた。やはり、孝ちゃも複雑な心境なんだろうな)


 そんなことを考えているうちに、孝臣と一緒に乗った自動車が百合塚家に停まった。ぐるりと壁に囲まれた、帝都の一等地にある広大な敷地を前にして花は息を呑んだ。


 この家に母が住み込みで働いていたのは、花が七歳から十歳までの四年間である。あれから十年。再びこの地に足を踏み入れることになろうとは思いも寄らなかった。しかも、正門から堂々と。


「ハナちゃん、緊張してる? 初めてじゃないだろう?」

「それでもやはり緊張するわよ。使用人の娘ではなく、孝ちゃの婚約者なんて、気が引けてしまうわ」

「大丈夫、僕がいるよ」


 孝臣は、花を励ますように微笑んでくれた。少し救われたがそれでも駄目だ。足がすくんでしまう。孝臣の後ろをしずしずとした足取りでついていったのは、しおらしい振りをしただけでなく本当に気が引けていたからでもある。


 十年ぶりに見る百合塚邸は松濤の高級住宅街にあり、今なお変わらぬ栄華を誇っていた。近年は洋式の建物が流行っているが、百合塚家は純和風の二階建ての広大な邸宅である。本来なら使用人の子供が家の中を自由に回れるはずがないが、花は孝臣や光治と仲が良く一緒に遊ぶ事が多かったので、この家の構造は熟知していた。


 広い玄関に足を踏み入れた時、昔馴染みの使用人が目に止まり緊張で体をこわばらせる。しかし、向こうは素知らぬ振りで、れっきとしたお嬢様として接するものだから余計に恐縮してしまった。正式な挨拶の場で、気軽な対応はお互い取れないものだ。


 そのまま孝臣の母と光治の待つ部屋へと案内される。陽光の差す廊下からは広々とした庭園が見えた。一流の庭師によって設計された純和風の庭園で、ここでかくれんぼをして遊んだのを思い出す。緊張の中にも懐かしい気持ちがじわじわと込み上げてきた。


「お母様、兄様、失礼致します」


 孝臣がかしこまった挨拶をしてから二人で部屋に入る。母の摂子と兄の光治が、菖蒲の花が飾ってある床の間を背にして並んで座っていた。


(光治さん……! 眩しいほどにご立派な……! それだけじゃない、おいそれと近づける雰囲気じゃないわ)


 花が最後に光治を見たのは、彼が十五歳の時。まだ少年らしさが残っていた彼は、眉目秀麗な青年に成長していた。兄弟だけあって孝臣と似た顔立ちではあるが、光治はどこか異次元の美しさをまとっている。禍物祓いという技能を持つと、雰囲気も神々しくなるものなのかと花は不思議に思った。


(同じ兄弟なのに、こうも違うものなのね。光治さんは生まれながらに特別な人なんだわ。でも、孝ちゃにも孝ちゃなりの良さがある。どちらがいいかなんて単純に決められるものじゃない)


「まあ、久しぶりね。覚えてるわよ、お花ちゃんでしょ。ぼんやりしてないでお座りなさいな」


 摂子が小さく笑いながら声をかける。すでに成人した二人の息子の母なのに、前に会った記憶と寸分違わぬ美しさを保っている。花は我に返って、精一杯上品な仕草で座布団の上に正座した。


「東堂花です。奥様、光治様、お久しゅうございます」

「そんなにかしこまらなくていいのよ。すっかりべっぴんさんになって。はるさんに似てきたわねえ」


 はるとは花の母の名だ。摂子が花たちを覚えてくれたと知りほっと緊張が解ける。


「私たち親子のことを覚えてくださりありがとうございます」

「当たり前じゃない。はるさんのことは孝臣から聞いたわ。可哀想だったけど、娘が立派に育ってくれて喜んでるでしょう」


 優しい言葉をかけられてつい涙腺が緩む。母のことに言及してくれることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。

 

「光治も覚えてるわよね? お花ちゃんのこと可愛がってたもの」


 摂子が光治に話を振って、再び緊張が走る。元からそうだったが、光治に目を向けられるとどぎまぎしてしまうのだ。


「せっかくの晴れの日なのに、堅苦しい制服姿ですまない。今日は非番のはずだったんだが、欠員が出て待機番になってしまった」


 光治は開口一番、禍物祓いの制服姿でいることを詫びた。何事にも折目正しい彼らしい。


 藍色の詰襟の制服は均整の取れた体躯に合っており、彼の美しさと凛々しさを引き立てている。帝都に禍物が出現した時、その場に居合わせた民衆は、この藍色を見るだけで救われた気分になると言われるのも納得だ。


「とんでもございません。何よりもまず帝都の安全が最優先です。光治さんのご活躍は風の噂で聞いておりました」

「私は何にも変わってないよ。目の前の仕事をがむしゃらに片付けるうちに、あっという間に時間が過ぎた」


 光治は抑揚のない声色で言いながらも、微かに目を細めて花を見やった。そう言えば、彼は元から感情を表に出すことが少なかったなと思い出す。一方、孝臣はくるくる表情が変わるのが特徴で、兄弟といえども、顔が似ている以外は対照的な二人だった。


「お花ちゃんはうちの事情を分かってくれているから助かるわ。なにせ特殊な事情がある家だから、うちみたいなところに来てくれるお嬢様がなかなかいないの」


 頬に手を当てながら摂子が悩ましげに話す。それからしばらくは、摂子と光治と花の三人で会話が続いた。しばらくして、花はあれと気付く。孝臣の影が薄くなっているような、そんな感覚を覚えたのだ。隣を見ると、孝臣は確かにそこにいるが、彼の表情からは何を考えているかうかがい知れない。


(孝ちゃがいなくても会話が成立している……まるで彼が透明人間になったみたい。どうしてだれもおかしいと思わないの?)

 

 孝臣は穏やかな表情を保っているが、手が膝の上でわずかに握りしめられているのを花は見逃さなかった。きっと慣れっこなのだろうが、それでも辛いものがあるに違いない。


 それに、おかしなことがもう一つある。使用人の子供と華族の次男が結婚するなんて、普通は嫌がられるはずなのに、そんな様子が見られないのだ。孝臣も「驚かせたい気持ちがある」と言っていたのに、摂子と光治は驚くどころか歓迎している節すらある。花はその疑問を口にしないわけにはいかなかった。


「前から気になっていたんですが、本当に私でいいんでしょうか。元は使用人の子供が華族の家に嫁入りするなんて、いくら何でも反対されると思ったのですが。それに、公爵家のお嬢様との話があったと聞きますし……」

「反対だなんて滅相もない! 確かに嫡男なら色々と制約もあるけれど、次男ですし、公爵家の話も正式決定ではありませんから」


 摂子は孝臣をちらりと見て続ける。その美しい横顔は、一切のためらいや迷いも見られなかった。


「この子は自分で道を選んでいますからね。むしろ、家のしがらみに縛られずにすむ分、気楽かもしれないわ」

 

 えっ……と花は言葉に詰まった。確かに孝臣は禍物祓いではない。禍物祓いは内務省直轄の組織だが、さらにその下部組織として、孝臣のいる特殊災害対策課がある。一言で言えば、禍物被害の対応に当たる仕事だ。結局禍物と縁が切れないでいる。これを「自分で道を選んでいる」と言っていいのか。


 それに孝臣は、百合塚家にとってどうでもいい存在だから使用人の娘と結婚しても問題ないという風にも聞こえてしまう。摂子の言葉から悪意を読み取りたくないが、花は何とも言えない気持ちになった。


 このままじゃいけないと、花は頭をひねって孝臣を擁護する言葉を考えた。これこそが、自分がいる意味のような気がした。


「あのっ、特殊災害対策課とは、その場にいる人を避難させるだけでなく、禍物との戦いで破損した器物の修理の手配をしたり、負傷者の治療先を探したり、実に複雑で多岐に渡る業務だと聞きました」


(このままじゃ孝ちゃがあんまりだわ。せめて私だけでも彼の味方でいたい!)


 頭が沸騰しながらも必死に考えて言葉を繰り出す。

 

「ある意味、禍物祓いと同等に、とても大切でかけがえのない業務だと思います。心身共に苦労の絶えないお仕事に従事する孝臣さんを、精一杯支えていきます!」


 孝臣から話を聞いていたわけではなかった。先日、芝居小屋で客が捨てていった新聞に「禍物祓いを支える人たち」というタイトルの連載記事があったことを思い出したのだ。あの時掃除がてら拾った古新聞に目を通しておいてよかった、一体何が役に立つか分からない。


 これには、摂子や光治だけでなく、孝臣も目を丸くして花をまじまじと見つめた。奇妙な空気に包まれたのを察し、場違いな発言だったかもと冷や汗をかく。しかし、それまで消え入りそうだった孝臣の存在感が戻ってきたような気がして、少し安心した面もあった。本人は無意識かもしれないが、さっきまで握りしめていた拳もいつの間にかほどけている。


 その時、光治が重々しく口を開いた。


「お花ちゃんの言う通りだ。我々はただ禍物と対峙して成敗することだけ考えればいいが、それには実に多くの人の手を借りねばならない。そういった人たちに支えられていることを忘れちゃいけないね」


(あ、光治さんが笑った)


 光治が孝臣に向かって軽く頷いた時、花は息を呑んだ。光治の口角がわずかに上がっている。それは無表情だった彼が見せた、初めての笑みだった。もしかしたら、光治は孝臣をきちんと理解しているのかもしれない。そんな希望を抱かせる笑みだ。結局、摂子も無難に話を合わせてその日はお開きとなった。


 最後に少し気になったのは、光治の発言があってから、孝臣がまた透明人間になった気がしたことだった。些細なことだが妙に引っかかった。


(光治さんが輝けば輝くほど孝ちゃは影に隠れてしまう。私がここに来た意味は……)


 これはただの契約結婚だ、間違っても思い上がってはいけない。それでも自分に課せられた使命があるのではと感じずにはいられなかった。


 

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