第2話 契約結婚のプロポーズ

 僕の力になってもらえないだろうか。


 突然の孝臣の申し出に、花は戸惑いを隠せなかった。


(なぜ私を頼るの? 孝ちゃほどの人ならもっといい人材がいるでしょうに?)


 ついさっき情けない姿を見られたばかりの花がそう思うのも無理はない。


「ねえ、それ本気で言ってる? 私が孝ちゃのためにできることなんてあるの?」

「ある。というか、ハナちゃんだからこそ頼みたいんだ」


 どうやら冗談を言っているのではないらしい。花も健三も怪訝な表情を浮かべたまま、孝臣の話を聞いた。


「母から結婚しろと促されている。役に立たないのならせめて跡取りを作ることで家に貢献しろと。いわば種馬だね。でも僕は結婚したくないんだ」

「そんな……! お母様がそんなことをおっしゃるの?」


 花は、孝臣の母のことは詳しく知らない。当時はまだ子供だったし、光治や孝臣以外の交流は少なかった。しかし、当時、親子仲が悪かったと言う話は聞いていない。


「母の言うことも一理あるんだけどね。兄さんは禍物祓いだから、いつ危険な目に遭うか分からない。もちろんいつかは結婚するんだろうけど、もしものことがあっても、百合塚家の血を途絶えさせないために、スペアを用意したいんだろう」

「それと…………私がどう関係してくるの?」

「実は、さる公爵家の令嬢との見合い話がある。このまま行けばその人と結婚するんだろうけど、さっきも言ったように、気が進まないんだ。知らない人と一緒に暮らすという感覚が僕にはどうにも分からない。世間の人が普通にできることが、僕にはできないんだ。それと、生まれてきた子供が、また無能力者だったらどうしようという心配もある。僕がそうだから、またそうなるのが怖い」


 孝臣は整った容貌を崩さず、他人事のように淡々と説明した。聞いている方は、話の内容が重くておいそれと言葉を挟むことができない。だが、それより気になるのは、花の疑問に孝臣が答えてくれないことだった。


「まさか私に……」

「本当の夫婦じゃない。かりそめの関係でいいんだ。見せかけだけで実態を伴わない契約結婚というやつ。一緒の家には住んでもらうけど実質的な夫婦関係はない。ハナちゃんの名誉は守られる」


 契約結婚……とんでもない話に開いた口が塞がらない。花が何も言えずにいると、健三がたまらず話に割って入った。


「失礼を承知で申し上げますが、この三笠健三、ご主人様から死んでもお嬢をお守りせよと仰せつかりました。結婚したくないからって、お嬢を利用するなんてとても――」

「待って健三! ここお上品な店だから! 騒ぎを起こしたらつまみ出されるわよ!」


 慌てて花がたしなめる。折しも、このタイミングでカツレツが運ばれてきたので、健三も矛を収めるしかなかった。カツレツの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。肉なんて、父母が生きていた頃以来だ。大事な話をしているのに、どうしても視線がそちらに向いてしまう。


「どうぞ。食べながら話そう。気分を害したのなら謝る。でも、こっちもハナちゃんだからこそ頼めるんだ。本当の気持ちを打ち明けられる相手が他にいない」


 孝臣は、器用にナイフとフォークを扱いながら、カツレツを口に運ぶ。一方の花と健三は、おいしそうな料理を目の前にしても手をつける気になれなかった。


「光治さんより孝ちゃの方が先なのは……」

「兄さんの方がよかった?」


孝臣の声に、わずかだが棘があった。花は慌てて手を振る。


「何言ってるのよ! そういう意味じゃないって!」


(でも確かに、昔は光治さんに憧れていた。孝ちゃはそれを覚えているのかしら)


 ただ、兄より弟の結婚話が先なのが不思議に思っただけだったのに。それに、当時、禍物祓いとして駆け出しだった光治は、みなの憧れの存在だった。孝臣も目を輝かせ期待を寄せていた一人だった。花だけが特別だったのではない。

 

 それにしても変な話だ。確かに昔はよく遊んだが、それは子供時代のこと。あれから十年近く経って二人とも色々あった。もう前と同じ花ではない。それは孝臣も同様だろう。花は、ゆっくりと言葉を選びながら口を開いた。


「さっき見たでしょう……私はお偉い人たちの前に出られる人間じゃないの。それに……」


 花はもじもじと下を向いて声を落とした。


「もし契約結婚だとバレたら、孝ちゃの立場はどうなるの? 華族が平民と偽装結婚なんて、世間が許すと思う?」


「人を騙すのが得意ならうってつけじゃないか? 僕たちで正々堂々と世間を欺いてやろう。それに華族だからってお上品とは限らないよ? むしろ、何でも許されるから風紀は乱れ放題だ。中にいるから実情を知っている」


 それでも花が迷っていると、なおも孝臣は言葉を被せた。


「正直言うとね、母と兄さんを驚かせてやりたい気持ちも少しあるんだ。禍物祓いになれなかった僕は要らない存在だから……母にもそんな扱いを受けてるしね。自分にも意思があることを示したい」


 一瞬ではあるが、孝臣の表情に寂しげな影が差した。


「でも、それだけじゃないんだ。ハナちゃんとなら……昔みたいに自然でいられるような気がする。君の前では取り繕う必要がない」


 それはどういう意味なのだろうか。きっと昔からの友達というだけの意味よねと思いつつ、どこか気恥ずかしくて、花は身をよじった。しかし、健三の方は険しい表情のまま孝臣に詰め寄った。

 

「お辛い立場なのは分かりますが、あなた様のご事情にお嬢を巻き込むのはやめてもらえませんか……」

「そう言う君は?」


 孝臣の鋭い視線に晒され、健三が息を呑む。代わりに花が説明した。


「健三は亡くなった父が一番信頼していた部下なの。父は裕福な貿易商で、母が百合塚家で働いてた時に知り合って結婚した」

「それは僕も知ってる。ハナちゃんと離れた原因がそれだったから」

「父とは血がつながってなかったけど、本当の子のようにかわいがってもらったわ。それが二年前に自動車事故で一度に両親を失って……家も会社も親類に取られて追い出されたけど、健三だけは付いてきてくれたの」

「どうかお嬢を頼むと旦那様に言われたんです。ですから、こちらも生半可な気持ちで申しているのではありません。無礼は承知しております」


 健三が頭を下げながら言ったのを見て、孝臣も表情を改めた。


「こっちも本気だ。それにハナちゃんにとっても悪い話じゃないと思う。契約期間が終わっても、生活できるだけの十分な資金は与えよう。少なくとも、今の暮らしよりは楽になると思うが」

「でもこんな変な話に巻き込まれたらどうなるか……お嬢には安定した生活を送ってもらいたいんです」

「何も知らない人を騙して金を巻き上げることが安定してるって?」


 ぐうの音も出ない正論に健三は黙るしかなかった。亡き主人の伝手でとある会社に勤めていたが、昨今の不景気に煽られてクビになったばかりだ。花も仕事に出ているが、彼女だけの稼ぎでは生活が苦しい。己の不甲斐なさは健三自身が痛いほど自覚している。


「健三はよくやってくれているわ。彼を悪く言わないで。分かった。よく考えておくから時間をちょうだい」


 結局、花が話を引き取ってその日は終わりになった。孝臣は満足そうな笑みを浮かべて、カツレツに舌鼓を打った。



 孝臣と別れた後、花と健三は住まいとしている隙間風の絶えない長屋に帰って行った。先ほどの整然と区画整理された街とは正反対の、ドブ臭く埃っぽい下町に二人は住んでいた。


 せっかく孝臣がおごってくれたのに、カツレツの味はよく分からなかった。契約結婚なんて奇妙奇天烈なものを提案されたからだ。彼の言ってることもよく分からない。花はモヤモヤした気持ちを抱えたまま浴衣に着替えて煎餅布団にもぐった。


「お嬢、さっきの話どうするおつもりですか?」


 灯りを消してから、隣の部屋にいる健三が襖越しに尋ねる。二間しかない長屋が現在の二人の住まいだ。


「そんなのまだ分からないわよ。一刻も早くこの生活から抜け出したいけど、孝ちゃの話に乗るべきか迷ってる」


 条件のいい話ではあるが、うまく周囲を騙しおおせるか自信ない。それに、光治やその母親と会わなければいけないというのがどうにも憂うつだった。孝臣の言ったようにそう簡単にことが進むとは思えない。

 

「それもこれも、俺が力不足だからですよね。本当に申し訳ありません」

「健三は関係ないってば! 私も働いてるしお金なら何とかなるわよ!」


 頑張ってくれる彼を励ましたかったが、今のままではジリ貧まっしぐらなのは確かだ。これからどうしたらいいのか――花は先の見えない不安で、いつまでも寝付けなかった。



 翌日、花はいつもより早い時間に職場に向かった。結局十分な睡眠が取れず眠気が残っているが、昨日着た民族衣装を他の人が来る前に返却しておく必要があったのだ。


 彼女は浅草の芝居小屋で清掃の仕事をしている。そこは女性だけのレビューや剣劇などを披露する劇場で、衣装部屋には着物やドレスなどがたくさんしまわれていた。それを「副業」のためにこっそり拝借したという次第だ。


(よし……まだ誰も来ていないわね……)


 注意深く辺りを見回してから衣装部屋に入りさっと戻して退出する。無事証拠隠滅できたとほっと一息ついているところに、芝居小屋の番頭が突然声をかけてきた。


「あー、東堂さん、ちょっといいかな?」

「きゃあっ!」


 自分でもびっくりするくらいの大声を出して飛び上がった。話しかけた番頭も一緒に驚いてしまった。


「す、すいません。番頭さんがいらっしゃるとは思わなかったので」

「ごめん、今日は早く来てて……ちょっと話したいことがあってね」


 どうしよう。勝手に衣装を借りていることがバレてしまったのだろうか。花の心臓は早鐘を打った。


「な、なんのことでしょう……」

「いやね、最近他の小屋に客を取られてね……うちも経営が厳しいんだよ。そこで人件費を減らそうかと。つまり、清掃人の数を減らすんだ。申し訳ないが、今月いっぱいで終わりにしてもらえないかな?」

「つまり……クビってことですか?」

「すまないね。東堂さんなら若いから、仕事も見つけやすいかなと思って」


 若いから、と言われても花には何の技能もない。女学校も中退し、特別な資格もなく、頼れる縁故もない。番頭は悪い人ではないが、花の事情など知る由もないのだ。


 衣装を無断で借りていたのがバレたわけではないと一安心したのも束の間、それよりもっと大きな爆弾を投下されて、目の前が真っ暗になった。


 女学校時代に両親が亡くなり中退した花は、割りのいい仕事に就くのが難しい。今の仕事だって苦労の末に見つけたのに、それでも月収が二十円にも満たない。当時のサラリーマンが月五十円、女性の憧れの職業であるタイピストが三十五円くらいの時代、おまけに今は健三が失業中と来ている。


「分かりました……今までお世話になりました」


花は震え声でそう言うと、深々と頭を下げた。涙で前が見えなくなりそうだったが、最後くらいは毅然としていたかった。


(どうしよう。これで二人とも無職になってしまった。結局孝ちゃの言うことを聞かなきゃいけない……ってこと!?)


 誰もいなくなったところで、一人掃除を始めながらぐすぐすと涙が出てくる。花は、昨日孝臣が言った言葉を思い出した。『ハナちゃんだからこそ頼みたいんだ』


 果たして自分に、そんな価値があるのだろうか。

 

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