帝都にけぶる花霞〜たとえ偽りの契りでも〜
雑食ハラミ
第1話 十年ぶりの再会は東京駅で
赤レンガ造りの荘厳な東京駅には、今日も全国津々浦々から一旗上げんと夢を抱く者たちが集まってくる。春のうららかなある日、中央改札の円形ドームの出入り口で、一組の男女が人々の注目を集めていた。
「ここにお集まりの皆々さま、後生ですからいたいけな少女の哀切な訴えを聞いてはいただけまいか? これから始まるは、誠持って波乱万丈、聞くも涙語るも涙の家族の別離の物語でございます!」
男が口上を述べる横で、アルプスの民族衣装を着た少女が立っていた。白いパフスリーブのブラウスに黒のベストを着て、赤いスカートの上には花柄の刺繍が鮮やかな白エプロン。スカーフを頭に被るその姿は「いたいけな少女」そのもの。芝居がかった憂い顔で佇む姿は、舞台でスポットライトを浴びた女優のようだった。
アコーディオンを持った男と可憐な少女の奇妙な組み合わせ。彼らを見た者たちは、首を傾げながらも次々に足を止めた。
「何が始まるんだい、相手はまだ年端もいかぬ少女じゃないか」
「珍妙な服を着ているね。帝都じゃこんなのが流行っているのかね」
ヒソヒソと囁き合う人の輪が広がった頃合いを見計らい、男が悲しげな短調のメロディを奏で始める。前奏に合わせて彼女は西洋風の気取った礼をしてから、長いまつ毛を伏せ眉を八の字に寄せて歌い出した。
「いずこにおわしや お父様
達者で暮らせと 言い残し
船で向かいし シベリアへ
優しい笑顔が 忘れえじ」
朗々とした歌声が辺りに響く。シベリアと聞いて察しのいい者は、彼女の父親が先の大戦でシベリアに出征したのだと考えた。それを裏付けるかのように間奏を弾きながら男が補足する。
「この子の父親は、お国のために外国へ戦に行きましたが、未だ音信不通。恩給も父のいない寂しさに比べたら雀の涙。かくして少女は今日もこうして、父の帰りを待っているのであります!」
口上が終わったキリのいいところで二番に移る。赤子の坊やも今ではやんちゃ坊主でと歌えば、何人かがハンカチで目を拭う。それを横目で確認しながら三番に移り、「星のまたたく ツンドラの 凍った大地に 眠るのか」と締め括ったところで万雷の拍手が起きた。
「やあ! 何て可哀想なんだ! こんなひどい話があるもんか!」
「きっとお父さんは帰ってくるわ! 希望を捨てないで!」
みな涙ながらに彼らを励ます。男はアコーディオンを床に置くと、被っていた帽子を取り前に差し出した。
「ご清聴ありがとうございました! もし、この少女と家族に幸多からんと願ってくださるなら、いくばくかのご寄付をお願いします!」
その声に呼応するかのように、聴衆たちは一斉に財布の紐を緩め出した。一人が始めたらまたもう一人と、我先にお金を入れていく。小銭の小気味いい音が響く中、たまに紙幣をねじ込む者もいる。この分だと今日は大漁かもしれない。
「頑張れよ! きっと幸せになる日が来るからな!」
「はっ! ありがとうございます! 旦那もご達者で!」
ここでにんまりと笑ったら、今までの苦労が水の泡だ。男が大袈裟な身振り手振りで礼を言う一方、彼女は澄ました顔で軽く礼をするだけだった。
このまま行けば首尾は上々と思われたが、途中で思わぬ邪魔が入った。立派な口髭を生やした警官が顔を真っ赤にしてこちらに向かって走って来たのだ。
「こら〜! 勝手に駅で商いをするな! またお前らか、今日こそはしょっ引いてやるからな!」
警官の姿を認めるや否や、二人は速やかに募金活動を中止した。男は中身がこぼれないように口を握ったまま帽子を彼女に渡し、自分はひょいとアコーディオンを抱える。そして二人して、周囲の人を突き飛ばしながら脱兎の如く反対方向へと走っていった。残された人たちは口をポカンと開けたまま、一目散に逃げていく彼らを目で追うことしかできなかった。
間に合わないと見てとったのか、警官は、呆然と立ち尽くす観衆のところで立ち止まり、膝に手をつき肩で大きく息を整えた。
「またあの手合いか。いい加減学習しろってんだ!」
警官は苦々しげに呟くと、呆然とする群衆をぐるりと見回した。
「皆さん、気をつけなさい。帝都には人の善意につけ込む者も多いんです。人を見たら泥棒と思えって言うでしょう?」
さっきまで同情的だった空気が「泥棒」の一言でがらっと変わった。観衆の一人が恐る恐る尋ねる。
「あの、今のは一体?」
「あんな変な衣装着てたらおかしいと気づくもんでしょう……まあ、高い勉強代だったと思って諦めなさい」
そう言い、手でしっしっと払ってここから去るようにと促す。観衆たちは、頼りない警官だなどとぶつくさ言いながら渋々と散り散りになった。さっきの二人も癪に触るが、偉そうな警官の態度も気に入らないのだろう。こうして東京駅は元の日常に戻ったのだった。
一方、逃げた二人は、数百メートル先のたばこ屋と甘栗屋の間の暗くて細い路地に逃げ込み、追手が来ないのを確認して、一息ついていた。
「まったく! 邪魔が入らなければもっと稼げたのに!」
「お嬢が性懲りもなく、また東京駅に行こうなんて言うから! 俺たち目をつけられているんですよ!」
「だって、浅草じゃ仕事場に近いし、上野新橋はこないだ行ったばかりでしょう? それより、今日はどれくらい集まったと思う? 一銭も落とさないように握りしめてきたんだから」
先ほどまでのたおやかな少女はもうどこにもいない。目を爛々と輝かせ帽子の底を覗く彼女は、よく見れば小柄ゆえ少女に見えるだけで、実年齢は二十歳だ。それでも、おしろいの上に頬紅と口紅を塗って愛らしく化粧すればそれらしく見えないこともない。
初めのうちこそ罪悪感と後ろめたさが優ったが、今ではすっかり乗り気だ。もちろん、シベリアに出征した父も存在しない。二人は、ジャラジャラと鈍い音を立てる小銭の山を見て思わず笑みをこぼした。
「やったわね、健三。これなら少しくらいあんみつを食べても許されるわよね?」
「今月の家賃もどうにかなりそうです。また首の皮一枚つながりましたが、今のような綱渡りはこりごりです。せめてもっといい仕事が見つかればこんなことしなくてもいいのに……」
「あら、私は最近楽しくなってきたわよ? もしかしたら天職かも? なんちゃって」
「勘弁してくださいよ! こんなの今だけですよ! 亡くなったご主人様と奥様に面目が立ちません!」
健三が本気で声を上げるのを見て、彼女はカラカラと笑った。貧しくて苦しい時ほどよく笑えとは、亡くなった母がよく言っていたことだ。身をやつしてアコギなことをやっても、変なところで律儀な彼女は、決して親の教えを忘れなかった。
すっかり油断して気が大きくなっていたのだろう。迂闊にも、二人の前ににゅっと大きな影が立ちはだかったことは全く分からなかった。その影の主が声をかけたところでやっと気づいたくらいだ。
「お取り込み中恐縮だが、ちょっといいかい?」
突然降って湧いた若い男の声に、二人とも飛び上がらんばかりに驚いた。まさか、人目につきにくい暗い路地に他人が入ってくるとは思わなかったのだ。彼女は、かっとなって猛犬のようにがなり立てた。
「一体何事だい!? あたしらみたいなチンケな輩、逆さまにしても何も出ないよ?」
「別に脅してるわけじゃない、ただ――」
「それともアレかい? あたしはね、何があっても春だけは売らないって決めてるんだ! 警官だろうが閻魔様だろうが、どこでも突き出しゃいい!」
精一杯の虚勢を張って啖呵を切る。彼女としてはせめてもの威嚇のつもりだったが、相手の青年は怯むどころか、声を殺してクスクスと笑い出した。
「何を笑って――」
「いやごめん。可憐なアルプスの少女があまりに威勢いいものだから。僕を覚えていないかい? ハナちゃん?」
ハナちゃんと呼ばれて、心臓が止まりそうになった。東堂花というのが彼女の名前だが、ハナちゃんと呼ぶ人物は一人しかいない。もう二度と会えないと思っていたのに、まさか再びあい見える日が来るとは。
「もしかして……
仕立てのいい白のスーツに身を包んだ青年は、同色の中折れ帽を取り、白い歯を見せて微笑んだ。
*
一行は、近くのこぢんまりした西洋料理店に入った。中は狭いが、漆喰と茶褐色に塗られた腰壁に囲まれた内装は重厚感があり、長屋住まいの二人には決して手の届かぬ店なのは明らかだ。なのに、「孝ちゃ」はゆったりした足取りで店に入り、入り口で尻込みする二人に悠然と手を振って招き入れた。アルプスの少女姿なのがとても恥ずかしいが仕方ない、腹をくくることにする。
ウェイターが注文を聞きにきたが、カタカナで異国の料理の名前が書かれたメニューの中にはよく分からない料理もあった。結局彼に倣って、全員カツレツを頼むことにする。
「まさかこんなところでハナちゃんに会えるとは思わなかった」
「私は最悪のところを見られてしまったわ。孝ちゃだけには見られたくなかった」
花は青年の向かい側に座り、消え入りそうな声で言った。ついさっきまで高揚感に包まれていたのに、今では恥ずかしい気持ちでいっぱいだ。昔馴染みに見られたことですっかり正気に戻ったのだ。母が知ったらどう思うだろう。それでも、隣の健三が不思議な顔をするので彼を紹介する必要に迫られた。
「お嬢、この方は一体……」
「こちら
「えっ、百合塚と言えば、伯爵家の称号を持つ名門華族じゃないですか! そんな名家とお知り合いだったなんて!」
「ただの使用人だってば! 別に私が偉いわけじゃない!」
花はムキになって否定したが、孝臣は微笑みながら詳しく説明した。
「ハナちゃんとは幼馴染で一番の仲良しだったんですよ」
「やっぱりお知り合いじゃないですか!」
「そんなんじゃないって!」
耳まで真っ赤になる花を見て、孝臣はさらに笑みを深くする。そんな二人を、健三は初めて見るもののようにまじまじと眺めた。
「するってえと、この方も
「いや、弟の僕にはその才能は顕現しなくて。今は当主の
孝臣は苦笑しながらそう言って、手元の水を飲んだ。光治――その名前を聞いた瞬間、花の胸に懐かしさと何とも言えない切なさが込み上げてきた。あの頃、禍物祓いとして駆け出しだった彼は、みなの憧れの存在だった。もちろん、子供だった花も例外ではない。孝臣は、コップに口を付けたまま一瞬だけ刺すような視線を彼女に向けた。
「光治さんが当主ってことは、お父様は……」
「三年前に亡くなった。禍物にやられたわけじゃなく病気だったのは不幸中の幸いだったが。本当は兄弟揃って百合塚家を支えたかったけど、兄さんばかりに負担をかけてしまって不甲斐ない弟だよ」
禍物とは、急速に発展する帝都にはびこる異形のことだ。痩せこけた鬼のような形をしており、これを祓うのが禍物祓い――国直轄の組織である。
(子供の頃に一度だけ見たことがある。百合塚家の庭に禍物が紛れ込んできたんだっけ。黒い霧のようで恨めしい呻き声を上げていたのを今でも覚えてる。襲われかけたところを光治さんが呪術で祓って助けてくれたんだわ)
近頃は帝都の発展と共にその数も増え、禍物祓いの需要も高まっている。百合塚家は、代々禍物祓いを輩出する名門だった。
(孝ちゃも兄さんより強くなるんだと意気込んでいたのに……禍物祓いになれないと知った時どんな気持ちだったろう)
花は、快活に笑う孝臣を見てそんなことを考えた。花とは三つ違いだから、今は二十三歳。大学を出てどこかで働いているのだろう。全身白のスーツを優雅に着こなす彼を見た時は、舞台俳優かと思った。さらりとした髪を真ん中で分け、生まれが上品なせいか西洋の装いをしてもキザにならない。
誰が見ても貴公子然とした彼だが、禍物祓いになるのが男子の責務とされる家に生まれたにもかかわらずその適性がないとなれば、内心は複雑な感情を抱えているに違いない。子供の頃から百合塚家を知っている花にはそれが分かっていた。
もちろん、本人はそんなことはおくびにも出さず、至って爽やかな好青年にしか見えない。彼の才覚を持ってすれば、禍物祓いでなくても、立派な人物になれるだろう。一人考えにふけっていた花は、孝臣に何度も呼びかけられて我に返った。
「ハナちゃん、どうしたの? さっきから何度も呼んでるのに?」
「ああごめん。久しぶりすぎてぼんやりしてた。で、話はなあに?」
「実は、ハナちゃんにお願いがあるんだ。ぜひ、僕の力になってもらえないだろうか」
孝臣の表情が一瞬曇る。それを見て花も戸惑いを見せた。
「力ってなんの?」
立派に成長した孝臣が、今や路上で芸をして日銭を稼ぐほどに落ちぶれた花に何を頼るというのか。なおも言い淀む彼を見て、花の眉間のしわが深くなった。
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