day12「事件」

「フェリ、ス……?」



 雨でずぶ濡れになったまま部屋に入った柊の目にまず飛び込んできたのは、テーブルの前に座って俯いているフェリスだった。新雪のような髪が顔を隠すように垂れているため、その表情は窺えない。


 次に目に入ったのは、テーブルの上で開かれた自身のノートパソコン。ノートパソコンの画面に映っていたのはよく見知ったフォルダ——『死』と、その中に仕舞い込んでいた自殺の方法について要約した数々のメモだった。


 少し遅れて状況を認識した柊は、雨で濡れた身体のみならず心までもが冷え切っていく感覚を覚えた。この世界の中で二人の間だけ、時間が止まった気さえした。それから、止まった時間を動かすように柊が口を開く。



「……シャワー」

「え……?」

「雨に濡れたから……シャワー、浴びてくる」

「あ、そ、そうだよね!  いってらっしゃい……!」



 フェリスは少し顔を上げたものの、柊の方を見もせずにそう言った。その端正な横顔は今まで見たことがないくらい引きつっていて、可憐な声は震えていた。

 フェリスの様変わりした態度に胸が抉られるような思いを抱いた柊は、浴室へ逃げ込んだ。




(…………どうしよう)



 浴室の扉を後ろ手に閉め、柊はその場にずるずると座り込む。



(PCにパスワードを掛けておけばよかった。もっと早く帰ればよかった。……そもそも、フェリスを置いて買い物になんて行かなければよかった。そうしていたら、今頃……フェリスはいつも通り笑ってくれていただろうし、お互い……いつも通りでいられたのに)



 小窓に当たる雨音と柊の浅い呼吸だけが響く浴室で。柊は今日の自身の行動を思い返し、ひたすら悔やんだ。





 うっかり箱ティッシュを切らした柊は、昼寝をしているフェリスに書き置きを残してスーパーに来ていた。降りしきる雨の中——しかも何の予定もない休日だというのに外出するのは気が重かったが、他にもいくつか切らしそうな日用品があったので仕方ないと半ば無理やり自分を納得させて、手早く買い出しを済ませたのだった。



 パンパンの買い物袋と使い古したビニール傘を抱えてスーパーを出ようとすると、スーパーの駐車場の近くで右往左往している幼稚園児くらいの女の子が柊の目に入った。


 スーパーに出入りする人はそこそこいたが、周囲に女の子の保護者らしき人も女の子に声を掛ける人も見当たらない。柊は仕方なく女の子に近付き、今にも泣きそうな表情の女の子の目線の高さに合わせて屈んで声を掛けた。



「ねぇ。……迷子?」



 それから女の子と手を繋いでスーパーのサービスカウンターに行くと、柊の予想よりも事態は早く収束した。サービスカウンターに先に着いていたらしい母親の元へ、女の子が柊の手からするりと離れて帰っていったのだった。



「うちの子がご迷惑をおかけしてすみません。ありがとうございます……!」

「お姉ちゃんありがとう……! バイバイ……!」

「いえ、当たり前のことですので。……またね」



 柊は手を振ってくれた女の子に控えめに手を振り返し、足早にスーパーを出た。




 片手に買い物袋、もう片方の手にビニール傘を差して住宅街を早歩きで抜けていると、住宅の少し開いた門扉から青い首輪をつけた白いトイプードルが顔を出した。

 柊は特に気にも留めず、自宅への道を急ぐ。トイプードルは門扉を出て、柊の進行方向と同じ方向へ早足で進み出した。すると同じ門扉から老婆が現れ、悲痛に叫んだ。



「あぁ、りんちゃん! 待ってちょうだい……!」



 そして、老婆は傘も持たないままトイプードルを追いかけ始めた。トイプードルはせいぜい人間の早歩き程度の速度で進んでいるため、いくら老婆と言えども追いつけるだろうと柊は一人と一匹の後ろで高を括っていた。しかし老婆はどうやら足が悪いらしく、トイプードルとの距離は開くばかりだった。


 柊は仕方なく老婆を追い越してトイプードルの前へ回り込み、トイプードルの進路を塞ぐようにしゃがんだ。



「あの、りん……ちゃん? 飼い主が呼んでるけど……」

「わんっ!」

「え、な、何……?」



 人生で初めてまともに接した犬に翻弄されつつも、柊はトイプードルの首輪を掴もうとそっと手を伸ばす。するとトイプードルは何かを察知したのか、柊の脇を抜けて去っていった。



「ま、待って……」



 柊は乗り掛かった舟を降りる訳にはいかないと、再度トイプードルを追いかけたのだった。




 そんなことを繰り返して15分程経過した頃、柊はついにトイプードルの首輪を掴むことに成功した。トイプードルはこの約15分間で柊に多少懐いたのか、首輪を掴まれて身動きが取れないにも関わらず尻尾を振っている。

 少し遅れて老婆が柊とトイプードルに追いつき、しっかりと首輪を掴みながらトイプードルを抱き上げた。



「ごめんねぇ、こんなに長い間追いかけさせちゃって……! うちのりんちゃんを捕まえてくれてありがとうね!」

「いえ、お気になさらず」



 柊に何度も頭を下げてお礼を言った後、老婆は自宅への道を戻っていった。柊は居ても立っても居られず、老婆とトイプードルへ差していた傘を半分差し出し、自宅まで送っていく趣旨を伝えた。


 老婆は「そこまでしてもらうのはさすがに申し訳ない」と断ったものの、柊は「あなたとワンちゃんがお身体を冷やしたらと思うと心配なので」と押し通したのだった(それも決して嘘ではないが、一番の理由は「自宅に戻るまでにまた犬を逃がされたら厄介だから」というものだった)。



 

 無事に自宅に到着し、門扉を閉めた老婆の「お礼をしたい」という申し出を「用事があるので」と手短に断った後、柊は降りしきる雨の中を走って懸命に自宅へ向かっていた。

 全力で走っている故に傘が大きく揺れるため、傘は本来の機能をなさず、大粒の雨が静かに柊の小さな肩を濡らしていく。


 柊がふと顔を上げると、前方から傘を持たずに息を切らして走ってきている小学校低学年くらいの女の子を見つけた。その顔は林檎のように赤く、足取りも覚束ない。そんな様子を目にした柊は逡巡し、決めた。



「……ねぇ」



 女の子とすれ違う瞬間、柊は女の子にずいっと傘を差し出した。



「は、はい……?」



 気弱そうな女の子が目を丸くし、柊を見上げる。



「こんなボロボロの傘で良ければ、持っていって」

「え……!? でも、それじゃあお姉さんが……!」

「私の家はすぐそこだから。本当に、1分もしないで着くくらい。……あなたの家は?」

「こ、ここから30分くらい、です……」

「……はい。私、急ぎの用事があるから……じゃあね」




 柊に傘を持たせられた女の子の「あ、ありがとうございます……!!」という大声を背に受けながら、柊は傘を持たずに走り出した。——それから5分後。自宅に到着する頃には雨に打たれて全身ずぶ濡れになっていた柊は、様変わりした態度のフェリスと対面したのだった。





「……くしゅんっ」



 自身のくしゃみで我に返った柊は慌てて立ち上がり、シャワーからお湯を出した。



(そんなことを思い出している場合じゃなかった。早く……フェリスへの言い訳を考えないと)



 熱いシャワーを浴びながら、柊は必死に思考を巡らせる。



(フェリスに、いつも通り笑っていてほしい。それが叶うのなら言い訳の内容は何だっていい。……適当に誤魔化す? ……いや、フェリスはああ見えて賢いからきっと誤魔化しきれない。……自殺願望があることを、フェリスに打ち明ける? ……いや、こんなことをまだ幼いフェリスに話す訳にはいかない。……いや、いや、いや——)




 それからなるべくゆっくりシャワーを終えて着替えても、上手い言い訳は思いつかなかった。ずっと部屋に戻らない訳にもいかないため、柊は心臓が爆発しそうになりながら部屋に通じるドアを開けた。



「お、おかえりなさい……!」

「……ただいま」



 濡れた髪をタオルでわしゃわしゃと拭きながら、柊は相変わらずの様子のフェリスに言い訳した。



「死ぬって、どんな感じなのかなって思って……そのパソコンで調べて、まとめてみてた。……ただ、それだけ」



 その言い訳は、シャワーの終盤にやっと思いついたものだった。——こんな稚拙な言い訳をするくらいなら、黙って時が過ぎるのを待っている方が得策だったかもしれない。しかし、それまでフェリスの眩しい笑顔を見られないと思うと、行動を起こさずにはいられなかった。


 少し間を置いて、フェリスが恐る恐るといった様子で口を開く。



「自分で死ぬことに——自分で自分を殺すことに、興味があったの……?」



 慎重に言葉を選んでいる様子でそう言ったフェリスに、柊は何も言えなかった。そしてフェリスが未だに自分がいる方向すら見てくれないことにも、いつものようにしつこいくらいに名前を呼んでくれないことにも。今のフェリスの行動の一つ一つに、柊の胸がズキズキと痛んだ。


 こんな言い訳で、年齢の割に聡明なフェリスを誤魔化せるとは思っていなかった。しかし柊は、僅かな可能性に賭けてみたいと思ってしまったのだ。




「……なんで?」



 静まり返った部屋で。小さく息を吐くような声で、フェリスが柊に問う。フェリスは柊が帰宅してから初めて、何も言えずに立ち尽くしている柊の瞳をしっかりと見据えた。



「わかんない……わかんないんだよ、柊ちゃん……」



 フェリスのルビーのような瞳が悲しげに煌めき、堰を切ったように言葉が溢れ出す。



「柊ちゃんのことなら何でも分かるって思ってたのに、わたし……! 今の柊ちゃんのこと、分からないよ……!」



 フェリスはついに、吐き捨てるように叫んだ。



「柊ちゃんが嘘ついてるってことしか、わかんない!!」

「……あ、あ…………フェリス……」




 とうとう泣き出してしまったフェリスから、柊は目を逸らす。絶望感に脳が、全身が支配され、呼吸が独りでに速くなっていく。



(全部、終わった……終わってしまった……? い、嫌だ……笑っていてよ、フェリス……そうじゃないと私は……!)



 行き場を失った視線を六帖の洋室に這わせる。フェリスが泣いていることとノートパソコンが開かれていること以外は、いつもと何も変わらない部屋。柊は無意識に、この絶望から救われる術を探していた。



(私、は……この世界で、息ができない——)



 柊はふと、飢えた蝶がやっと花の蜜を見つけたかのようにふらふらとノートパソコンの前へ向かい、ノートパソコンに繋がれたマウスにそっと触れる。時間経過でスリープモードに移行していたノートパソコンの画面が再度光った。

 そして、ほんの二ヶ月前までは柊にとって生きていく上でのお守りのような存在だったのに、今となってはフェリスの笑顔を奪う原因となってしまったメモ達が表示される。



 マウスホイールを転がして、行く当てもなくフォルダ内を泳ぐ。我ながらよくここまで多く死に関する情報をまとめたものだと、柊は自分に呆れた。何の気なしにノートパソコンを操作していると、更新日が降順に並び変えられた。先頭に現れたメモ『飛び降り』の更新日時は、二ヶ月前の明け方を指している。



「…………あ」



 雨音に掻き消えてしまう程度の声量で、柊は声を漏らす。それは、なぜなら。



「フェリス」



 ——今、救いの糸を手中に収められた気がしたからだ。



「……話したいことがあるんだけど」





 柊とフェリスは、テーブルを挟んで向かい合って座った。窓の外の空は雨雲に覆われ、その上カーテンを閉め切っているため、部屋は6月の昼下がりとは思えないほど暗かった。



「……なに?」



 フェリスはゆっくりと顔を上げた。その泣き腫らした真っ赤な目に、恐怖が宿っているように見えた。柊は深呼吸をしてから、祈るように言葉を紡ぐ。



「私は、今は……死のうとなんて、思ってない」

「そう、なの……?」



 柊は立ち上がり、ノートパソコンをフェリスの方へ向けた。それからそっとフェリスの隣に座って、マウスでノートパソコンを操作する。



「これは更新日時って言って……最後にメモを編集した日時を表してる」



 フェリスは目を細めてノートパソコンの画面を見つめている。



「メモを最後に編集した日は、4月の初めの方。……この日以来、メモは書いてない」



 フェリスは少しの間、呆気に取られたようにノートパソコンの画面を正視してから——小さく頷いた。そして柊の瞳を覗き込み、震える声で問う。



「柊ちゃんは……死なない?」

「……うん。少なくとも、フェリスがここにいるうちは」




 フェリスは突然、柊の胸にぽすんと顔を埋めた。それから小さな両手できゅっと柊のTシャツを掴み、心底安心したような涙声で言った。



「うわあぁぁぁぁん……!! ……よかった。よかったぁ……っ!」



 柊の胸元を、温かい涙が濡らしていく。同時に、フェリスのしなやかな猫尻尾が柊の小柄な体躯に巻き付いた。



「わたし、柊ちゃんがいなくなっちゃうのかと思って……すごく、怖くなって……!」

「……ごめん」

「さっき、わーってなって、叫んじゃってっ……! それに、メモも、勝手に見ちゃって……! ごめんなさい……っ!!」

「謝らないで」



 泣きながら謝罪を繰り返すフェリスを柊はぴしゃりと制止し、眉間にしわを寄せながら固く目を閉じた。そして両手を爪が食い込むほど強く握り、慙愧する。



「全部……全部、私が悪いから。フェリスを置いて家を出たのも、早く帰らなかったのも、PCにパスワードを掛けていなかったのも、死にたいなんて思ったのも……」

「やめて」



 顔の下からそんな優しい声が聞こえ、柊ははっと目を開ける。すると、フェリスが両手をうんと伸ばして柊の頬を包み込んだ。その表情は憂いを帯びていて、猫耳はぺたんと垂れている。



「悪いのは、全部わたしなのに……柊ちゃんが謝るのなんて、聞きたくないよ……」

「違う……! 悪いのは私で、フェリスは何も……」

「ううん、悪いのはわたしだよ……!」



 水掛け論になる気配を察した柊は口を噤んだ。フェリスもまた、同じように口を噤む。次の言葉が見つからなくなった柊は、思わず——フェリスを抱き締めた。それに反応してか、フェリスの猫耳がぴくっと動く。それから、フェリスも柊を確かに抱き締め返した。



「えへへ……あったかい……」

「……うん」




 満ち足りた温かさと幸福感の中で、柊はぼんやりと考える。



(私とフェリスは……同じ気持ちだったんだ。まだ少し、信じられないけど……)



 柊はいつしか、フェリスを失うことをとても恐れるようになっていた。今回の件で、フェリスも柊を失うことを恐れていることを知った。

 自分のせいでフェリスを悲しませたことは非常に心苦しいが、フェリスが自分のことを多少なりとも想ってくれているであろうことを、柊は。

 


(……嬉しいな)



 ——嬉しいとも思ってしまったのだった。


 いつしか雨は止み、カーテンの隙間から微かに晴れ間が差していた。

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