微風 豪志

現実よりも歪んだ夢

仮想現実を用いた精神治療装置「DREAM DIVE(通称D.D)」は、眠っている患者の夢の中に医師が侵入し、無意識の深層を視覚化・分析することを可能にした。
精神病、知的障害、鬱、自己否定――従来では触れることすら難しかった“心の闇”に、直接入り込める時代が訪れたのだ。

D.Dの先進的臨床研究を進める医師、永野夢高。
彼は、治療の中で見た“夢の世界”を元に、自身の筆名・夢乃ナカとして奇妙な小説を書いている。
世間からは奇書作家として一部に熱狂的なファンを持ちつつも、同業者からは医師としてのモラルを問われていた。

彼は今日も、人の夢の奥に“世界”を見て、物語を綴る。



「これは、思春期の身体感覚に対する不安から来る夢だと思うよ」

永野は革張りの椅子に背を沈め、カップを口元に運んだ。ダークローストの香りが静かに室内に広がる。

「というと?」

向かいの椅子に座る助手・相園桃香が、ノートPCの画面から顔を上げた。瞳は冷静だったが、声には軽い疑念が滲んでいる。

「察しが悪いな。階段を上り下りするたびに“分身”し、最終的に老いて死ぬ――。年齢や身体の変化への恐怖、あるいは“今の自分”が“過去の自分”に殺される感覚だ」

「事故の影響……ですね?」

「頚椎損傷、下半身麻痺。本人は“死んだ方がマシ”と言っていたな。自業自得なのに」

「言い方、選んでください」

「何がだ。高校の階段でふざけて転落? 笑い話にもならない。自分で落ちたのだから、自分で這い上がるべきだろう」

桃香は言葉を飲み込んだが、眉間に皺を寄せたまま言った。

「……それでも、誰かが手を差し伸べるべきじゃないですか」

「なぜ?」

「あなた、医者でしょう。患者に対して“自業自得”とか“税金の無駄”とか、どうかしてますよ」

「綺麗事を言うな、助手くん。全員を救えるわけじゃない。むしろ救うべき人間なんて、全体のほんの数%だ」

「何様のつもりですか?」

「観察者さ」

永野は平然と笑った。

「私は、人間の“壊れ方”に興味がある。その構造を見たいだけ。修理は他の誰かに任せればいい」

「あなたみたいな人間がいるから、患者が“夢の中”に逃げるんです」

「逃げるのは弱さじゃない。だが、それを正当化して“生きる意味”とか言い出すのは滑稽だ。……“アルジャーノンに花束を”って読んだことあるか?」

「ええ。知ってます。……悲しい話でした」

「“知能を与えられた者が再び失う”なんて、読者のセンチメンタルを刺激するには最適だろうな。“不幸の演出”としては上出来だ。だが、現実の障害者は誰も感動のために生きてるわけじゃない。なのに世間はそれを“愛の物語”と呼ぶ。嘲笑ものだよ」

「……その言い方、本気で嫌です」

「なら君が、別の正義で世界を救えばいいさ」

永野は時計を見た。面会時間が迫っていた。

「時間だ」

彼は立ち上がり、ドアへ向かう。その背中を、桃香は強い眼差しで見送った。



永野は面談室に入り、椅子に腰を下ろすと、端末に手を伸ばした。D.Dから出力された夢記録ファイルを呼び出す。

モニターには、患者の深層意識が投影される。



《分身型絶命階段》

階段は、無限に続く螺旋の様だった。
鉄のように冷たい。吐息すら音にならない。少女の足音だけが、空間にコツ、コツ、と響く。

一段、上る。

背が縮み、白髪が伸び、骨がきしんだ。

その場に、一段前の“若い自分”が残る。

もう一段、上る。
さらに老いる。
皺の刻まれた自分が上へと昇り、階下には“中年の自分”がぽつんと立っている。

一歩ごとに分身する。
若い自分。子供の自分。胎児のような自分。
それらが階段の下に蓄積され、上を見上げている。

――やがて、彼女は“最上段”に足をかける。

途端に視界が反転し、鼓動が止まった。

重力が消え、身体が崩れ、目だけが彼方の階下を見つめていた。

自分は、自分に殺された。

今まで上ってきた“無数の自分”が、その眼差しで彼女を見下ろしていた。

そして、誰かの声がする。

「……お姉ちゃん、どこに行ったの?」

振り返ると、まだ登る前の、無垢な少女の姿がこちらを見ていた。

「帰ってきてよ……」

しかし彼女はもう、どこにも帰る場所を持たなかった。



_________面談室の空気は、午後の日差しが差し込むにはあまりにも冷たかった。

車椅子に座った患者――**姫島 幸果(17歳)**は、目元に濃い影を落とし、腕をだらりと膝に乗せたまま、壁の一点を見つめていた。

永野夢高は、向かいの椅子に腰を下ろすと、卓上の記録端末に目を落としながら口を開いた。

「夢の内容、覚えているかい?」

ユカは返事をしなかった。長い沈黙。ようやく、蚊の鳴くような声が漏れる。

「……分身しました」

「そうだね。階段を上るたびに、老いた自分が前に進んでいく。後ろには、過去の自分が残されていく。最後は……どうなった?」

「……殺されました」

「誰に?」

ユカは顔を伏せたまま、唇を震わせた。

「……全部、自分でした。私が私を、殺しました」

永野は頷いた。

「象徴的だ。“成長”って言葉には聞こえがいいが、裏を返せば“過去の自分を殺すこと”と同じだ。子供である自分を捨て、傷を隠して、理想の大人を演じて、やがて壊れる」

ユカは目を上げた。震える声で言う。

「……それって、普通じゃないんですか?」

「普通だ。普通すぎて、誰も泣かない。誰も止めない。自殺を止めてくれるのは自分しかいない」

「でも、私は怖かった。死ぬのが、怖かった……。全部が消えていくみたいで……」

永野は少しだけ表情を崩す。嘲るようでもあり、どこか慈しむようでもあった。

「君が“死んだ方がマシ”と言ったのは、下半身が動かなくなったことでじゃない。“もう未来が想像できない”という絶望が、“未来そのものを否定した”んだ」

「……」

「正しい。だが、生きることのほうが、ずっと過酷で懸命だ」

ユカの目に涙がにじむ。

「先生は……何のために治療してるんですか……?」

永野は短く笑った。皮肉でもなく、かといって純粋でもない笑みだった。

「“観察”のためだよ、私は本を書いている」

「……ひどい」

「そう。ひどい。だが君の夢は、素晴らしかった。見事な自己解体だった。君の精神が、君を分析し、君を断罪し、君を救おうとした。その構造を私は、記録し、言葉にして残す。そうすれば……誰かの“物語”になれる」

「……誰かの、って……私はお話じゃない……!」

「違う。君は現実だ。だが君の痛みは、世界にとってはただのノイズだ。私はそれを“意味”に変える。私がするのは、たったそれだけだ」

「私の夢を……売るんですか?」

「もしそれが、誰かの理解に繋がるなら」

「そんなの……綺麗ごとだ」

「綺麗ごとは、時に救いになる。……君の“死にたい”は、きっと“生きたい”と隣り合わせにある。夢の中で君は死んだ。でも、“自分で終わらせる”という形で、生を選び直していた。私は……そこに意味を見た」

ユカは言葉を失い、目を伏せた。

永野は立ち上がった。

「……次のセッションまでに、もう一度夢を見てごらん。次は、何段まで登れるか」

その言葉を残して、彼はドアに向かって歩き出す。

「もっとも、次も同じ夢を見れるか分からないが」

ユカは、彼の背中を見送った。胸の中に残ったのは怒りでも感謝でもない、ただ――

「……あの人、本当は……壊れてるんだ」

という、直感だった。



《D.D記録:異常ログ 7月17日 永野夢高 午前2時14分》

そこは病室だった。

窓の外は真っ黒で、時計の針は止まっている。
彼は診察室に座っていたが、なぜか白衣を着ておらず、少年の姿をしていた。

卓上のカルテに手を伸ばすと、紙の上にはただ一言、

「お父さんを殺したのは、あなたですか?」

とだけ、震える筆跡で書かれていた。

少年はその文字を見つめる。動けない。指も声も出せない。

「――また見てるの? その夢」

背後から声がした。

振り返ると、かつての“患者”が立っていた。
しかし顔が崩れている。
目も口も、過去の夢で分裂した彼女たちが混ざり合ったように、奇怪な顔になっていた。

「他人の夢ばっかり覗いてるから、こうなるんだよ」

「……これは、私の夢ではない」

「あなたの夢だよ。あなたが“書かなかった物語”が、腐って再生して、ここにある」

永野は立ち上がる。しかし、床が血のように粘ついて足が沈む。

患者の亡霊たちが壁から滲み出す。
言葉にならない呻き声、白紙のカルテ、握ったはずのペンが骨に変わっている。

「先生、どうして私のこと、見捨てたんですか?」

「先生、どうして僕の夢、小説にしたんですか?」

「先生、あなたも、壊れてるんでしょう?」

彼らの問いかけが、彼の脳に響く。ノイズのように、記憶のように、祈りのように。

気づけば、永野は階段の前にいた。
ユカが見た「分身型絶命階段」と、よく似ている。だが違う。

階段の途中には――すべての“患者”たちの分身が立っていた。
登るごとに彼等の記憶と重なる。

・初めて担当した患者。
・服薬を拒否し飛び降りた少年。
・治療に失敗し自殺した少女。
・そして、かつての自分の父親――首を吊った姿のまま、最上段に立っていた。

永野は、震える足で階段を一段、登る。

そのたびに、自分の身体が“患者のそれ”に変わっていく。
手が震える。
目が見えない。
言葉が出ない。

脚が思い通りに動いてくれない。
脳がノイズに支配される。

「……まさか、私は彼らの……救いでなくてはいけないんだ」

次の段に足をかけた瞬間、永野夢高の“今の姿”が崩れ落ちた。



_______

永野は、研究室のベッドで目を覚ました。
息が荒く、手は冷え、床に落ちたペンは折れていた。

D.D端末のログには、こう記録されていた。

[未登録夢ログ再生終了:夢主=永野夢高]
[夢内滞在時間:1時間52分]
[警告:無許可セッション。オペレータ介入なし]

彼はゆっくりと立ち上がり、モニターを閉じた。

そして、独り言のように呟く。

「……私は、ただ観測していただけだ。悪趣味な悪戯をしてくれるなよ、D.D」

夢を見る予定などなかった。
予約されていないログ、操作記録もなし。
だがその夜、永野夢高は自分の“夢の中”にいた。


D.Dのログは消した。
だが夢の記憶は、血の匂いのように皮膚の内側に染みついていた。

永野夢高は、机の上の古びたノートを開く。
ペン先を紙に落とし、ゆっくりと綴り始める。


――人は死ぬ。
だが“壊れる”ことの方が、よほど残酷だ。
肉体が残っていても、精神が削れても、誰もそれを「死」とは呼ばない。

私は今まで、他人の夢を観察し、記録し、言葉にして売っていた。
美しい歪み。
愛すべき崩壊。
そのすべてを“物語”にして。

だが、初めて、自分の夢を見た。
見たくなかった。
忘れていたはずの罪が、私自身の顔をして階段の上にいた。

人は、自分を殺して進化する。
それを“成長”と呼ぶのなら、私はもう大人になんてなりたくない。


ペンが止まる。
紙には、乱れた文字と黒々としたインクの滲みが広がっている。

窓の外では、朝焼けが街を照らし始めていた。

永野は、書きかけの原稿にそっとタイトルを記した。


『メメントメモリ』

――夢の中で、私は壊れた。そして、生きていた。



_______________




タイトル:「夢を食い物にする医者」

週刊ジャーナル“CURRENT VOICE”/特集記事

「これは小説の仮面を被った、医療倫理の墓場だ」

精神医療と文学という二つの領域を越境した“奇書作家・夢乃ナカ”ことDr.永野夢高の新作『メメントメモリ』は、現在医療関係者の間で激しい波紋を呼んでいる。

「患者の夢を素材として使用し、自らの夢体験までも売り物にした」「自己治療と称して他者の苦痛を装飾化している」など、専門医たちからの批判は後を絶たない。

某大学の倫理学教授はこう語る。

「医師が自らの精神病理を“文学”として放出するのは勝手だが、その過程で関わった患者の影が残っている以上、これは“治療行為の商業利用”と見なされても仕方がない」


* 「元患者の声がないのが不気味」

* 「あれ読んで、夢治療なんて絶対に受けたくなくなった」

* 「“壊れる過程も美しい”とか本気で言ってるならサイコパス」

* 「死にたい人間に“もっと壊れてみなよ”って言ってるようにしか見えない」



タイトル:「記憶を祈りに変えた一冊」

文芸誌“書架の夜”書評/文芸評論家・時任律子

「私たちはいつも、“忘れたいこと”に蓋をして生きている。だがそれは、いつか夢の形で噴き出す」

『メメントメモリ』は、夢と現実の境界で人間がどのように壊れ、どのように自分を修復するかを描いた“記録文学”である。

過去の永野氏の作品は、どこか観察者としての冷たさが漂っていた。しかし本作では、自らの“崩壊”を中心に据え、そこに他者の苦痛が反射されている。

“観察者が当事者になる”という構造的な転換は、文学というジャンルそのものに対する問いかけでもある。


* 「自分もかつて精神科に通っていた。あの夢の描写、現実より現実だった」

* 「夢の中でしか感じられない“孤独”があった。あの静けさを言葉にできる人は本当に少ない」

* 「倫理の話は難しい。でも私は、この本に“自分の言えなかった痛み”を代弁してもらったと思ってる」

* 「たとえ許されないことでも、誰かが記録しなきゃいけない。その記録が、私を生かしてくれた」



――医師免許剥奪審査会にて

都内某所、厚生医療倫理委員会の会議室。
白を基調とした部屋の中心に、無機質な長机が並べられている。
その最奥に、五名の審査官が座っていた。

「それでは、始めます」

事務官の声が、冷たく響いた。
時計の針が、午前10時を告げる。

中央の席に座るのは、永野夢高。
白衣ではなく、紺色のスーツに身を包んでいた。
だが、その姿はどこか場違いで――あまりにも“静か”だった。

「永野医師、今回の審議対象は、あなたが筆名“夢乃ナカ”として発表した小説『メメントメモリ』及びそれに先行する一連の著作群において、実在の患者の夢を元にした内容が含まれていた、という点です」

「はい」

永野は短く答えた。

「事実関係は認められますか?」

「ええ。否定はしません。私は、患者の夢の記録を素材としました。ただし、個人が特定される内容は含まれていません」

「ですが、複数の元患者とされる人物――特に“姫島幸果“さん、“佐倉朱音”さんとされる描写が、小説中に極めて具体的に登場するという証言が出ています。これについては?」

永野はほんの一瞬、目を閉じた。

「“彼女たち”の夢は、あまりにも精密だった。あの夢を、そのまま眠らせておくには……もったいなかった。
彼女たちは、世界に理解されるべきだと――私は、そう思ったんです」

「あなたが思った。それだけですか?」

「……ええ。私は、ただ“記録した”だけです」

審査官の一人が、皮肉めいた視線を投げた。

「“記録”ですか。ですがその“記録”には、印税という名の報酬が発生している。つまり、あなたは患者の精神状態を商業的に利用したという疑いがある」

「“患者の精神”とは、商品にしてはいけないものなんですか?」

永野は、ふと穏やかな声で返した。

「芸術家が自分の傷を売るのは許されるのに、医者が患者の夢を記録するのは倫理違反ですか? 同じ“人間の崩壊”なのに、誰がその価値を決めるんです?」

会場がざわめいた。

一人の審査官――高齢の精神科医が口を開いた。

「君は、医者である以前に物語作家なんだろう。
だが、治療と記録は両立しない。それを分けられなかった君は、医者である資格を最初から持っていなかったのかもしれないな」

永野は、少しだけ笑った。

「分けていたつもりです。
でも夢の中では、誰が医者で誰が患者かなんて、曖昧になるんですよ。
……私は、あの夢たちの中で、彼らに何度も殺されました。
彼らの痛みを“ただ観察する側”にいられなかった。
だから私は、書くことでしか耐えられなかったんです」

「耐える? それはあなた自身の問題だ。
患者を救うために治療をする。それが医師の本分です。
だがあなたは、自分の業を慰めるために、患者の心を利用した」

静かな、しかし決定的な声だった。

しばしの沈黙の後――最終的な発言が下される。

「永野夢高医師に対し、本委員会は、医師免許の剥奪を勧告します。
倫理違反、患者情報の不適切な使用、医学研究と営利活動の分離の欠如。
以上の理由により、これ以上の医療行為を認めません」

重たい空気が、部屋を支配した。

だが永野は、わずかも動じなかった。

「……それでも、私は書き続けるでしょう」

「何を書くつもりですか?」

「“医師ではなくなった観察者”の物語を。
夢の中にしかいなかった、あの少女たちの続きを――
医者でなくなったからこそ、ようやく書ける“真実”を」

その言葉に、会場の空気が凍りついた。

永野夢高。
夢乃ナカ。
彼はこの瞬間、観察者ではなく“当事者”として、医師という仮面を剥がされた。

けれど、仮面を剥がされた者こそが、本当の物語を語るのかもしれなかった。

外に出ると、夜の雨が静かに降っていた。
永野は傘をささず、ゆっくりと濡れながら歩き出す。
その背中には、もはや患者の名札も、医師の肩書きもなかった。

ただ、“夢を見た者”としての沈黙だけが、彼に残されていた。



________

診療所の名札は既に外されていた。
革張りの椅子も、カルテ棚も、すでに引き払われた後。
殺風景な白い部屋の中、永野夢高は最後の書類箱を手に取っていた。

その扉を、静かにノックする音がした。

「……開いてる」

入ってきたのは、相園桃香だった。
白衣ではなく、淡いベージュの私服。
彼女は、もう助手ではない。ただ、一人の来訪者として立っていた。

「……来てくれるとは思わなかった」

永野は書類の束を机に置き、軽く息を吐いた。
一瞬だけ、目元に寂しさのようなものが滲んだが、すぐに消えた。

「来ないと、ずっと後悔すると思ったから」

桃香の声は穏やかだった。怒っても、泣いてもいなかった。
ただ――疲れていた。夢を見すぎた人の目だった。

「で? 本当に辞めるんですか。医者を」

「もう、辞めさせられたよ。夢を“観察”しすぎた代償ってやつだ」

「……でも、反省はしてないんでしょう」

「してるさ。“観察者でいたいと思った自分”を甘く見積もっていたことにね」

「もっと早く気づいてくれたら、救われた人もいたかもしれません」

「君のことか?」

「……それもあるかもしれない。
でも、私が言いたいのは、先生自身が“救われるチャンスを捨ててた”ってこと」

永野は黙って桃香を見つめた。
彼女は真っ直ぐに言った。

「先生って、自分のことを“冷たい人間”だと思ってるけど――本当は、すごく優しい。
でもその優しさが、壊れるのが怖くて、ずっと“観察者”っていう仮面をかぶってた。
他人の痛みを覗いて、自分の痛みを感じないようにしてた」

「……ずいぶんと、診断口調だな。医師免許でも取る気か?」

「取りたいと思ってますよ。
“誰かを見捨てない医者”になりたいって、今は思ってる」

永野はふっと笑った。
それは皮肉でも虚無でもなかった。
ただ、少しだけ悔しそうな――どこか嬉しそうな、敗北の笑みだった。

「……君は、俺みたいにはならない方がいい」

「もう、なりませんよ。
だって私は、先生の夢を見たんですから」

沈黙が落ちる。
二人の間には、もう“医者と助手”という関係はない。
ただ、互いの夢を知った者同士だった。

「最後にひとつ、訊いていいですか」

「なんだい」

「――先生は、誰かに救われたかったですか?」

永野は答えなかった。
長い沈黙のあと、彼は箱を閉じた。
そして、目だけで桃香を見つめた。

「……それを考えるのが怖くて、夢を見てたんだろうな。ずっと」

それが答えだった。

桃香が部屋を出るとき、永野は背中に向かって言った。

「君の夢、見たよ......ありがとう」

彼女は振り返らなかった。
ただ、小さく、呟いた。

「さようなら、“先生”」

ドアが閉まる。
永野夢高は、誰もいなくなった診察室の中で、最後のカルテを破り捨てた。

そして、新しいノートを開いた。
もうそれは、患者の記録ではない。
彼自身の物語だった。



夜。
どこかの路地裏で拾ってきたような古いランプが、机の上を照らしている。
空気は静まり返り、永野夢高の背中だけが、その中で生きていた。

棚には、過去に出版した奇書たちが並んでいる。
『夢喰いの天使』『階段の上の母』『フィラメントに眠る子供たち』――どれも“患者の夢”をもとにしたものだった。

だが今、机の上に広げられている原稿用紙には、誰の記録も乗っていない。

永野は静かにペンを取り、インクの匂いに眉をしかめた。

「……何を書けば、俺は“俺自身”になれるんだ?」

問いに答える者はいない。
代わりに、記憶が浮かぶ。

――階段の夢。
――父の自殺。
――“先生、あなたも壊れてるんでしょう?”という声。

指先が、震えながら動く。
ゆっくりと、ペンが紙を擦る音が鳴る。

 

 『壊れている、ということ』

 人は死ぬ。だが、壊れることの方がずっと静かで、日常に馴染んでいる。
 ある日、靴を履く手が遅くなる。
 ある日、名前を呼ばれても返事を忘れる。
 ある日、泣いているのに、涙が出ていないことに気づく。
 それが、“壊れる”ということだ。

 

「……嘘のない、物語を」

永野の声は、掠れていた。
過去の患者の夢を書いていた時とは違う。
観察者の距離感も、医師の分析もない。
ただ――思い出しながら書いていた。

自分が壊れていった夜のことを。
父が沈んでいった台所の灯りの色を。
そして、自分が逃げ続けていた“夢”の正体を。

ページが、次々に埋まっていく。
言葉が、止まらない。

自分の過去、自分の罪、自分の無力、自分の逃避。
誰かの夢を“観察”していた永野夢高が、初めて、“自分の夢”を解剖していた。

やがて、ペンが止まる。

永野はそのページを見つめた。
タイトルすらつけられていない未完の一篇。
だがそこには、今までにない熱と、かすかな祈りがあった。

「……俺は、まだ終わっていない」

言葉ではなかった。
それは、残骸の中から手を伸ばすような感覚だった。

翌朝、机の上には新しい原稿の束と、封筒がひとつ置かれていた。

封筒にはこう書かれていた。

**To 桃香くんへ――
これが“観察”を終えた私の最初の物語です。
続きを書けるかどうかは分からない。
けれど、これは“他人の夢”ではない。
……初めて、私自身の夢です。

永野夢高より**

風が窓を鳴らしている。
部屋の中には、静けさと、まだ名もなき物語だけが残されていた。




ネオンの光は、湿った路地をまるで血のように濡らしていた。
永野夢高は、バーの隅で安酒をあおっていた。
髪は伸び放題、顔はやつれ、かつての白衣の面影はどこにもない。

「ウイスキー。ダブルで」

注文の声すら掠れている。
手元のグラスに、過去が沈んでいる。
“書かれなかった物語”と、“救えなかった患者たち”の残骸が。

その時だった。

「……先生?」

聴き慣れた声が、背後から落ちてきた。
ゆっくりと顔を上げる。

いた。

相園桃香。
白衣ではなく、簡素な私服。
だが背筋は伸び、瞳には静かな強さが宿っていた。

「……桃香、くん……」

「……まさか、こんなところで会うとは」

永野は、酔いでにじむ視界の中に、それでも彼女の“正しさ”を見ていた。

「医者には、なれたのか?」

桃香は頷く。

「なりました。あの後……現場に戻りました。夢治療の専門医として」

「君が……俺の後を、継いだのか」

「継ぐ気なんてありません。私なりに、やってるだけです」

「……立派だな。俺とは違う」

永野は苦笑し、グラスの中の氷をかき混ぜた。

沈黙。
グラスの中で、時間が揺れている。

やがて、永野が口を開いた。

「……桃香くん。頼みがある」

「……何ですか」

「もう一度だけ、D.Dを使わせてくれ」

彼女の表情が固まる。

「……まだ、言うんですね。それを」

「最後だ。これが最後でいい。……俺はまだ、自分の夢を、全部見てない気がするんだ」

「あなた、何度も自分の夢に殺されかけたくせに」

「それでも。俺は、夢の中でしか“本当のこと”を見れない」

「……」

「本にして売るつもりなんて、もうない。……ただ、自分が何を見落として、誰を壊したのか、それを知りたいだけだ」

「そんなの、現実で向き合えばいいじゃないですか」

「現実は、俺にとっては“ごまかし”なんだよ。……倫理だの正義だの、それらしい言葉で全部包んで、“観察”のフリをして逃げてた」

「……」

「俺は、最後のページを、まだ書いてない。
だけど――終わりたくなった。
ちゃんと、自分の手で、終わらせたいんだ。
だから……桃香くん。
もう一度だけ、D.Dの中に入らせてくれ。
……俺は、壊れてもいい」

桃香は何も言わなかった。
その場で立ち尽くし、拳を握り、言葉を殺していた。

店内のジャズが止む。

その静寂の中で、ようやく彼女が口を開いた。

「……精神が起きる事を拒んで、もう二度と帰って来れないかもしれませんよ」

「それでいい」

「……流石に夢の中まではついていけません」

永野の目がわずかに見開かれる。

「それでもいい、頼む」

永野は頭を下げた。

「あなたの観察者だったのは、私ですから。
最後まで、責任を取らせてもらいます。
……“元・助手”としてね」

永野は、微かに笑った。
かつて見せた、“観察者の笑み”ではなかった。
ただ、壊れかけた人間が、少しだけ正気を取り戻したような、静かな安堵だった。

「……ありがとう」

二人は店を出た。
夜の風は冷たく、どこか懐かしかった。

もうすぐ、最後の夢に潜る。
それは再生のためか、完全なる終焉か――。

だが今、永野夢高の足取りには、1年前にはなかった“重み”があった。

それは贖罪かもしれない。
それは救済かもしれない。




深夜の研究室。
D.Dと、読み捨てられた『メメントメモリ』の見本誌が並んでいる。

「……賛否両論でしたね、先生の作品」

「その比喩、いいよね。賛否“両論”って言葉。実態は大体、否しかないのに」

「炎上してるのを“議論になってます”って言い張るやつみたいな?」

「そうそう。あれ、実に便利。感情が暴れてるだけなのに、“健全な社会批評”に見える」

永野はくすくすと笑いながらまるで幼児のように椅子に座り、回転させながら彼女の方を向く。
その目は笑っていない。

「……で、どっち側? 君は。“賛”か“否”か」

「どっちでもない。読んだときは“殺してやろうか”って思った。『患者の精神を何だと思ってるの』って。けど、今はちょっと落ち着いた」

「ありがたいね、殺意が理性に変わるのは成長だ」

「変わったのはあんたの方でしょ」

「人が変わるなんて、文学か恋愛くらいの話だ。あいにく両方とも信用してない」

桃香は机の上の『メメントメモリ』を指でなぞる。
表紙に刻まれた血のような赤いフォント。

「……これ、自分の夢の話なんでしょ?」

「一部ね。あとは過去の患者たちの断片。つまらない夢もあったから、いくつか“美化”した」

「死人に口なし?」

「死人に著作権もない。夢もね、所詮は無意識のゴミ処理場だ」

「それを本にして売ってるの、最低ですよ」

「わかってる。だから売れたんだよ。誰も善人の本なんか読みたくない」

桃香は目を伏せた。
しばし沈黙の後、ぽつりと呟く。

「……でも、読んだ。最後まで。途中、吐きそうになったけど」

「君にしては偉いね。」

「……最後、泣いた。ちょっとだけ」

永野は目を細めた。

「君に泣かれるほどの文章なら、最後にもう一冊くらいは書いてもいいかもしれない」

「泣いたのは、たぶん……“あんたが壊れたまま、それでも書いた”からだよ」

「観察者も、たまには登場人物になるってことさ。滑稽だよな。白衣のピエロだ」

桃香はため息をついて、最後にこう言った。

「一つだけ救いがあるとすれば、あんたがまだ、嘘だけじゃないってこと」

永野は唇の端を歪めた。

「皮肉と誠実は同居できない。
……でも、たまに隣室で寝ることはあるらしいよ」

「...先生...」

「どうした?」

「いえ...なんでもありません」

「そうか...」

一瞬の静寂ののち永野は口を開く。

「桃香君」

「なんですか?」

「ありがとう」

「.....はい」


________________


D.Dのヘッドギアに、久しぶりに自らの名を打ち込む。
「永野夢高 23:59」

目を閉じ、起動。

……映像はすぐに、夢に切り替わった。

階段。

あの夢だ。

一段登るごとに老い、一段降りるごとに若返る。
かつて、ある患者が見た“分身型絶命階段”。

しかし今回は、誰もいない。

彼は一歩ずつ階段を登っていく。
片手には、『メメントメモリ』の原稿を持ったまま。

やがて、最上段。
そこに、**“彼自身の分身”**が立っていた。

若い頃の自分だ。
純粋で、まっすぐで、無知だった頃。

その分身は言う。

「お前、患者の夢を食って生きてきたな」

永野は皮肉な笑みを浮かべる。

「それが仕事だったんだ。医者も作家も、食い扶持がなきゃ生きられない」

「そのくせ、自分の夢を見た瞬間に取り乱した。観察者ぶってるくせに、びびってた」

「……ああ。認めるよ。
患者より、よっぽど自分の夢の方が怖かった」

沈黙。

「なぁ、お前……“治した”こと、一度でもあるのか?」

永野は一歩前に出て、原稿を差し出す。

「――これは、供物だよ。
救えなかった人たちの、せめてもの記録。
私は“治療”なんか一度もしてない。ただ、だからこそ夢を“喰った”。」

その瞬間、原稿が白紙に変わる。


「悪夢から覚めることを願って」


ページが風に舞い、階段から舞い落ちていく。

分身はもういない。

永野は、ひとりで階段を降りはじめる。
年齢が少しずつ、若返っていく。

そして――最下段に戻ったとき、永野は立ち止まり、呟いた。

「……俺は“獏”になりたかっただけだったのかもしれないな」

彼の周囲に、白い光が満ちる。
それは、患者たちの夢だった。

絶望、希望、罪、孤独、あらゆる感情が静かに渦巻いている。
彼はその中心で、静かに目を閉じた。

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微風 豪志 @tokumei_kibou_tokumei

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