君の声の残響で — Echoes of Your Voice

梵天丸

第1話 残響は君の温度

 柔らかな風が吹き抜ける駅のホーム。

 夕暮れの光に染まった空は淡く霞み、行き交う人々の足音が遠くに溶けていく。

 碧は無意識に、スーツケースを引く涼介の背中を追っていた。

 近くにいるはずなのに、もう遠くへ行ってしまうような感覚が胸を締めつける。

 発車ベルの音が遠ざかるように響いて、碧は無意識に涼介の背中を追った。


 黒いスーツケースを引きながら歩き出す彼の姿は、どこまでも頼もしく、そして遠かった。

 人混みに飲まれていくその背中を見ていると、喉の奥が詰まってしまう。

 泣きそうになるのを、ぐっと堪える。


「またすぐ会えるから」


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 そう笑って振り返った彼の表情は、最後まで穏やかで。

 なのに、碧の胸の奥では、不安と寂しさが渦巻いていた。


「身体…気をつけて」

「ありがとう。碧もな。着いたら連絡する」

「うん…」


 ──離れても、終わらせない。

 それはほんの数日前、二人で交わした約束だった。


 列車のドアが閉まる。

 ガラス越しに映った涼介の唇が「大丈夫」と動いた気がした。

 耳の奥に残ったその声が、残響のように響き続ける。

 胸に焼きつくのは、確かにそこにあった温もりだった。



 碧と涼介が出会ったのは、一年前のこと。

 都内のデザイン事務所に勤める碧は、グラフィックデザイナーとして新しい案件を任されていた。

 クライアント企業の営業担当として現れたのが、片桐涼介。


 会議室の扉を開けて入ってきた彼は、落ち着いたスーツ姿に爽やかな笑みを浮かべ、まっすぐに名刺を差し出してきた。


「はじめまして。片桐と申します」


 低く、よく通る声。その瞬間、碧は少しだけ息を呑んだ。

 仕事相手としてしか出会えないはずなのに、心臓が跳ねた。


 ──こんな人がいるんだ。

 それが、最初の印象だった。


 案件が進むうちに顔を合わせる機会は何度もあった。

 真面目で誠実な仕事ぶりと、ふとした瞬間に見せる柔らかい笑み。

 それが、次第に碧の心を侵食していった。


 偶然も重なった。

 資料を届けた帰りに、エレベーターで二人きりになったこと。

 深夜、コンビニの自動ドアを抜けたとき、同じタイミングで彼が現れたこと。

 その度に、自然と会話が弾んでしまう。


「こんな時間まで仕事?」

「うん。そっちも?」

「そう。デザイン修正、ちょっと手こずってて」


 ささやかな会話の積み重ねが、いつの間にか心の距離を縮めていた。


 ある日、打ち合わせ帰りに涼介から声をかけられた。


「このあと、少し時間ある?」


 碧に断る理由なんてなかった。二人は小さなビストロに足を運んだ。


 小さなビストロのテーブルには、グラスが二つ。

 表面に浮いた水滴が、灯りに照らされてきらめいていた。

 涼介が自然に注文してくれたワインは、淡い黄金色で、グラスの中でゆっくりと揺れている。


 碧は緊張を隠すように、一口だけ水を飲んだ。

 冷たい液体が喉を通る音が、自分にだけ大きく響いた気がする。


 料理の香ばしい匂いが漂ってくる。焼き立てのパンの香りと、ガーリックをきかせたアヒージョの匂い。

 それなのに、目の前の男に意識を奪われて、味がほとんど分からなかった。


「休日は何してるの?」

「うん……映画とか、展覧会に行ったり。インドアかも」

「いいじゃん。俺も映画好き。今度、一緒に行こうか」


 ワインのグラスを片手に、涼介が穏やかに笑う。

 その表情を見ているだけで、胸の奥が熱くなっていくのを碧は止められなかった。


「俺、碧くんのこと……いいなって思ってた」


 唐突に告げられた言葉に、心臓が跳ねた。

 涼介の目は冗談を言うときのものじゃなかった。

 碧はグラスを持つ指が震えるのを隠せなかった。



 その夜、帰り道。

 街灯の下で涼介が足を止めた。


「付き合ってほしい」


 まっすぐな瞳に射抜かれた瞬間、碧の世界は一変した。


「うん…」


 気がつくと、碧はそう答えていた。

 男同士だとか、そんなことも障害には感じなかった。

 たぶん碧も、ずっと涼介のことが好きだったのだと思う。


 息を呑む間もなく、涼介の顔が近づく。

 唇が触れ合った瞬間、時間が止まったように感じた。

 温かくて、柔らかくて、信じられないほど優しかった。



 それからの三ヶ月は、夢のようだった。

 休日のたびに映画館や美術館に行き、お互いの部屋を行き来して過ごす。

 朝まで語り合っては眠り、また会いたいと願う日々。


「大人になってから、こんなに誰かに夢中になるなんて」


 碧は何度もそう思った。

 大学時代に彼女がいたことはあったけど、いつの間にか距離ができていて、半年後には別れを切り出された。

 その時のトラウマもあって、以来、恋愛には慎重になっていた。


 涼介の恋愛経験も聞いてみたけど、同じような経験をしていたらしい。

 そういう部分も、お互いに思いやりがもてる理由なのかもしれない。

 涼介は碧を不安に差せることがない。

 マメに連絡もくれるし、時間を作っては会ってくれる。

 だから、碧は安心して彼と一緒にいることができた。


 だが──幸せの絶頂期に、その知らせは訪れる。



 三ヶ月目の夜。

 二人で碧の部屋に並んで座り、何気ない会話をしていたときだった。

 テレビの音が小さく流れる中で、涼介がふと口を閉ざした。


「……どうしたの?」

「いや……」


 言いかけて、涼介は一度視線を落とした。

 膝の上で握った自分の手を見つめ、しばらく沈黙が流れる。


 やがて小さな声で切り出した。


「来月から、福岡に転勤することになった」


 碧は一瞬、耳を疑った。

 意味は分かるのに、現実感が追いつかない。


「……そっか」


 それ以上、言葉が出なかった。

 笑顔を作ろうとしても、頬の筋肉が引きつるばかりで、上手く動かない。


「ごめん。こんな大事な時期に」


 涼介は苦しそうに眉を寄せた。

 碧は視線を逸らし、テーブルの上のコースターを指先でなぞる。

 心の奥が、ひんやりと冷えていくようだった。


「でも……離れても、終わらせない。そう決めたいんだ」


 涼介はそう言って、碧の手を掴んだ。

 大きな掌の温もりだけが、冷たい現実を押し返してくれていた。


「うん…」


 碧も、涼介の手を強く握り返した。

 すぐに涼介の大きな腕が、碧の身体を包み込んだ。



 駅のホーム。

 発車ベルが鳴り響く。

 碧は唇を噛みしめながら、遠ざかる背中を見つめた。


 ──離れても、終わらせない。

 約束の言葉が、声の残響となって胸に刻まれる。


 そして碧は思った。

 どんなに離れても、また必ず会えると。



**************


このお話は、YouTubeで配信中の楽曲「残響は君の温度」をベースにしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫


「残響は君の温度」はこちら⇒https://youtu.be/N1nXtOuUsus

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