眩しい空に落ちてゆく
御守いちる
第1話
「氷槻(ひづき)、割のいいバイトしてみないか?」
「割のいいアルバイト?」
季節は夏だった。
それはもう、うんざりするほどに。
今年の気温は六月半ばから三十度を超え、冷房をつけるかどうするか迷っている余地もないくらいに、すべてを暑さが塗りつぶしていった。
また冴島(さえじま)がくだらないことを言い出したな、と分かりやすく疑いの表情を浮かべる。
平日の昼間だが、いつものように俺は授業をサボり、冴島と目的もなく、住宅街に続く細い道をだらだら歩いていた。
さっきコンビニで買ったばかりのアイスは、数分歩いただけですでに溶けかけていた。俺はそれにかじりつきながら問う。
「今話題の、裏バイトとかいうやつ? さすがに逮捕されるようなやつはやらない」
「バカ、ちげーよ」
冴島が俺の肩をぺちぺちと叩く。それをうっとうしいと思いながら睨んだ。
「もうすぐ死ぬ女を観察してみないか?」
「……どういうことだ?」
「天使病って知ってるか?」
現実的ではない病名の響きに、ああ、と少し間の抜けた声が出た。
「あれだろ。なんかすごい珍しい病気で、背中から翼が生えて、最後は死ぬみたいな。あれ、実在すんの?」
冴島が俺の肩に体重をかけ、やけに嬉しそうに声を出す。
「するする。お前と同じ高校の女子が、天使病らしいぜ。だからお前に声かけたんだよ。お前、普段サボってばっかりのくせに、無駄に偏差値高い高校通ってるじゃん」
「小学校受験だったからな。そのままエスカレータ―式に高校生になっただけだ」
同じ学校に天使病の女がいるなんて知らなかった。
まあまともに高校に通ってないからと言えばその通りだが、にしたってそんな珍しい病気の女がいたら、さすがに聞いたことくらいはあると思うが。
「どうしてその女のこと、お前が知ってるんだよ」
「雑誌の記者に持ちかけられたんだよ。俺、アルバイトしててさ。天使病の人間て、話題性が高いけど、そもそも実例が少ないのと、接触するのがすげー難しいらしくてよ」
そう言って冴島が取り出したのは、いかにも胡散臭いゴシップ誌であった。見出しには『人気俳優、深夜の密会現場をスクープ! 相手はまさかあの新人アイドル⁉』、『呪われた映画、撮影現場で相次ぐ怪我、その真相は本当に偶然か』などと、いかにもという見出しが躍っていた。
前々から思うが、こういう雑誌を買っているのはいったいどこの層なのか。わざわざ金を出してまで、こんな真偽の疑わしいくだらない噂話を知りたいものなのか。
俺が呆れている間にも、冴島は話を続ける。
「発症したら隔離されるらしいし、簡単には近づけない。めったにないチャンスだから、リアルな症例が喉が出るほど欲しいんだとよ」
あんまり乗り気になれないな、と思った。
別に俺は善人ではまったくないが、かと言って病気の女を金の種にするほど落ちぶれてもない。
俺がやってることなんて、せいぜい授業をサボって街をうろつくくらいだ。
「……俺はそういうのは」
断りの気配を感じたのか、冴島がこちらに身を乗り出す。
「いいのか? 普通にバイトしたって、二度とこんな大金は手に入らないぞ?」
俺は去年の夏、こいつに誘われて引っ越しの手伝いのバイトをやって、死ぬほど辛くて結局三日目にバックレたことを思い出した。暑い中身体がぶっ壊れそうになりながら荷物を運んだのに、日給一万にもならなかった。日払いだったから、途中で飛んでも給料がもらえたことだけが救いだ。
「……いくらもらえるんだ」
冴島が指を一本立てた。
「十万⁉ そんなに⁉」
驚いている俺に対し、冴島がわざとらしくチッチッチ、と口で言う。うっとうしい。
「違う、十倍」
俺は思わず目の色を変え、冴島に詰め寄った。
「は⁉ 百万⁉」
うまい話に飛びつきそうになって、ぐっとそれを押さえる。
「……いやお前それ、完全に騙されてるよ。いくらなんでも都合が良すぎる」
冴島はムッとしたように語調を強めた。
「だからさ、それだけいないんだって。天使病の患者が」
「たしかに、今まで見たことないけど……その病気ってうつらないのか?」
「うつんねーよ、感染するんだったら、今頃日本中にもっとたくさん患者がいるはずだろ」
「それもそうか」
冴島はポケットから黒い電子煙草を取り出し、口元に当てた。スイッチを灯すと微かな音がして、独特な臭いがした。
紙の煙草の匂いも苦手だが、電子煙草の木が燃えたような、不自然に甘い匂いも嫌いだ。冴島に会ってから何度か煙草を吸わないか誘われたが、煙草だけはどうしても好きになれなかった。
冴島は薄く笑みを作って言う。
「こんなチャンス、二度とないって。報酬は俺と折半でどうだ?」
「お前、何もやらないのに半分持ってくつもりかよ」
反論すると冴島が小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「はっ、情報提供料だ。じゃあお前が7割、俺が3割でいい」
冴島は俺の顔に向かって白い煙を吐きかけた。こいつは俺が嫌がるのを知っていて、わざとこういうことをする。
考えれば考えるほど、罠ではないか、騙されているのではないかという疑心暗鬼に囚われる。
だって、百万だ。高校生が簡単に手に入れられる金額ではない。というか、大人であってもそうだ。だって日本人の平均年収が、四百万くらいだったはずだ。月曜から金曜まで、朝早くから夜遅くまで必死に一年働いて、四百万。
その死にかけの女の調査が何日かかるか知らないが、ただ女と話すだけで百万。
たしかにこんないい条件の話は、二度とないだろう。この話が、事実であればの話だが。
「……そもそも俺に言わないで、お前がやればいいじゃねーか」
「馬鹿かよ、俺みたいなのが行っても警戒されるだろ」
「それもそうか」
冴島の髪は無造作に伸ばされ、脱色を繰り返して痛み切った金髪だ。両耳には、いくつものピアス。龍の模様が入った黒い柄シャツの前ははだけ、下は黒いラインが入ったスポーツブランド風のジャージ。足元は黒いサンダルで、いつもかかとを潰して履いている。両手にはゴツい銀色の指輪。
目つきは鋭く、通り過ぎる人間は冴島と目が合っただけで、関わってはいけないというように視線をそらして逃げるように去って行く。
人の服装などどうでもいいが、冴島の外見を頭の上から下までじっくり観察するまでもなく、見るからにチンピラ風情だ。
たしかにこいつでは、病弱な薄幸少女と関わるのは難しいだろう。
冴島が馴れ馴れしく俺の肩に腕を乗せる。
「お前、顔は整ってるだろ。この前女子大生と合コンした時、お前の写真見せたら、韓国のアイドルグループのなんとかって男に似ててかわいいってはしゃいでたぜ」
「何の参考にもならない情報だな。つうか勝手に人の写真を見せるなよ」
正直、だいぶ心が揺れている。が、乗ってしまうのにはまだ抵抗があった。
「同じ高校ってだけで、俺が行ったって警戒されるのは同じだろ?」
「女は運命に弱い。俺が演出してやるよ」
冴島の瞳が、どこか獣じみたギラついた光を帯びる。
どうしてこいつはここまで乗り気なんだと考えて、そりゃ金が欲しいからだと納得する。
金が欲しい。誰だって欲しいだろう。
「どうする? お前がやらないなら、別のやつに頼んでもいい」
冴島が挑発するように言葉を重ねた。
提示された金額に、思わず唾を飲み下す。
百万。
こいつと分けて、取り分の七割でも七十万。
俺にはやりたいことがある。
――そのためには、金が必要だ。
静かに頷くと、冴島は尖った犬歯を見せて笑った。
「よっしゃ、じゃあ、来週の月曜にやるぞ」
「なんで来週の月曜?」
「毎週月曜は、女が入院してる病院の面会日なんだ。天使病の女も、病院の周囲を散歩してるらしい。接触するには絶好の機会だ」
俺はその言葉に曖昧に頷く。
去り際、冴島は薄笑いを浮かべながら、念を押すように俺を呼び止めた。
「氷槻、逃げるなよ」
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