この灯を手に包み
高坂あおい
第1話 この灯を手に包み
僕は彼女と同棲している。周りにはまだ話していない。
かつて僕は彼女に告白して振られたが、今こうして二人で時を共にすることができているのは、まさに神様の手助けによるものだろう。本来、僕が彼女の隣にいるのは許されないことなのだから。
あの日から僕の人生は変わった。買い物に行くなどの特殊な用事がない限り、僕は彼女から離れない。離れたくない、と言った方が正しいのかもしれない。彼女は僕がずっと傍にいなければ何もできないのだ。
それでも、僕は毎日が楽しくて嬉しくてたまらない。特段どこかに行くということはしないが、入浴をはじめとした様々な日常的な行動を彼女と一緒にできるだけで十分だった。
ここまでの話を読んで「そんな些細なことで……」と思う人は少なくないと思う。そんなあなたに問いかけたい。何年も何年も想いを寄せ続けた人と、やっとで一つになれた時、あなたは何をしたいと考えるだろうか。そもそも、いつ死んでしまうかもわからないたった一人の人間を一途に想い続けることはできるだろうか。
外の世界ではっきりと言うことはできないが、ここでははっきりと書いてしまおう。僕は彼女のストーカーだったのだろう、と。彼女は最初、僕を拒絶した。しかし、今となっては、彼女は僕を拒絶することはない。なぜなら、僕の身体はすでに彼女のものであるから。僕は僕の身を、骨や血管の端から端まで彼女に捧げたのだ。
「じゃあ、行ってくるね」
僕はソファにその華奢な体を横たえている彼女にそう告げた。目的は、夕飯の食材の購入だ。しかし、彼女は一言も発さない。否、発さないのではなく、発せないのだ。当然、僕はそれを承知の上で彼女の世話を続けている。
二人分の食材を入れるためのマイバックを片手に持ち、家を出る。家に侵入者が来てはマズいので、抜かりなく鍵を閉めた。僕としては、これでは安心しきることはできないし、正直に言ってまだ不安だが、それでは餓死してしまうので、妥協している。
アパートの階段を下りて、近所のスーパーへと向かった。十数年前までは八百屋だったためか、かつての面影を残しているそのスーパーは、毎日ご近所さんで賑わっている。
「あなた、本当にたくさん買っていくわね。駄目よ? 食べる量はちゃんと自分で管理しなくちゃ」
「わかっています。今度、ダイエットしますから」
「まぁ。うちはたくさん買ってくれるだけありがたいんだけどねぇ」
顔見知りである店長の奥さんからの指摘はもっともである。実際、僕の体重は僅か一ヶ月も経たないうちに五キロも増加してしまっているのだ。たとえこれが幸せ太りであったとしても、許容されるものでないことくらいは誰でも理解できるだろう。とはいえ、ダイエット以外にどうすることもできないのだが。
少し重めの手提げバックを肩にかけて帰宅し、すぐさま夕飯の支度に取り掛かる。彼女はカルボナーラが大好物なので、それの作成に取り掛かる。卵と粉チーズを混ぜた卵液と焼いたベーコンとバターに牛乳を組み合わせ、最後にパスタの麺を加える。腹の虫が思わず反応してしまうほどの香りが鼻腔をくすぐり始めても、彼女が立ち上がることは当然、表情を変えることすらない。
皿に適量のパスタを盛り付けて、食卓に並べ、彼女が椅子にしっかり座れたことを確認してから手を合わせる。パスタといざ相対した彼女は心なしか口元が緩んでいるようにも見えた。他愛もない世間話をしながら落ち着いた夕飯の時間を愉しむ。
綺麗に平らげられた皿を洗っている間、彼女は真っすぐにこちらを見てくる。少々惚気になってしまうが、彼女を一途に想い、想われている僕は本当の幸せ者なんだと思う。
ご飯の後は二人で風呂に入る。彼女の身体も僕が洗ってあげるのだ。やはり彼女には美しいままでいてもらいたい。最近になって前よりもさらに細みを増した彼女の華奢な身体の隅々まで愛している。何回も言おう。僕は本当に心の底から彼女の身も心も愛しているのだ。
あのハンニバル・レクターですらも食べるのを躊躇ってしまうであろう、皴一つ無い彼女の肌は触っていると心地よい。二の腕や太もも、ふくらはぎを指でなぞり遊んでいるうちに、気づけば手が彼女の可愛らしい乳房へと伸ばしてしまっていた。どんな形の愛でさえ、所詮ここに帰結してしまう。これは僕の個人的かつ勝手な感想だ。
そして、風呂から出た僕たちは身体だけを適当に拭いてから寝室へと向かう。ベッドに寝転んだ彼女を前にして、昂ぶりを抑えきれなくなった僕は、気持ちそのままに彼女の身体へと飛びついた。一糸まとわぬ姿の彼女を余すことなく貪りつくす。まさに愉悦だ。いや、単なる愉悦ではない。至極の愉悦である。僕に合わせて揺れる彼女の身体も、ベッドの軋む重々しい音、肌と肌がぶつかり合う軽やかな音。全てが僕の心を満たし、充実感を確実に与えてくれる。
今この場で、僕に苦々しい感情を抱かせて来るのはただ一つ。ああ、かわいそうに。彼女の白すぎる首に唯一ついてしまった痛々しい痣。付き合い始めた頃からできたこの痣は、もうどうしようもない。どうすることもできない。致し方なかった。
翌朝、僕は全ての音をかき消して騒ぎ立てる何者かにたたき起こされた。隣で眠る彼女と僕の物語のエンディングテーマは、どうやら耳をつんざくサイレンだったらしい。
この灯を手に包み 高坂あおい @kousakaao
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます