勁草 光武帝中興記

河野 行成

昆陽

昆陽 その1

 昆陽こんよう


 数十ばかり弓を引いた後、男は汗でれた服を着替えると、自室の机に向かう。さてと、机の上を見れば、昨日までの書きかけで、何をしようとするのかを思い出す。男が一枚の竹簡ちくかんに書いていたのを見れば「三月辛巳しんしさくあらず、二月辛巳朔なり、丁度一月合わず」とある。

 それを見るなり、男は不機嫌になる。口に出して曰く「何故なにゆえに合わざる」と腰掛けに座らず右往左往するが、最後に「まあ、良いわ」と言いて、遂には座る。

 男は髭に手をやって考える。はたと男は思い付くことがあり、棚から巻物をえらんで、今広げたる巻物の上に更に広げる。そこに書かれしはしん王朝の天鳳てんぽう元年の王莽おうもうの令であり、曰く「天下の小学に令して、甲子かっしに代わって戊子ぼし六旬りくじゅんの首と為さしむ」

 男曰く「甲子から戊子にうつすなら、六旬、十干十二支、六十日の名は変わらずに、月初めが二十四日だけずれる。この令が下されしが五月とすれば五月十七日戊子は、六月十七日戊子となる。そうでなければ、この令によって何も変らないことになる。一日は常にさくであれば、結局一月がずれることになる。し、これがまともに守られ続ければ、一月合わぬ説明が付く」

 男はなおも時を追いて、史書を開いては丸める。手早く一眼しては先に進む。そして全巻の終わりに至る。

 男は合点がてんがいったと見えてうなずいて曰く、「元に戻したという記述は無い。それで、この史書、僭主せんしゅが亡くなるまでは、このこよみを守り続けたということか。つまりは史家の言外の抵抗であったか」

 男は、首を振って曰く「そうだろうか、そうでもなかろう。興国の暦は直されども、亡国の史実を書き連ねるに、その国の暦に従いしのみであろう。何となればそれが亡国に置ける正朔せいさくであるから。しかし、それを確かめるすべもない。ただ分かるは一月が故意にずらされている事のみ」

 男はかたわらにある書物をつまびらき、その書を開いたまま、別の竹簡を広げる。その上更にもう一巻の竹簡を広げる。ふうむと、声とも思えない感情から生まれる音をのどからしぼる。瞑目めいもくしたり、天井を見上げたりしながら、最後にようやく折り合いが付いたと見えて、筆をると、書きかけの竹簡に二文字を書く。そうして、筆を置くと、再度筋道の取れた話かどうか、男は考えにふける。

 たぐいまれなる名筆とは言えないが、達筆であり、役人としての役割を考えるなら、受け取った相手に背筋を伸ばさせて読む気にさせる損のない筆である。その二文字を前にして、男は考える。


 時は、しん王朝の地皇ちこう四年四月、皇帝を立てたかん軍にとって、自分たちの正朔をも旧に戻した故、その即位日の更始こうし元年二月一日辛巳から一月経った、更始元年の三月である。

 漢、それは旧主りゅう氏の王朝の名である。当初、中華をべる新の王朝からすれば叛乱はんらん軍・賊軍、せい州・じょ州で暴れる赤眉せきび軍と同じやからであったが、それがついに自らが中華のあるじなりと名乗った訳である。常安じょうあんつまり長安ちょうあんで皇帝として君臨する王莽が以前の漢を禅譲ぜんじょうという形式を用いて簒奪さんだつし新王朝を立ててから、実に十五年が経っての出来事である。その動乱の地は河南かなん郡、けい州北部の南陽なんよう郡から州西部の潁川えいせん郡。この時、南陽郡のかなめであるえんは漢軍の柱天ちゅうてん大将軍劉縯りゅうえんが正月から囲んでいたが、未だに落とせず、じりじりと日にちが延び、その間の帝立に伴って劉縯はだい司徒しとを拝した。同じく太常たいじょう偏将軍へんしょうぐんにんじられた弟の劉秀りゅうしゅうは、宛に雪崩なだれ込んだ敗残兵と住人の数に対するわずかな糧食りょうしょくからすれば、宛は数月もすれば落ちるが、その前に攻め手の兵糧ひょうろうが切れると気付き、宛の東北に位置する潁川郡の昆陽を落とし、そのまま軍勢を率いて東に延びて、定陵ていりょうえん県をくだす。軍勢におさめられた牛馬財物は残し、穀類は兵糧として宛の兄劉縯の下に送る。更に潁川郡の諸城をうかがい、新から離反する者をつのる。

 宛城は持ちこたえているとは言え、そこに居るべき太守たいしゅ甄阜しんふ都尉とい梁丘賜りょうきゅうしを既に失い、前哨ぜんしょうとなる淯陽いくよう納言のうげん将軍厳尤げんゆう秩宗ちっそう将軍陳茂ちんぼが劉縯に破れ去った今、降るのは時間の問題と見られていた。


 一方、長安にある新の朝廷で、官軍が叛乱軍に梃子摺てこずっていることを苦々しく思っていた皇帝王莽、更に漢の皇帝が立ったと聞くや、周囲に見える程震えおののいた。表情ではなく、行いである。二月二十一日辛丑しんちゅう、齢七十近くの年相応の白い顎鬚あごひげと頭髪を黒く染め、新たに長安の属する京兆尹けいちょういん杜陵とりょうの名族氏の娘を皇后に立て、多数の女官をそれに付けて迎える。皇后の父史諶ししん和平わへい侯に封じて寧始ねいし将軍に拝し、その二人の息子は宮中にさせ、その一族には侯位封地を与え、大いに寿ことほいで平静をよそおう。新たな法令によって、南陽の漢族並び北辺の匈奴きょうどと辺地の蛮族以外には赦免しゃめんを与え、代わりに劉縯らには賞金を賭け、封爵ほうしゃくを約束する。ちまたではその仇敵きゅうてきの絵姿を描かせて弓矢の的とさせる。これをおびえと言わず何と言えよう。

 その皇帝王莽の下に、潁川郡の三県が落ちたという知らせが届く。何たることだ、有り得ない、理に合わない、と現状を否認すること一巡した後、現実を実力でくつがえそうと、この皇帝は史上最大規模の軍の動員を命じる。すなわち、大司空だいしくう王邑おうゆうに伝車をはしらせ洛陽らくように行かせ、司徒しと王尋おうじんと共に諸郡合わせて、百万の軍勢を動員する、号して虎牙こが五威ごいへい。兵法六十三家に通じている者数百人を任用し、図書を持たせる。皇帝専属の衛兵を選りすぐって送り込む。王邑には様々な専断権と国に蓄えられた財宝を持たせる。王邑、そこで珍宝ちんぽうと猛獣を取りそろえ、これを以て賊を屈服させようと考える。王邑が洛陽に到着すれば、州郡で選ばれた精鋭を州牧しゅうぼく・郡太守たちが自らひきいて、期日までに四十万が集まり、更に続々とふくれ上がった。そこで総勢百万と号した。甲士こうし、すなわち鎧に身を固めた兵士、実戦力四十二万。中には背丈が一丈を越える巨人のきょも迎え入れられていた。まさに古来の史実に無き空前の大兵である。夏五月、王邑・王尋は洛陽を出発し、目と鼻の先の潁川郡にすぐさま入る。

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