第十章:プロポーズ・インプロヴィゼーション

 奏がヨーロッパに旅立ってから半年が過ぎた。私の研究はさらなる進展を見せ、国際的な注目を集めていた。「超音波感情コミュニケーション理論」は、Nature Neuroscience誌に掲載され、世界中の研究者から反響を呼んでいた。


 一方、奏もヨーロッパで大きな成功を収めていた。彼の開発した「共感覚音楽療法」は、EU医療認証を取得し、複数の国で正式な治療法として採用されることが決定していた。


 しかし私たちの個人的な関係は、複雑な状況にあった。研究の成功により、両者とも国際的なオファーが増え、物理的に一緒にいる時間を確保することが困難になっていた。


 12月のある日、奏から突然の連絡があった。


「可憐、今度の土曜日、空いてる?」


「どうして?」


「内緒。でも大切な話がある」


 土曜日の夕方、指定された場所に向かうと、そこは私たちが初めて出会ったBlue Note Tokyだった。しかし様子がいつもと違う。客席には誰もいないが、ステージには美しい照明が施されている。


 そして不意に奏がステージに現れた。六ヶ月ぶりの再会だった。


「奏……!? いつ帰国を?」


「昨日」


 彼は微笑んだ。


「君にサプライズをしたくて、内緒にしていた」


 彼はサックスを構え、演奏を始めた。それは私たちが共に過ごした日々の思い出を音楽で綴った、新しい組曲だった。


 最初は私たちの出会いのテーマ。次に研究での共同作業のテーマ。そして別れの痛み、それぞれの成長、そして再会への希望……全てが音楽で語られていた。


 演奏が進むにつれて、私の拡張視覚は会場を美しい色彩で満たした。奏の音楽が作り出す虹色の光が、まるで私たちの愛の歴史を描いているようだった。


 そして最後の楽章で、奏は全く新しいメロディーを奏で始めた。それは未来への希望、永遠の愛、そして二人で歩む人生への讃美歌だった。


 演奏が終わると、奏はサックスを置いてステージから降りてきた。そして私の前で、片膝をついた。


 胸ポケットから小さな箱を取り出す。


「信楽可憐」


 彼の声は震えていた。


「君と出会って、僕は初めて世界が美しいものだと知った。君の沈黙が、僕に本当の音楽を教えてくれた。君の特別な眼と耳が、僕の心を開いてくれた」


 私の目に涙が浮かんだ。


「この半年間、君と離れていて分かったことがある。僕は君なしでは、完全な自分になれない。君は僕のもう一人の自分なんだ」


 彼は箱を開けた。中には美しいダイヤモンドの指輪があった。しかしそれ以上に美しかったのは、彼の眼に宿る愛の光だった。


「結婚してくれるかい、可憐?僕と一緒に、この世界を美しい音楽で満たしてくれるかい?」


 私は声を震わせながら答えた。


「はい」


 そして続けた。


「あなたと出会って……私も初めて……生きることが美しいと思えるようになった。あなたの音楽が……私に言葉以上の……コミュニケーションを教えてくれた」


 奏が私の手に指輪をはめる。それは完璧にフィットした。


「あなたと一緒なら……どんな困難も……音楽に変えられる」


 私たちは抱き合った。そしてその瞬間、私の特殊能力が捉えたのは、世界で最も美しい「音」だった。二つの心臓が完璧なリズムで響き合う音。二つの魂が調和する、永遠のユニゾンの音だった。


 その夜、私たちは将来の計画について話し合った。研究の継続、結婚生活、そして私たちが描く未来の展望。


「可憐、僕たちの研究で、もっと多くの人を救うことができる」


 奏は言った。


「うん。私たちの『異常』が……多くの人の希望になる」


「君の超音波知覚と、僕の共感覚を組み合わせれば、感情コミュニケーション障害の治療に革命を起こせるかもしれない」


 私たちは既に、次のステップを見据えていた。共同研究所の設立、国際的な治療プログラムの展開、そして同じような特殊能力を持つ人々のサポートネットワークの構築。


「奏」私は彼を見つめながら言った。


「何?」


「私たち……世界を変えるかもしれない」


「ああ」


 彼は微笑んだ。


「でもそれ以前に、僕たちは互いを変えた。そして互いによって、より良い人間になれた」


 その夜は、私たちにとって新しい人生の始まりを告げる特別な夜だった。


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