第九章:遠距離の調律


 奏がパリに旅立ってから一ヶ月が過ぎた。私たちは毎日ビデオ通話で連絡を取り合っていたが、物理的な距離は想像以上に心の距離を生み出していた。


 時差7時間。私が夜の研究作業を終える頃、奏の朝が始まる。短い通話時間の中で、私たちはお互いの近況を報告し合った。


「今日はパリの聖アントワーヌ病院で、認知症患者向けのセッションを行ったよ」奏の声がスピーカーから聞こえてくる。画面越しでも、彼の疲労が読み取れた。


「効果は……どう?」


 私は慎重に日本語を組み立てながら尋ねた。


「驚くほどだ。君と開発した技法を応用したら、アルツハイマー型認知症の患者さんが、20年前の歌を完璧に歌えるようになった」


 私は嬉しさと同時に、奇妙な孤独感を覚えた。私たちが共同で開発した治療法が、世界中で効果を上げている。しかし私はここにいて、その成功を遠くから見守ることしかできない。


「パリの音は……どう感じる?」


 私は探るように質問した。


「最初は辛かった」


 奏は正直に答えた。


「言語が違うから、人々の感情の『味』も微妙に変わるんだ。フランス語話者の怒りは、日本語話者より少しシャープで、塩辛い。でも慣れてきた」


 私は自分の研究について報告した。


「博士論文……順調に進んでる。あなたがいない分……集中できてる」


 それは半分本当で、半分は嘘だった。確かに研究は進んでいたが、奏がいない日々は色彩に乏しく、単調に感じられた。


 私の拡張視覚は相変わらず世界を虹色に映し出していたが、奏の音楽がない世界の色は、どこか淋しげに見えた。街の音も、以前ほど美しく聞こえない。彼の存在が、私の特殊能力にも影響を与えていたのだろうか。


 二ヶ月目に入った頃、私は重要な発見をした。


 大学院の実験室で、被験者の脳波を測定していた時のことだった。被験者は軽度の失語症を患う60歳の男性で、MITセラピーの効果測定を行っていた。


 被験者がメロディーに合わせて単語を歌った瞬間、私の拡張された聴覚が異常なシグナルをキャッチした。通常の可聴範囲を超えた4万2000ヘルツの周波数帯に、規則的なパターンが現れていたのだ。


 私は急いで実験装置を確認した。超音波マイクロフォンの記録を解析すると、確かにそこに音響パターンが記録されていた。それは脳波のα波(8-12ヘルツ)と同期した、極めて微弱な超音波振動だった。


 これは前例のない発見だった。人間の発声時に、脳の電気活動と連動した超音波が発生しているのだ。


 私は興奮してすぐに奏に連絡した。


「奏! 大発見よ!」


「何? いったい何があった?」


 奏の声には眠気が混じっていた。パリは早朝の時間だった。


 私は発見の詳細を説明した。奏は次第に目を覚まし、興味を示し始めた。


「つまり、人間の脳は歌う時に超音波を発している?」


「そう! しかもその周波数は……私にだけ聞こえる範囲」


「じゃあ可憐は、人間の感情をより直接的に『聞く』ことができるということか」


 私は実験データを詳しく分析した。被験者が楽しい歌を歌う時と悲しい歌を歌う時で、超音波のパターンが明確に異なっていた。喜びの感情は周波数が高く、悲しみの感情は低い周波数を示した。


 さらに興味深いことに、このパターンは奏の共感覚で感じる「感情の味」と強い相関があることが分かった。私が聞く超音波パターンと、奏が感じる味覚的共感覚は、同じ神経機構を反映している可能性が高かった。


 この発見は、私たちの研究を全く新しい次元に押し上げた。人間の感情コミュニケーションには、従来考えられていた以上に豊富な情報チャンネルが存在するのだ。


「可憐、君は本当にすごいよ」


 奏の声には興奮と誇りが混じっていた。


「君なしでは、この発見は不可能だった」


 しかし同時に、私は複雑な感情を覚えていた。この発見により、私たちの研究はさらに重要性を増すだろう。しかしそれはまた、私たち二人の距離を広げる要因にもなりかねない。


 国際的な注目を集める研究になれば、奏のヨーロッパ滞在は延長される可能性が高い。私もまた、この発見をさらに深く研究するため、より多くの時間を実験に費やす必要がある。


 三ヶ月目の終わり頃、予想通りの知らせが届いた。


「可憐、申し訳ない」


 奏の声には深い謝罪が込められていた。


「ドイツの研究所から、さらに三ヶ月間の共同研究の依頼が来た」


 私の心臓が重くなった。


「それは……大切な機会」


 私は努めて平静を装った。


「君の発見したことを、ヨーロッパの研究者たちと共有したい。でも……」


「でも?」


「君がいないのが辛い」


 私も同じ気持ちだった。

 しかし同時に、私は自分の研究に対する情熱も強く感じていた。


「奏……私も時間が欲しい」


「え?」


「この研究……もっと深めたい。あなたがいると……


 それは正直な気持ちだった。奏と一緒にいると、私は彼に頼りがちになってしまう。しかし研究者として成長するためには、一人で考え、一人で実験し、一人で論文を書く能力を身につける必要があった。


「分かった」


 奏は言った。


「お互いに、もう少し自分のために時間を使おう」


 その夜、私たちは長時間話し合った。

 愛情と研究への情熱、個人的な成長とパートナーシップのバランス。

 簡単な答えはなかった。


 しかし私たちは確信していた。

 この困難な時期を乗り越えれば、私たちの関係はより深く、より強いものになるだろうと。

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