第八章:メロディー・オブ・ハート
六ヶ月後、私たちの研究は大きな進展を見せていた。「
特に、私たちが開発した「音色語彙マッピング」という技法は画期的だった。患者の言語記憶と音楽記憶を結びつけることで、従来の言語療法では改善が困難だった重度の失語症患者にも効果を示していた。
私は大学院に復学し、神経心理学の博士課程に在籍していた。指導教授は、私の症例に強い興味を示し、私自身が研究対象でありながら研究者でもあるという稀有な立場を高く評価していた。
「信楽さん、あなたの研究は既存の失語症治療の概念を根底から変える可能性を秘めています」
指導教授の山田先生は言った。
「ぜひ来年の国際失語症学会で発表してください」
一方、奏の音楽活動も新たな展開を見せていた。彼は医療施設での演奏活動を本格化させ、「ヒーリング・インプロヴィゼーション」というユニークなスタイルを確立していた。
これは患者の生理学的データ(心拍数、血圧、脳波など)をリアルタイムで音楽に反映させる革新的な手法で、各患者に最適化された音楽療法を提供できるシステムだった。
ある日曜日の午後、私たちは都内の大学病院で合同セッションを行っていた。参加者は重度の失語症を患う五名の患者とその家族だった。
最初に奏が、参加者全員の「感情の味」を確認しながら、その場に適したベース・トーンを決定した。不安の酸味、希望の甘味、悲しみの塩味……それらを調和させる音楽的フレームワークを即興で構築していく。
次に私が、各患者の発声パターンを分析した。母音の基音周波数、子音の調音点、発声時の筋電位パターン……私の拡張された聴覚は、通常では検出不可能な微細な音響情報を捉えていた。
「田中さん、『あ』の音を出してみてください」
患者の田中さんは脳梗塞により重度のブローカ失語を患っていた。彼の発声は健常者には雑音のように聞こえるが、私には豊富な情報が含まれていることが分かった。
私は田中さんの発声パターンを分析し、彼が発しやすい周波数帯域を特定した。そしてその情報を奏に伝える。奏はその周波数に合わせたメロディーを即興で作り出し、田中さんの発声を音楽的に包み込んだ。
すると驚くべきことが起こった。田中さんの発声が、次第に明瞭になってきたのだ。最初は「あー」という単調な音だったものが、「あ・り・が・と・う」という言葉の形を取り始めた。
田中さんの妻が涙を流しながら夫の手を握った。
「お父さん、言えてる! 『ありがとう』って言えてるよ!」
このセッションは私たちにとって、研究成果の実用性を確認する重要な機会だった。同時に、私たち自身の関係性についても新しい認識をもたらした。
セッション後、私たちは病院の屋上で夜景を眺めていた。東京の街明かりが、私の拡張視覚には無数の色彩の粒として映っていた。各建物の窓から漏れる光の色温度の違いが、まるでモザイク画のような美しいパターンを作り出している。
「可憐」
奏が静かに口を開いた。
「僕たち、いいチームだよね」
「うん」
私は素直に頷いた。
「あなたと一緒だと……不思議。自分の能力が……祝福のように感じる」
「僕も同じだ。君がいると、世界が初めて美しく見える」
その時、奏の表情に少し迷いのような影が差した。
「可憐、君に話しておきたいことがある」
「何?」
「実は来月、ヨーロッパツアーの話が来ているんだ。三ヶ月間、フランスとドイツの医療機関で演奏とワークショップを行う予定」
私の心臓が一瞬止まったような気がした。
「それは……素晴らしい機会」
私は努めて平静を装った。
「でも僕は迷っている。君と離れたくない。この研究も中途半端にしたくない」
私は奏の手を取った。
「行くべき」
私ははっきりと言った。
「あなたの音楽を……必要としている人たちがいる」
「でも……」
「私も……成長したい。一人でできることを……増やしたい」
奏は私の目をじっと見つめた。
「君は本当に強いな」
「ううん、違う。あなたが……強くしてくれた」
私たちはその夜、お互いの将来について長時間話し合った。奏のヨーロッパでの活動、私の博士論文執筆、そして将来の共同研究の可能性。
別れは辛いものになるだろう。しかし同時に、それは私たちの関係をより深いものにする試練でもあるかもしれない。
翌週、奏の送別会が開かれた。場所は私たちが初めて出会った「Blue Note Tokyo」。多くの医療関係者、音楽仲間、患者の家族が集まった。
奏は最後の演奏として、私のために特別な曲を用意していた。それは私たちの出会いから現在までの軌跡を音楽で表現した、12分間の長大な組曲だった。
第一楽章「沈黙の女性」では、私の失語症の苦しみが不協和音で表現された。第二楽章「出会いの奇跡」は、私たちの初対面の場面。第三楽章「共鳴する魂」では、私たちの特殊能力が美しくハーモナイズした。第四楽章「嵐の夜」は、佐藤事件の恐怖と混乱。そして最終楽章「新しい夜明け」では、私たちの愛と希望が高らかに歌い上げられた。
演奏が終わった時、会場は静寂に包まれた。そして次の瞬間、嵐のような拍手が湧き起こった。
私は涙を流しながら立ち上がった。これまで公の場で話すことを避けていたが、この日は違った。
「みなさん」
私は声を震わせながら言った。
「奏さんは……私に言葉を取り戻してくれました。でもそれ以上に……生きる希望を与えてくれました」
会場がさらに静まり返った。
「三ヶ月後……奏さんが帰ってきた時……私はもっと強くなって……迎えたいと思います」
最後の言葉は、ほとんど歌うように発声していた。メロディック・スピーチの技法を自然に使っていたのだ。
奏が私のもとに歩み寄り、そっと抱きしめた。
「待っててくれるかい?」
「もちろん」
私は彼の胸に顔を埋めながら答えた。
「君への愛を込めて、ヨーロッパの人々に音楽を届けてくる」
「私も……研究を進めて……あなたに恥じない成果を出す」
その夜は私たちにとって、新しい章の始まりを告げる重要な夜だった。
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