第六章:リコンストラクション・オブ・ソウル


 事件から一週間後、私と奏は東京大学医学部附属病院の神経内科病棟にいた。白い壁に囲まれた静謐な個室で、私たちは向き合っていた。窓の外には桜の木があり、散りゆく花びらが春風に舞っていた。


 担当医師である神山教授は、私の脳MRI画像をライトボックスに掲げながら説明を続けていた。彼は国内でも有数の神経可塑性研究の権威で、私の症例に強い興味を示していた。


「信楽さんの場合、非常に興味深い現象が起こっています」


 神山教授の声は、学者特有の静かな興奮を含んでいた。


「ウェルニッケ野の損傷部位周辺で、異常な神経再生が確認できます。これは『ペリレジョナル・プラスティシティ』と呼ばれる現象で、損傷領域の周辺部が代替機能を獲得するメカニズムです」


 画像上で、私の脳の損傷部位の周りに、通常では見られない神経活動パターンが赤く光っている。それはまるで、脳が自分自身を修復しようと必死に新しい回路を構築している様子を表しているようだった。


「特に注目すべきは、右半球の角回と縁上回の活動が劇的に増加していることです。これらの領域は通常、左脳の言語野を補完する役割を持ちますが、信楽さんの場合、主要な言語処理機能を代替し始めています」


 私はその説明を聞きながら、自分の頭の中で起こっている変化を実感していた。言葉を話そうとする時、確かに脳の右側に温かい血流が流れるような感覚がある。それは以前にはなかった感覚だった。


「しかしより驚くべきことは」


 教授は続けた。


「信楽さんの聴覚皮質と視覚皮質の活動パターンです。通常の人間の可聴・可視範囲を遥かに超えた周波数・波長に反応を示しています。これは外傷による神経損傷が、逆説的に感覚器官の制限を解除したことを意味します」


 奏は私の手をそっと握りながら、教授の説明に聞き入っていた。彼の表情には、私への心配と同時に、科学的な興味も浮かんでいた。


「つまり、可憐の能力は一時的なものではないということですね?」


 奏が質問した。


「その通りです。むしろ、適切なリハビリテーションを行えば、さらに発達する可能性さえあります。脳の神経可塑性は、我々が考えているよりもはるかに柔軟で創造的なのです」


 教授は陽電子断層撮影PETの画像も見せてくれた。私の脳内でブドウ糖の代謝が活発に行われている領域が、色鮮やかに描かれている。健常者と比べて、私の脳は約20%多くのエネルギーを消費していた。


「これは『代償的過活動』という現象です。損傷した機能を補うため、脳全体がより活発に働いているのです。信楽さんが時々感じられる頭痛や疲労感は、この過活動によるものと思われます」


 確かに私は、事件後から軽い頭痛に悩まされることが多くなっていた。特に複雑な音響環境にいる時や、強い感情的ストレスを感じた時に症状が強く現れた。


「しかし心配は無用です」


 教授は安心させるように言った。


「時間と共に、脳はより効率的な処理方法を学習していきます。今は過渡期なのです」


 診察が終わった後、私たちは病院の屋上庭園に向かった。そこは患者とその家族のためのリハビリテーション空間で、季節の花々が植えられていた。


 ベンチに座りながら、奏が口を開いた。


「可憐、君は自分の能力をどう思ってる?」


 私は少し考えてから答えた。言葉を選ぶのがまだ難しく、一つ一つの単語を慎重に組み立てる必要があった。


「最初は……呪いだと思った。でも今は……分からない。贈り物かもしれない」


「贈り物?」


「あなたと出会えた。それだけで……十分。この能力があったから……あなたの音楽の本当の美しさが……見えた」


 奏の瞳に涙が浮かんだ。彼の共感覚が、私の言葉の背後にある純粋な感情を「清らかな湧き水の味」として感じ取っているのだろう。


「僕も同じだよ」


 彼は私の手を両手で包みながら言った。


「君と出会うまで、僕の共感覚は重荷でしかなかった。でも君といると、初めて世界が美しいものに見える」


 その時、庭園に野鳥の鳴き声が響いた。メジロの高い澄んだ声だった。私の拡張された聴覚は、その鳴き声の中に含まれる豊富な倍音構造を捉えていた。基音の約3000ヘルツに加えて、15000ヘルツまでの高次倍音が複雑なパターンを描いている。


「きれい……」


 私は思わずつぶやいた。


「何が?」


「鳥の声。虹色に……光ってる」


 奏は興味深そうに首を傾げた。


「僕には黄色い蜂蜜の味がする。とても甘くて、少しだけスパイシーな」


 私たちはしばらく無言で鳥の声に聞き入った。同じ音を、私は色として、奏は味として感じている。しかし不思議なことに、私たちが感じている「美しさ」は完全に同じものだった。


「奏」


 私は彼を見つめながら言った。


「私たち……似てる」


「どんなところが?」


「普通じゃない。でも……それでいいって……思えるようになった」


 奏は微笑んだ。


「君がそう言ってくれると、僕も救われる」


 夕日が西の空を染める頃、私たちは病院を後にした。駅までの道のりを、私たちはゆっくりと歩いた。私にとって、これは事件以来初めての「平和な散歩」だった。


 街の音が、以前のような恐怖の対象ではなく、美しい音楽として聞こえている。車のエンジン音は低いベースラインを奏で、人々の話し声は軽やかなメロディーを描いている。猫やカラスの鳴き声は重層的なコーラスだ。そして奏の足音は、私の心拍と完璧にシンクロしている。


「可憐」


 奏が立ち止まって私を振り返った。


「言語リハビリ、一人で頑張る必要はないよ。僕も一緒にいる」


「ありがとう」


 私は素直に答えた。


「一人だったら……きっと諦めてた」


「君は諦める人じゃない。


 その夜、私は久しぶりに安らかな眠りについた。夢の中で、私は奏のサックスに合わせて歌を歌っていた。美しいデュエットだった。


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