第四章:サイレント・ゲーム


 犯人の真の目的は奏ではない。


 彼は私と奏が接触することを予測し、私たちを弄ぶための悪趣味なゲームを仕掛けてきていたのだ。


 その証拠に、事件現場からは私にしか解読できない「メッセージ」が発見された。紫外線で光る特殊なインクで書かれた文字:「君の新しい能力は気に入ったかい、可憐――次は君の恋人の番だ。二人で過ごす言葉のない世界はさぞや美しことだろう」


 さらに、田中の携帯電話に残されていた最後の着信記録。そこには私の大学時代の研究室の番号があった。佐藤は私の過去を詳細に調査していた。彼は私が奏と関係を持つことまで予想していたのだ。あの悪魔は。


 再び蘇るあの日の恐怖。

 犯人の狂気に満ちた笑顔。

 そして私から言葉を奪った、あの恐ろしい機械の音。


 私の世界は再び苦痛に満ちたノイズと暴力的な光の洪水に包まれた。過去のトラウマが現在の知覚を歪め、美しかったはずの超越的な感覚世界が、再び悪夢へと変わっていく。


 PTSD――心的外傷後ストレス障害。


 トラウマ体験により、扁桃体が過敏になり、些細な刺激でも戦闘・逃走反応が引き起こされる。私の拡張された知覚は、その症状を劇的に悪化させた。


 屋根裏部屋に戻った私は、全ての窓にブラインドを下ろし、防音材で壁を覆った。そして耳にノイズキャンセリングヘッドフォンをつけ、目にはアイマスクをした。世界をすべてシャットアウトしようとした。


 しかし私の拡張された感覚は、それらの遮蔽を簡単に突き破った。建物の構造振動が私の皮膚を通じて伝わってくる。空気の微細な温度変化が、まるでレーダーのように私に周囲の状況を知らせる。


 私は完全に心を閉ざしてしまった。


 郷田さんが何度もドアをノックしたが、私は応答しなかった。


 奏からの電話にも出なかった。私は自分の特殊能力が呪いでしかないことを、改めて思い知った。


 一方、奏は私の状況を深く理解していた。

 彼自身も長年、自分の共感覚に苦しんできた経験があるからだ。


「可憐が苦しんでいる理由が分かる」


 奏は郷田さんに言った。


「僕も子どもの頃、自分の能力を呪ったことがある。普通でいたいと願った夜が何度もあった」


 しかし数日後、奏の音楽を聴いて心が少し落ち着いた私は、彼に会いに行こうと初めて外出を決意した。会場近くのカフェでライブ中継を見ながら、勇気を振り絞ろうとしていた。


 奏は、そんな私を救うため、そして犯人を誘き出すため、たった一人でステージに立つことを決意した。彼はインターネットで生中継されるライブで、前代未聞の挑戦を試みた。


「今夜は、たった一人特別な君のためだけに演奏する」


 彼は自分の共感覚を最大限に研ぎ澄まし、私が今感じているであろう「世界の味」――恐怖の苦味、悲しみの塩味、混乱の金属の味――を自らの音で完全に再現し始めた。


 それは聴衆にとっては、耳を覆いたくなるような狂気の不協和音だった。グロウル奏法で作り出す獣のような唸り声。マルチフォニックによる不自然な倍音。そして極限まで歪んだビブラート。通常の音楽理論では考えられない、混沌とした音の組み合わせ。


 しかしその不協和音がネット中継を通して私の耳に届いた時、私は無意識にヘッドフォンを外し、その音を聴いていた。


 それは私の心のカオスそのものだった。

 彼は私の痛みを共有してくれている。


 音響心理学において、不協和音は人間の聴覚に不快感を与えるとされる。しかし奏の演奏は違った。彼は私の拡張された聴覚特性を完璧に理解し、通常の人間には不快でも、私には理解可能な周波数構成を計算して演奏していたのだ。


 4万ヘルツを超える超高周波成分の中に、私だけに向けたメッセージが隠されていた。それは音響ステガノグラフィー――音の中に情報を隠す技術だった。彼は私の超聴覚能力を利用して、他の誰にも分からない形で私に語りかけていた。


「可憐、君は一人じゃない。僕がここにいる」


 そして彼は、その不協和音に少しずつ新しい「味」を加えていった。それは彼が私と出会ってから感じてきた「澄み切った泉のような安らぎの味」。そして彼が初めて覚えた「甘く切ない恋の味」。


 彼のその即興演奏は、私の混沌とした知覚を優しく調律していく「魂のチューニング」となった。ノイズは美しいハーモニーに。暴力的な光は柔らかなオーロラの色彩へと変わっていく。


 音楽療法では、これを「同調共鳴」と呼ぶ。患者の感情状態に音楽を合わせ、徐々に望ましい状態へと導く技法だ。しかし奏が行っていたのは単純な音楽療法ではない。彼は私の特殊な聴覚構造に合わせて、脳の神経回路を再構築するような音楽セラピーを即興で実現していたのだ。


 私の心は安らぎを取り戻していった。涙が頬を伝って流れた。それは恐怖の涙ではなく、感謝の涙だった。


 

 このあと、佐藤あくまが現れるとも知らずに。


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