第二章:ポイズン・テイスト・インプロヴィゼーション


 数日後、都内で殺人事件が発生した。


 被害者は新進気鋭の音楽プロデューサー、田中雅彦、三十四歳。


 彼の経営する小さなレーベル「Resonance Records」は、最近急速に業績を伸ばしていた。特に、契約アーティストから不当に高い手数料を徴収することで有名だった。そして第一容疑者として警察の捜査線上に浮かび上がったのが、被害者と激しい契約トラブルを抱えていた風早奏だった。


 田中は奏との契約で、著作権の80%を会社が保持し、演奏料の60%を手数料として徴収するという、極めて不平等な条項を盛り込んでいた。音楽業界でよくある悪質な契約だったが、法的には有効だった。奏は弁護士を雇って契約破棄を求めていたが、田中側は巨額の違約金を要求していた。


 事件が報じられた翌日の夕方、郷田さんは警察からの極秘の依頼を受け、この事件の調査に乗り出した。


「可憐、この事件には少し変わったところがある」


 郷田さんは私に説明した。


 「被害者の田中は、頭部に特殊な外傷を負っていた。聴覚に関連する脳の部位に、ピンポイントで損傷を与えられている。まるで医学的知識を持つ者の犯行のようだ」


 私の血が凍りついた。

 その手法は、二年前の連続殺人事件と


『詳細を教えてください』


「被害者は拉致された後、特殊な装置で脳の聴覚野に損傷を与えられた。その後、窒息死させられている。現場に争った形跡はない」


 郷田さんは私を連れて、奏の事情聴取に向かった。


 六本木のジャズクラブ「Blue Note」の楽屋で、私たちは再会した。奏の表情は疲労と困惑に満ちていた。彼の周りには、いつもの透明な「味」の代わりに、苦い不安の味が漂っていた。


「風早さん」


 郷田さんが口を開いた。


「事件があった時刻、あなたは一人でスタジオにいたと、そうおっしゃるのですね?」


「ああ。新曲のアレンジをしていた。『Midnight Blue』というバラードだ」


 その時、私は奏の声に集中していた。


 彼の声には人間の可聴範囲を超えた特殊な周波数の微細なノイズが混じっていた。声帯の筋肉が緊張する時に発生する高い倍音成分の変化。それはが無意識に作り出す生理学的シグナルだった。


 しかし同時に、彼の心拍数は完全に安定していた。赤外線で観測される彼の体表温度分布に、動揺を示すパターンは見られない。


 


 人間が嘘をつく時、通常は交感神経系が活性化し、心拍数の上昇、発汗、体温の微細な変化が起こる。


 しかし奏の生理学的反応は、むしろ真実を語っている人のものに近い。ということは、彼は確かに何かを隠しているが、それは殺人とは別の事柄である可能性が高い。私はそう、推測した。


 私はスケッチブックに波形を描き、郷田さんに見せた。


『彼は何かを隠していますが、殺人については無実だと思われます』


 奏は私のその行動に気づいていた。

 そして彼は私の目をまっすぐに見つめ、静かに言った。


「面白いな、あんた。あんたの心臓の音、さっきから全くリズムが変わらない。鉄の心臓でも持ってるのか?」


 彼には聞こえているのだ。

 私の心の音が。そして感じている。

 私の感情の「味」が全くしないことを。

 私たちの最初の対決だった。


 しかし私は冷静だった。感情の起伏が少ないのは、PTSD患者によく見られる感情麻痺emotional numbingの症状でもある。私の心拍が安定しているのは、世界に対する興味を失っているからでもあった。


 簡易的な事情聴取が終わった後、奏は私に向き直った。


「君は僕が嘘をついているのを見抜いた。でも僕が殺人犯ではないことも分かってくれている」


 私は頷いた。


「実は、事件の夜、僕は別の場所にいたんだ。でもそのことは警察には言えない。ある女性を守るためだ」


 彼の声の倍音分析から、これは真実だと判断できた。


『その女性とは?』


「田中の愛人だった女優、松下美咲だ。彼女は田中から脅迫されていた。僕はその夜、彼女の相談に乗っていたんだ。でも彼女の夫は有名な政治家で、不倫が発覚すれば彼女の人生は破綻してしまう」


 なるほど。彼は自分を犠牲にしてでも、その女性を守ろうとしているのだ。


 奏は続けた。


「美咲さんは、田中に過去の不倫を材料に脅迫されていた。金銭的な要求だけでなく、肉体的な関係も強要されていた。僕は彼女からその相談を受けて、法的な対処法を一緒に考えていたんだ」


『なぜ彼女はあなたに相談を?』


「美咲さんも軽度の共感覚者だった。視覚・聴覚共感覚で、音楽を聴くと色が見える。僕の演奏を聴いて、僕が特別な感覚を持っていることを察したんだ。同じような『異常』を持つ者同士、理解し合えると思ったんだろう」


 私はその話に深い共感を覚えた。特殊な知覚を持つ者は、しばしば社会から疎外感を感じる。そして同じような体験を持つ人に、強い親近感を抱く。


「でも僕は彼女に恋愛感情は抱いていない。むしろ、姉のような存在だった。僕にとって『恋』という感情は、


 その言葉に、私の凍りついた心が少し溶けた気がした。

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