第一章:共感覚の旋律 ~味わう音楽、視える調べ~


 一方、ステージの上の奏もまた、客席の片隅に一人座る私の存在に気づいていた。


 彼は音を「味」として感じる共感覚シナスタジアの持ち主だった。医学的には「音味共感覚」と呼ばれる稀な現象で、聴覚情報が味覚野を同時に刺激することで起こる。脳内の神経回路が通常とは異なる接続を持つ、全人口の約0.2%にしか現れない音味共感覚の中でも、特に重度の症状を持つ特殊な能力だった。


 風早奏、二十八歳。

 三歳でピアノを始め、十歳でサックスと出会った。

 音楽の才能は幼い頃から突出していたが、同時に彼の共感覚も強烈だった。


 彼にとって聴衆の感情は、常に不快な「味」の濁流だった。

 嫉妬の酸味。

 欲望の脂っこい甘み。

 羨望の苦み。

 それらが彼の繊細な味覚を蝕んでいく。

 音楽を奏でながら、彼はいつも吐き気と戦っていた。


 中学時代、彼は学校のブラスバンド部で演奏していた時、同級生たちの「羨望の苦い味」と「劣等感の渋い味」に耐えきれず、ステージで嘔吐してしまった経験がある。それ以来、彼は人前で演奏することを避けるようになった。


 大学では音楽療法を学び、共感覚を理解してくれる教授の指導の下で研究を続けた。彼の共感覚は病気ではなく、一種の「超能力」だった。人の感情を味として認識できることは、時として相手の嘘や本音を見抜く能力にもなる。


 しかし、それは同時に他人との距離を作り出す能力でもあった。恋人との食事でさえ、相手の欲望や不安の「味」が混じって、純粋な食べ物の味を楽しむことができない。彼は今まで、一度も


 しかし今、あの黒い服の女性だけが違った。彼女からは


 無味無臭。

 いや、違う。それはまるでアルプスの雪解け水のような、どこまでも透明で清冽な魂の「味」。


 奏にとって、他人の感情は常に味覚という形で強制的に侵入してくる不快な雑音だった。


 しかし彼女だけは違う。


 彼女の存在は、まるで静寂そのもののようだった。音楽的に表現するなら、完全な「レスト」――休符。しかしそれは空虚な沈黙ではなく、全ての音が調和した時に現れる、聖なる静寂だった。あるいはジョン・ケージの「4分33秒」と言えばよいのか。


 そして彼は、彼女のためだけに即興で一曲奏で始めた。チャーリー・パーカーやジョン・コルトレーンが追求した「自由な即興」の境地。テーマもコード進行も捨て去り、ただ魂の赴くままに音を紡ぐ。


 彼の演奏技法は独特だった。


「循環呼吸法」と呼ばれる高度な技術を用いて、息継ぎなしで長時間の演奏を続ける。頬と舌で空気を貯め込み、鼻呼吸で新しい空気を取り入れながら、口の中の空気でリードを振動させ続ける。この技法により、彼は途切れることのない音の流れを作り出していた。


 さらに、彼は「マルチフォニック」という特殊奏法も使用していた。単一の楽器から複数の音を同時に発する技術。通常の運指とは異なる特殊な指使いと、口腔内の微細な調整により、基音と倍音を意図的に分離して発音する。これにより、一本のサックスから和音のような複雑な響きを生み出していた。


 それは彼が初めて誰かのために紡いだ清らかなメロディ。私の失われた言葉の代わりに、世界が歌い始めた夜だった。


 演奏が終わった後、客席からは割れんばかりの拍手が湧き起こった。しかし奏の目は、ずっと私だけを見つめていた。彼はゆっくりとステージから降り、私のテーブルに歩み寄った。


「君の名前を教えてくれるかい」


 私はスケッチブックに文字を書いた。このスケッチブックは、私の失語症以降の唯一のコミュニケーション手段だった。


『信楽可憐。私は話すことができません』


「可憐。美しい名前だ」彼の声には、今まで聞いたことのない優しさがあった。「僕は風早奏。君のためだけに演奏したくて、こうして声をかけた」


 そして彼は続けた。


「君からは不思議なことに、何の『味』もしない。僕にとって、それがどれほど奇跡的なことか、君には分からないかもしれないが」


 私は興味深そうに首を傾げた。彼は微笑んで説明を始めた。


「僕は共感覚者なんだ。音が味として感じられる。普通の人の感情は、僕には様々な『味』として感じられる。でも君の心臓の鼓動は、澄んだ湧水のような透明な『味』がする。こんな経験は初めてだ」


 奏は私の前の椅子に座った。

 近くで見ると、彼の目には深い疲労と、同時に安らぎの色があった。


「君も、何か特別な感覚を持っているんじゃないか? さっき僕が演奏している時、君の表情は他の観客とは全く違っていた。まるで、僕の音楽をようだった」


 私はしばらく迷った後、スケッチブックに書いた。


『私には音が色として見えます。あなたの音楽は、今まで見たことのないほど美しい色彩でした』


 奏の目が驚きに見開かれた。


「君もか……君も普通じゃない感覚を持っているんだね」


 そして彼は、まるで長い間探し続けていた宝物をついに見つけたような、安堵の表情を浮かべた。


「僕は二十八年間生きてきて、初めて誰かを『心地よい』と感じている。君といると、世界がこんなにも静かなんだ」


 その夜、私たちは朝まで筆談で語り合った。音楽の話、哲学の話、そして互いの特殊な知覚について。二人とも、自分が「異常」だと感じながら生きてきた。しかし初めて、その異常さを理解し合える相手に出会えた気がした。私は後天的、彼は先天的な異常だったけれど。


 奏は自分の共感覚について詳しく語ってくれた。


「子どもの頃は、みんなも音を味として感じているものだと思っていた。だから学校で『ドの音は甘い味がする』と言ったら、みんなに奇異な目で見られた。医師に相談した両親は、僕の脳に異常があるのではないかと心配した」


「でも大学で脳神経科学を学んで、これが共感覚という現象だと分かった時、僕は安心した。病気じゃない。ただ、脳の配線が少し違うだけなんだ」


 私も自分の体験を文字で語った。


『私の場合は事故による後天的な変化でした。最初は恐怖でした。世界が突然、見たこともない色で満たされて。でも次第に、この能力が真実を見抜く力を持っていることに気づきました』


『あなたの共感覚は生まれつきですか?』


「そうだ。三歳の頃には、既にピアノの音に味を感じていた。C majorの和音は vanilla の味。D minorは dark chocolate の味。僕にとって音楽理論は、味の組み合わせ理論でもあるんだ」


 夜が更けていく中で、私たちは互いの世界観を共有していった。二人とも、「普通」の世界から疎外された経験を持っていた。しかし今、互いの特殊性が完璧に調和している。


「可憐」朝日が窓から差し込む頃、奏が私の名前を呼んだ。「君と話していると、僕の共感覚が初めて『贈り物』のように感じられる」


 私はスケッチブックに書いた。


『私も同じです。あなたの音楽は、私の能力を初めて『美しいもの』に変えてくれました』


 そして私たちは両方とも知っていた。

 これが恋の始まりだということを。

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