月よりも小さな

@tyma_kfpg

第1話

そろそろ日付が変わろうかという頃、帰り支度をしていた僕の前にフェネックが現れた。

「やー、こんな時間までお仕事? 園長さんは大変だねー」

「別に仕事ってわけじゃないんだ。それにもう帰るところだし」

いつの間にか園長と呼ばれるようになっていた僕に与えられた、分不相応に大きなこの部屋は、一人でいるには広すぎる。

だからいつも入口のドアは開け放っていて、誰でも自由に出入りできるようにしていた。

「ふーん。それじゃあ、最近噂になってる、園長さんの夜遊びってやつ?」

フェネックがいたずらっぽい表情をして訊く。

「僕のこと、もう噂になってるの? 耳が早いね」

「自慢の耳だからねー。……夜のパークをうろついてるって聞いたけど、何か困り事?」

「うろついてるとはあんまりだね。単に、夜行性の子たちの夜の様子を見てみたくて、夜のパークを散歩してたんだ」

ミライさんを始めとするパークガイドさんたちに比べて、僕はけものたちのことを知らなすぎる。

他人と比べてどうこうという意味じゃなく、僕を慕ってくれるみんなのことをもっとよく知りたい。そう思って数日前から就業後に夜のパークに繰り出すようになった。

僕の方からはまだイエネコとしか会えてないつもりだったのだけど、噂になるくらいには僕のことを見ていた子たちがいたみたいだ。

せっかくなんだから声を掛けてくれればいいのにとも思う。それとも、"園長"の仕事の邪魔をしないように気を使ってくれているのだろうか。

「そっか、困り事じゃなくて良かった。夜の散歩かぁ、いいよねえ。涼しい風が気持ち良くて、静かで落ち着いてて、昼とは違う風景が見えて」

「フェネックも夜行性だったよね。それとも、アニマルガールになった今は昼間に活動してることの方が多いのかな?」

「動物の頃は夜行性だったけど、今はどっちにもできるって感じ。アライさんなんかは昼も夜も元気だしねー」

「サンドスターの不思議だね」

「けど、園長さん、いくらこの辺はセルリアンが少ないからって、一人で出歩くのは危ないんじゃないかなー?」

いつも涼しい顔で笑っているように見える彼女は、その実、周りのことをよく見ていて、困っている誰かをほうっておけない優しい子だ。

「心配してくれるの? 優しいね。それじゃ、今度一緒に来てくれるかな? 僕としても、夜のパークをよく知る子と一緒だと心強いし」

「ふふ、お誘いありがとー。アライさんもついてきちゃうかもしれないけど、それでもよかったら」

「もちろん構わないよ。明日でも明後日でも、君の都合のいいときに、日が沈んで外が暗くなる頃にここに集合で」

「そんなに気を使わなくても、明日ね」

「楽しみにしてるよ。じゃあ今日はもう夜も遅いし僕はそろそろ家に帰って寝るよ。おやすみ、フェネック」

「おやすみ、園長さん。また明日」

「また明日」


翌日、日没から少しして辺りが少しずつ薄暗くなり始めた頃、フェネックがやってきた。

「園長さん、こんばんは」

「こんばんは。約束通りの時間だね」

荷物を手早くまとめ、出発の準備をする。

「結局アライさんはついてこなかったのかな?」

「今日のアライさんは昼間にはしゃぎすぎて、日が沈む前から寝ちゃったからねー」

部屋の戸締まりをして建物の外に出る。この時間のセントラルには明かりのついた建物がいくつもあり、まだ夜の静けさとは無縁だった。

それでも、セントラルを出てほんの少し歩く間に空はみるみる暗くなり、街明かりが木々の死角に消え、細い三日月も沈んでしまうと、そこにあるのはもう夜の暗闇だけだ。

僕はヘッドライトをつけて足元を照らしながら歩く。舗装されていない自然のままの道は、明るいときに歩いていてもうっかり足を取られることがある。真っ暗のまま歩くのが無謀なことは最初に夜の散歩をしたときに気づいた。

「園長さんは、夜のパークの思い出ってある?」

「そうだなあ、やっぱり、このパークに来て最初の夜かな」

もう随分むかしのように感じられるあの頃のことを思い出す。

「パークに来る前に僕が住んでたところは、セントラルよりもずっと都会で、夜中でも建物の明かりが煌々としてた。夜っていうのは、ただ空が暗くなるだけの時間で、ヒトはそんなことを気にせずに活動してたんだ。

 だから、パークに来て最初の夜、僕とミライさんとサーバルとカラカルの4人でキャンプをしたときのことはよく覚えてる。日が暮れて、焚き火も消していざ寝るときになると、もう暗闇に紛れて自分の手さえ見つけることができなかった。

 あのとき、僕は生まれて初めて本当の夜を体験したんだ。闇が世界を支配して、僕自身も指先から闇夜に溶けてしまうんじゃないかと思うような、本物の夜を」

このパークに来てからたくさんのことを経験した。その中でも、あの最初の1日のことは忘れられない出来事の一つだ。

「やー、私は暗闇をそんなふうに思ったことはないなー。私はフェネックで、夜目が効くから」

隣で半歩先を歩くフェネックは、僕とは違ってなんの明かりも持たずに、けれど危なげなく進んでいく。

「この体になって、ヒトのことをたくさん知って、それでも結局『ヒトであるとはどういうことか』が私にはわかりようがないっていうのは、ちょっとさみしいね」

たしかそんなタイトルの哲学の論文があったはずだ。

「けど、それはヒト同士だってそうだからね。僕だって、君たちを見てどうしてヨダレを垂らすのか、ミライさんの内心は知りようがないし」

わざとらしく肩をすくめてみせる。

「んー、そういう話だっけ?」

「さあ? 僕は哲学はかじったことすらないからなんとも。ただ、今こうして君たちと、たぶん君たちが動物だった頃よりも深いコミュニケーションができるのは、僕にとっては嬉しいことだよ」

「もちろん、私もそう思うよ」


「話は戻るけど、園長さんは、今でも暗闇を怖いと思う?」

問われて改めて考える。足を止め、頭につけたライトを消す。隣を歩いていたフェネックの姿が視界から消え、月明かりのない空の下、僕は一人、完全な暗闇に包まれる。

手を前に伸ばして睨みつけてみるけれど、そこになにがあるかは判然としない。そんなことをしている間に、もう僕の指先はこの闇夜に溶けて消えてしまったかもしれない。

と、指先がなにかに触れて、一瞬ビクリとする。しかしよく考えると、それが何なのかは明らかだ。

「やっぱり、夜目が効くっていうのはずるいなあ。君には、いま僕がびっくりした顔も全部見えてたんでしょ?」

そう言って彼女の手を包み返す。

「そうだね。園長さんがいまどんな顔をしてるかも、全部見えてるよ」

「それは困った。変な顔してないか確かめないと」

わざとらしく両手で自分の顔を触る。

「ふふ、大丈夫、いつもの優しい顔だよ」

「じゃあよかった。……質問の答えなんだけど。今はもう、昔ほど暗闇を怖いとは思わないよ。みんなで過ごした楽しい夜の思い出もたくさんできたし、全てが消えてしまったように見える闇の中にも、いろんな子がいることがわかったし」

今までいろんな夜があった。

セルリアンの夜襲で叩き起こされたこともある。カコ博士とミライさんの、けものトークに夜通しつきあわされたこともある。そして、あの大冒険の中でみんなと過ごした夜がある。

「それになにより、今は君が隣にいてくれてるからね。頼りにしてるから、セルリアンが出てきたらしっかりボディーガードを頼むよ」

「やー、照れ隠しで余計なことを言わなきゃ今のセリフはかっこよかったのにねー」

「あはは」

「それで、今日はどこへ向かってるの?」

「せっかく頼もしい仲間がいるから、森の中まで入ってみようかなって思ってる。フクロウたちとか、コウモリたちとか、夜にもいろんな子が活動してるはずだよね。どう?」

「うーん、私は別に森は得意ってわけじゃないけど、まあこの辺のことならだいたいわかってるからねー。いいよー、とっておきの場所に案内してあげる」


フェネックは僕の前に立って森の中を進んでいく。

昼間には何度も入ったことがあるセントラル近くのこの森も、夜に来るのは初めてだ。

昼の森と夜の森の違いは、昼の街と夜の街の違いよりもずっと大きく、地図もコンパスもしまったままただ彼女の背を追って進んでいると、自分がいまどこにいるのかなんて早々にわからなくなってしまっている。

「足元、木の根で段差になってるから気をつけてねー」

彼女がときどきそうやって声を掛けてくれるが、何度目かでついに蹴躓いて地面にダイブすることになる。

「痛た……」

「大丈夫かい? 案外ドジなところもあるんだね」

「アライさんには負けるけどね」

「あはは、そりゃねえ」

怪我もなく、ライトも壊れていない。立ち上がって歩みを再開する。

雑談をしながらしばらく森の中を進む。セルリアンと遭遇することもなければ、アニマルガールの誰かと会うこともない、静かな森だ。

ふと、フェネックが振り返る。

「園長さん、そろそろ明かりを消してくれる?」

「えっ、さすがにこの足元を明かりなしで進むのは僕にはちょっと難しいよ」

「もうすぐそこだからさ。ほら、手を出して」

彼女の手を握り、明かりを消して、足元を確かめながらゆっくりゆっくりと進む。

土を踏みしめる感触、二人分の足音、風にそよぐ木の葉の音、川の水音、自分の鼓動、そして彼女の手のぬくもりだけが、いま僕が感じることができるものの全てだった。


そうして、フェネックに手を引かれながら真っ暗な森の中を歩くこと数分。

「目は慣れた? そろそろ見えてくるはずだよ。……ほら、正面からちょっと右のあたり」

彼女の言う方向に明滅する小さな明かりが見える。ホタルだ。

「本当はもうちょっと早い時間の方がたくさん見れるんだけどね」

明かりの方に近づいていくと、緑がかった小さな光がいくつも見えた。

「実はホタルを見るのは初めてなんだ。きれいだね」

たくさんのホタルが飛んでいて、とても幻想的な光景だ。

「そう思ってもらえたら、案内した甲斐があったよー」

光の一つにそっと近づき、しゃがんで観察する。

「アライさんとはこういう夜のお散歩はしないの? ……と思ったけど、あの子と一緒だと風情も何もあったもんじゃないか」

「そうだねえ。アライさんが止まらなくて、夜道でも強行軍で進むことはあるけど、こういう静かな散歩って感じにはならないなー。いつでも元気溌溂で猪突猛進で、どんな夜だって太陽みたいに照らしてくれるのがアライさんのいいところだからさ」

「そっか。やっぱりアライさんはすごいなー」

まだ彼女と繋いでいる手に少し力が入る。

「……アライさんがすごいのは、アライさん自身もそうだけど、君にそれだけ言わせるところだよ。きっと君にとってアライさんは大切なんだね」

彼女の方を見ることはできなかった。眼の前のホタルが光るのをじっと見つめる。

「やー、よく見てるねえ。……アライさんのことは、大切だよ。無限のエネルギーで、転んでもすぐ起き上がってまた走り出す、あの無鉄砲な真っ直ぐさは、それだけで誰かを救える強さだから」

「……正直にいうと、君にそれだけ想われてるアライさんにはちょっと嫉妬するよ。だけど、君に無いものを持ってるアライさんが、きっと君には必要なんだってこともわかってる。……だから臆病な僕は何も言えないんだ」

「園長さんは臆病なんかじゃないよ。あのときの園長さんの決断があったからこそ、いま私たちはここでこうしていることができてる。だから、園長さんが何かを言わないでいるなら、それはきっと優しさなんだよ」

本当に優しいのは彼女の方だ。それくらい、僕だってわかっている。

「私はアライさんみたいにはなれないけど、それでも、こうやって暗闇を優しく照らす光の一つになりたいと思ってる」

「君は優しいね。何も言わないずるい僕を受け入れてくれる」

「静かな夜には、何も言わなくても伝わることだってあるからねー」

しばらく無言のまま、二人で並んでホタルを眺めるだけの時間が流れる。

何も言わなくても伝わることもあるだろう。けれど、言葉にすることに意味があるものだってあるはずだ。だから、そっと一歩だけ前へ。

「ホタルが綺麗ですね」

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