さよなら、初恋。~ふたりの彼と揺れる恋心~

谷地雪@第三回ひなた短編文学賞【大賞】

第1話 初恋

 あの夏の日。

 青い空の下、白いユニフォームの球児たちが駆け回る中で。

 わたしの目を奪ったのは、マウンド上のピッチャーでも、皆の注目するバッターでもなく。

 どっしりと構えた、顔も見えないような、キャッチャーだった。


 あれが、きっとわたしの初恋。



 ☆



香夏子かなこー!」

眞希まきちゃん」


 教室の窓際に座るわたしの背中に、明るい声とともに飛びついてきたのは、クラスメイトの眞希ちゃんだった。

 眞希ちゃんは、わたしの見ていた先に視線をやって、苦笑した。


「また野球部見てたの?」

「……うん」

「てーか時嶋ときしまを見てたのか」

「ま、眞希ちゃんっ!」


 口を塞ぐ仕草をするわたしに笑いながら、眞希ちゃんが前の席に腰掛ける。

 時嶋くんとは、浮風うきかぜ高校野球部のキャッチャーだ。

 そして、わたしの好きな人。


「もー。そんなに気になるなら、マネージャーでもやればいいのに。香夏子帰宅部じゃん」

「無理だよ。野球なんて、全然わかんないもん。マネージャーなんかなったって、役に立てないし」

「運動部は雑用くさるほどあるし、野球わかんなくても役に立てると思うけどねー」


 グラウンドを眺めていた眞希ちゃんが、ついと目を細めた。


「それにしても、残念だったね。甲子園」

「……うん」


 わたしが時嶋くんを見つけたのは、夏の大会だった。

 中学からの友達であるみっちゃんが野球部のマネージャーをしていて、「応援にきて!」と頼まれたから行っただけ。

 去年まで浮風高校の野球部はほとんど同好会のようになっていて、本格的に野球部として活動しだしたのは、今年の1年生が入ってから。元いた部員は同好会に移り、結果野球部には1年生しかいない。

 そのため、他校にはいる応援団や、試合に来てくれるファンというのがいないのだ。

 だから少しでも声援を増やしてほしいと、応援要員として呼ばれた。

 正直最初は乗り気じゃなかった。

 暑いし、焼けるし、なんでこんな日にと思わないでもなかった。

 けれどわたしは、そこで太陽よりも眩しい存在に出会った。


 誰もが汗だくになる中、一番暑いだろう防具を身につけて。

 それでも声を張り上げて、仲間たちに声をかけて。

 マウンド上で不安な顔をしていたピッチャーは、彼に肩を叩かれて、笑顔を取り戻していた。

 1年生とは思えないその頼もしい姿に、低い声に、広い背中に、なんだか胸がどきどきして。

 極めつけは、スリーアウト、バッターの三振で勝利が確定した時。マスクを外した直後の、笑顔。

 それまでのしっかりしたイメージとのギャップに、私は急に視界がちかちかした。

 ――ああ、これが、恋に落ちるということか。

 理屈はいらなかった。一瞬で世界の色が変わり、視界に彼だけが映り、もうそこから抜け出せないと悟った。

 私は、その時のキャッチャーに。

 時嶋清隆きよたかくんに、人生で初めての恋をした。


 1年生しかいないにしてはよく頑張って、県大会は3回戦まで進んだ。でも、そこで敗退。甲子園には行けなかった。

 わたしも全力で応援していたから、悔しかった。選手はもっと悔しかっただろう。

 それでもちゃんと応援席に挨拶をしにきて、偉いと思った。

 時嶋くんは他の選手ほど悔しさをあらわにはしていなかったけど、手を強く握りしめていたのが印象的だった。


 あとでみっちゃんから聞いた話によると、時嶋くんは主将らしい。どうりで、一番しっかりしてると思った。立場上、悔しさを思い切り吐き出すこともできなかったんだろう。

 クラスは隣の3組だった。わたしは2組。同じクラスだったら、もっと早く出会えていたのに。

 ちなみにみっちゃんも3組。いいなあ、という言葉を、わたしは飲み込んだ。

 特に接点もないので、わたしはこうして、野球部の練習を眺めているだけ。

 こんなんじゃ近づけないって、わかってるけど。どうしたらいいのか、わからない。



 ☆



 夏休みも目前。

 教室の大掃除を終えてゴミ捨てに来ると、そこには先客がいた。


「……あ」


 思わず声を漏らしてしまった。慌てて口を塞ごうとするけど、両手はゴミ袋で塞がっていた。

 わたしの声に気づいて、先客の時嶋くんは、こちらに視線を向けた。

 目が合った瞬間、顔が熱を持って、隠したいのに隠せなくてわたしは少し俯いた。

 どうしよ、感じ悪い。挨拶くらい、すぐすれば良かった。

 泣きそうになっていると、低い声が届いた。


「それ、貸して」

「……え?」

「積むから」


 そう言って、時嶋くんはおろおろしているわたしの手からゴミ袋を取って、ゴミ捨て場に積んだ。


「あ、ありがとう」

「ん」


 普段はあまり喋らない方なんだろうか。言葉数の少ない時嶋くんに、何か会話を、と思っていると。


「宮崎さん……だっけ」

「っはい!」


 うそ、時嶋くん、わたしのこと知ってる!?

 それだけのことに、胸がいっぱいになった。


「試合、来てくれてたよな。応援、ありがと」

「え、う、うん!」


 見ててくれた。気づいてくれた。わたしの応援、聞こえてたんだ。

 嬉しい。嬉しい。嬉しい!

 舞い上がってしまったわたしは、次になんて言ったらいいか、すぐにはわからなかった。

 だって、試合は負けちゃったから。残念だったね、とか、わたしが言っていいことなのかわからなくて。

 気が利く言葉は思いつかなくて、結局、わたしの感想だけ言葉にした。


「えと……みっちゃんに、誘ってもらって。野球の試合って初めて見たんだけど、みんなすごく頑張ってて、なんていうか、わたしもどきどきして、楽しかった」

「みっちゃん?」

「あ、マネージャーの」

「ああ、谷山」


 時嶋くんは下の名前を知らなかったのか、ぴんとこないようだったけど、マネージャーと言ったらすぐ伝わった。野球部には、マネージャーが1人しかいないから。

 それがわたしの友人、谷山たにやま美智みちである。

 みっちゃんはすごい。1人で、野球部を支えている。

 わたしは、応援くらいしか、できないから。


「せっかく来てくれたのに、かっこ悪いとこ見せちまったな」

「そんなことないよ!」


 強めの否定に、時嶋くんがびっくりしていた。

 でも興奮状態だったわたしは、勢いのまま続けてしまった。


「わたし、野球のことは全然わかんないけど。時嶋くん、すっごくすっごくかっこ良かったよ!!」


 ぐっと拳を握って力説して、はっとした。

 しまった、こんなの、ほとんど告白みたいなものでは!?


「あの、時嶋くんだけじゃなくて、野球部の人たちみんな! みんな、全力で、すごくかっこ良かったなって!」


 慌てて目をぐるぐるさせながら言い訳するわたしに、時嶋くんはぽかんとしたあと、堪えきれないように吹き出した。


「っはは、ありがと」


(――あ。眩しい)


 時嶋くんが笑った途端、心臓がぎゅっと掴まれたようだった。

 嫌じゃないけど、なんか、苦しい。

 なのにもっと見てたくて、ずっと笑っててほしくて、目が離せない。

 きらきらと輝いて、それだけで世界中の何よりも尊いものに思えた。


「甲子園には出られなかったけど、秋にはまた大会あるから。良かったら応援きてよ」

「う、うん! 絶対行く!」


 わたしの返事に時嶋くんはまた笑って、手を上げて教室に戻っていった。

 隣のクラスだけど、さすがに女子と2人で戻るのは照れくさかったんだろうか。わたしの方もいっぱいいっぱいだったから、助かった。

 胸に手を当てて、大きく息を吐く。

 まだどきどきしている。

 ほんの少し会話をしただけなのに、こんなに嬉しくなるなんて。

 恋ってすごい。


「……夏休み、早く終わんないかな」


 まだ始まってもいないのに、そんなことをぼやいてしまう。

 だって、野球部じゃないわたしが、夏休み中練習を見に行くのは変だ。

 2学期が始まるまで、時嶋くんには会えない。

 それが、遠い遠い日のように思えた。

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