第12話 帰化申請

 今日は朝の1コマ目が教養の哲学の授業、2コマ目は空きだった。この貴重な空きコマを利用して、食堂で数学の勉強をするつもりだった。

 

 ヴァルトラントの女学校では、算術は得意な方だった。女子大の入学試験もとくに難しくは感じなかったのだが、入学したら驚いた。ノルトラント出身者の学力の高さにである。しばらく通っていて、その原因に気がついた。彼女たちはノルトラントの女学校で大聖女様たちに鍛えに鍛えられていた。今になってわかるのは、大聖女様たちは将来の学問の仲間をつくるため前々から準備を始めていたことである。当然要求するレベルは高いし、入学者たちはその期待に応えてきた者たちなのだ。今であっても必死に勉強しないとまったく追いついていけない。


 だいたい、2乗したらマイナス1になる数って、何なのだ?

 もう慣れたけど。


 大聖女様の授業は、理路整然としているのだが基本難しい。最近その原因がわかってきた。それは、同じことは二度言わないからである。集中し続けないと全くわからなくなる。そのことは大聖女様も気づいているらしく、授業では最後に問題を解く時間があり、大聖女様やフローラさん、ヘレンさん、ネリスさんが学生たちの間を巡っていく。引っかかっているところをその場や黒板で説明してくれ、なんとかわからないまま授業が終わることがないよう工夫されていた。

 怖いのは、わかったと思って安心して次の授業に出るとその授業の内容についていけないことがあることだ。きちんと復習して問題の演習をしておかないとうまくいかない。わかったと思ったのは、説明に納得しただけであってその内容を理解してかつ使えるようにはなっていないのだ。だからきちんと復習して、自分でその内容を導出できるようにしておかないと次につながらない。


 そういうわけで、私はヴァルトラント出身者であり同じ理学部の所属のシルヴィー嬢と食堂で勉強するのだ。

「殿下、大変申し訳無いのですが、ここの定理の証明がよくわからないのですが」

 食堂で着席すると、さっそくシルヴィー嬢は質問してきた。彼女はヴァルトラントの中堅貴族の娘で、正直なところヴァルトラントではあまり接触がなかった。中堅とは家柄のことであり、領地経営に苦労していて、経済的には正直なところ没落しつつある家であった。それもあってか女学校では勉学に専念しており、成績上位者としてよく表彰されていた。

 そんなシルヴィー嬢だが、ノルトラントでは私に積極的に話しかけてきた。面白かったのはそのときの彼女の言葉だった。家の没落を防ぐため、なにがなんでも私の学友になるようご両親から言い含められてきたというのだ。恥ずかしそうに顔を赤らめながらそう言う彼女を私は憎めなかった。ヴァルトラントから理学部に来ているのは私と彼女の二人だけであったし、率直な彼女の人柄が気持ちよくて、いつの間にか普通の友達になっていた。身分の差は言葉遣いにだけ存在し、彼女は言いたいことは遠慮なく言ってくれる。彼女の質問の内容は、ちょうど私も少し疑問に思っていたところだから、私がシルヴィー嬢に教えると言うよりは二人で考えることになった。


 ひとしきり二人であーでもないこーでもないとやっていたら、

「オクタヴィア姫殿下、ちょっとよろしいでしょうか」

と声をかけられた。顔を上げると帝国からの留学生カトリーヌ嬢だった。彼女といつも一緒にいる帝国出身の学生3人も居る。

「あら、カトリーヌ嬢、こんにちは」

「突然失礼いたします。殿下はご帰国なされていたのですよね」

「ええ、よくご存知ですね」

「はは、知らないものなど居ないですよ」

「そうですか、それはそうかもしれませんね」

「あの、ご帰国はヴァルトラント国王陛下のご要請ですよね、殿下」

「ええ、そうですね」

「失礼ながら、どういったお話でしたのでしょう」

 私は横にいるシルヴィー嬢に袖を引っ張られた。気をつけろ、という意味なのはわかる。だから彼女にニッコリと微笑んで、差し障りのない範囲で話をすることにした。

「国境が封鎖されていたでしょう、だから取り急ぎ、ノルトラントの状況について早急に知りたかったみたいです」

「それだけでしたか、殿下」

 私はぐっとつまりなりそうになるのをこらえて、

「それとですね、素敵な男性を捕まえてこいと、厳命されました」

と冗談めかして伝えた。すると私の気持ちはカトリーヌ嬢には伝わったようで、

「それは無理難題ですね」

と笑ってくれた。

「そうなんです、ここは女子大、隣は女性の騎士団、若い男性は大聖女様のお仲間だけですからみな既婚ですしね」

「あら、オクタヴィア姫殿下は聖女様を『大聖女様』とお呼びになるのですね」

 私は失言しかけたらしい。

「ええ、ご存知の通りヴァルトラントの聖女位は空位のままなんです。ヴァルトラント国王はアン大聖女様にヴァルトラント聖女を兼任してほしいと熱望しているのです」

「それは素晴らしいですね。殿下がノルトラントの貴族とご結婚され、聖女様もお迎えするとなると、ヴァルトラントとノルトラントは友好国となるわけですね」

「そうですね、ヴァルトラントは帝国とも友好関係を継続していきたいと考えておりますよ」

 私としては父の本当の考えをこんなところで明らかにするわけにはいかない。ところがカトリーヌ嬢はごまかされてくれなかった。

「いえいえ、これを機にお国はノルトラントと同盟関係を結ぶとよろしいのではないでしょうか」

「なにを仰るのですかカトリーヌ様、我が国と帝国は前々から同盟国ではないですか」

 するとカトリーヌ嬢は声を潜めて言った。

「私個人といたしましては、聖女様の御身を傷つけようとする帝国にはほとほと愛想が尽きました。私が帰化申請をしたこと、ご存知でしょう、殿下」

「存じておりますが、却下となったのでしょう」

「まあそうですが、ゆくゆくは、と考えております」

 どうもカトリーヌ嬢は、本当に帝国を見限ったような気がしてきた。

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