盟友
しおづけ
盟友 上
ふむ。どうやら俺は死んだらしい。
そう判断するに至った論拠にはいくつかあるが、いちばんは、目を開いた瞬間に視界に飛び込んできたのが終わりのない青空でも鈍く輝く月夜でもなく、ま白く狭い天井であったというのが大きい。違和感を覚えて素早く3度ほどのわずかな角度で身を起こし、暑くも寒くもないこと、ほぼなんの音も匂いもしないこと、背中に当たる柔らかな感触、などを確認して、ほな死んだんか。と納得して全身から力を抜き、柔らかい極上の布になけなしの全体重をかける。途端に胸の奥から何かが込み上げてきて、指のひとつも動かせなくなってしまった。もう二度と動ける気がしない。怖い。なのに、もう永遠にこのままでもいいやと思っている俺がいる。体から力を抜くというのがここまで気持ちがいいと思わなかった。というか本当に、ほんっとに背中の布が柔らかい。こんなことってあっていいの? 寝ッ転がってるのにそんな感じが全くしない。俺の体、何ミリか浮いてるんじゃないのこれ。この布、さては天女の羽衣だろ。ということはここはやはり天国か。
それにしても、俺のような奴でも天国というものには行けるのか。どうやらあの世は資本主義ではないらしいな。貧富の差とかいうものに人生を根こそぎ奪われちまった俺みたいな奴からすると有難い。天国とは全ての者が幸せになれる場所なんだろ? ……多分。なんだ、その……、雰囲気的に。ということは、こんな一銭の金も持っていないガキでもカミサマは天国に受け入れてくださるということだ。実に有難い! ァ、でもどうしよう。俺、生きてる間に一回だってカミサマ信じたことないな。だっているわけないですし……。でもやっぱ天国に来たからには、カミサマのこと信じてないといけなかったりするんじゃないだろうか? 天国というのが宗教的概念であることは流石に俺でも知っている。信じてなきゃ怒られるだろうか。それはちょっと困っちまうな〜怒られた後って全身熱いし。痛いし。うまく息出来ないし。頭も働かないし。ましてやカミサマに怒られるなんてどうなるんだろうか。正直なところ絶対に御免被りたい。なんてことを考えているこんな不敬な奴はカミサマの前に引ッ立てられて衆人環視の中、介錯なしで腹を十字に切らされるって誰かから聞きました。もしかしなくても死ぬなぁそれ。ところがどっこい! もうとっくにくたばってんだなァ〜、ハッハハハ。……なにわろてんねん。
至極どうでもいいことを管巻いていると白い視界が突然遮られた。人の顔のような何かが視界にドアップで映し出されてなにごとかを喋っているということまでは辛うじて分かったが、それが誰なのかが分からない。ほんとに誰だ。カミサマか? あ、まさか本当に腹を切らされる感じ? ぼんやりとしていた視覚と聴覚がはっきりしてくる。その声は、我が盟友ではないか? なんだ。走馬灯上映会か? にしてはやけにリアルな……
「あ……、生きてる……! よかった、おい、大丈夫か……!?」
……果たしてこれは本当に走馬灯か? 盟友のこんなセリフは聴いたことがない。俺は記憶力だけは無駄にいいので間違いない。というか、今なんつった? 生きてる? 誰が? お前? しかし、こいつはやけにこちらの顔をまっすぐに見つめて生きてるだとかなんとかぶっぱなした気がするが。えっと……、もしかして俺か? 俺生きてんの? ここって天国じゃなかったりするのか? いやいや盟友、ご冗談を……ここは天国だぜ? これで俺がほんとのほんとに生きてるんだったらもう立ち直れる気がしないんだが。だって生きてるって……つまり、生きてるわけだろ。やべ、なんかどこぞの偉い人みたいなこと言ってる。うん、だから、その……何? この身を包む柔らかな布が、間違いなく人間の世にも存在しているということでよろしいか? 嘘つけよ。これって伝説に出てくる天女の羽衣みたいなもんじゃねぇの? こんなんこの世にあるわけないやん。それに生きてるなら、また、あのボロアパートに戻んなきゃなんねぇってことでは? やっと死ねたと思ったってのに。嘘つけよ盟友。頼むから嘘だと言ってよ盟友。しかし、盟友が俺に嘘をついたことなど一度だってなかった。だからこそ盟友は盟友であったというのに、その事実がこんなに……絶望? なんというのかは分からないが、体の奥の何かが真っ黒く塗り潰されるような、こんな、叫び出したくなるようないやな感覚をもたらすだなんて。思ってもみなかったなァ〜……やんなっちゃう。はーあ。てか帰ったら俺どうなるんだろ。時間通りに帰らなかったからまた怒られるな。願わくばそのときは出来るだけ、体が変なふうにならなきゃいい。腕や足が折れ曲がって変形したりするのだけはなしでお願いしたい。あれは生活するのに不便だ。顔とかならいくらでも形変わっていいからさ。
「だい、じょ、……ゴホッ、げほ……だーいじょうぶだいじょーぶ。ほぅらこんなに元気。有り余ってるよ元気。元気100倍……、…………なんだっけ?」
この天女の羽衣が、世間知らずの俺が知らなかっただけで別に天上のものでもなんでもなかった、という絶望的事実についてはもう仕方がないのでとりあえずかみ砕かずに一旦そのまま無理やり呑み込んで、まずは盟友にいつもの通りのキュートな笑顔を返す。ほーらいつもの元気な俺だよ。だからそのぐっしゃぐしゃの顔やめれるかな、盟友。俺、そんな顔のやつと友達だと思われたくな……いや、嘘。嘘だよ。どんな顔してたって、お前がお前である限り、お前は俺の盟友に違いはないよ。酷い事言いそうになってごめんな。生まれついての善人で正直者で真っ直ぐな人間である盟友と違い、俺は性根の曲がった奴なのですぐに嘘を吐いちまう。これは非常に良くない癖だ。ちっちゃいころに散々、嘘吐き嘘つきうそつきうそつきと罵られたにもかかわらず。俺も懲りないね。
「嘘つけよ。そんな傷で大丈夫なわけないでしょうが。水持ってくるから待ってて……、ん」
また嘘つきと言われてしまった。それがなんだか嫌で、俺もせめて盟友の前でくらいは、お前のように嘘を吐かない真っ直ぐな人間みたいになってみたい、と思ったから、寝台を離れようとする盟友の裾を咄嗟に掴んで引き止めた。
引き止めたはいいものの、言葉が出てこない。何言おうとしたんだっけ。考える程に、言いたかった言葉はほどけていってしまう。
「何、どうしたの」
さっきの酷い顔は何だったんだってくらい優しくやわらかに、盟友は俺に向かって笑いかけてくれる。それを見てなんだか喉のあたりで何か暴れまわって、果てにはもうすべてが心底ど~~~でもよくなってしまった。こいつの顔を見るとだいたいいつもそうなってる気がする。ぐるぐるぐるぐると考えていた言いたかったことが全部、それはもうぜ~んぶが、トんでいっちゃう。麻薬かよ。そういえば、幸いにしてヤクはキメたことがない。よかった。俺は多分、法律を破ったことがないのだ。つまりまだ、俺には真人間になる道が辛うじて残されているということだ。俺はいつか真っ当な人間になりたい。お前のような、正直で背筋の伸びた、真っ当な人間に。
たくさんの考えが並行して、錯綜して、絡まり合って、ほどけて。そうして、その全てが俺の口から出ることはなく、すり抜けていってしまう。
「なんでもないよ、ごめん。水ちょーだい」
そして盟友が出て行ってしまってから、ほどけてしまったはずの言いたかったこと全部が、実は全然どうでもよくはなくて、まだ飛んでいかずにここに確かにあることに気が付くのだ。嘘だよ。やっぱり大丈夫じゃないかも。そう言うことができたなら、少なくともお前に嘘吐きとは呼ばれないのになぁ。そういえば幼少のみぎり、俺は弱冠4歳にして、オオカミ少年という渾名を周囲の人間たちから賜っている。その渾名が嘘つきという意味なのだと教えてくれたのも確か盟友だった。話は逸れるが、もう俺も最早少年とか名乗れる年齢じゃなくなっちまったよな。少年っていつまで名乗っていいの? 少年法が適用される限りは少年? 少年法って何歳まで適用? どうでもいいや。だって俺もう自分の年齢わかんないし。……笑えよ。今のジョークだぞ。笑うとこだぞ。当然笑ってくれる人などどこにもおらず、しゃーないので俺が自分で笑ってみる。ガハハ。はー、虚しッ。
とか言うてる間に盟友がグラス一杯に入った水を持って戻ってきていた。え、ちょっと待って。そんな量の水一気に飲んだことないよ俺。たぶん飲めないよ俺。なんか別に一口で良かった。舐めるくらいの量あれば十分なんだけどな、水って。盟友は一切何の声も発さずにずかずかと俺の目の前に立って問答無用とばかり、俺の口元にグラスを突きつけた。大量の水が勢いよく口の中に入り込んでくる。何? なんか怒ってる? よく見たら険しい顔して……うわ、水……、うま。水って透明なら味なんて然程変わらないと思ってたが全然そんなことないんだね。喉がごきゅごきゅ鳴ってる。一口でいいと思ってたのに嚥下が止まらない。水ってこんなにうまいんだ。知らなかったなぁ。永遠に知らなくてもよかったかもしれない。気付いたら透明でおいしい水はもう半分しか残っていなくて、一気に飲むのがもったいなくなってグラスの縁から口を離そうとしたが、盟友はそれに目ざとく気が付いて俺の頭の後ろに手を当てた。あったかい。何がなんでも最後の一滴まで飲み切らせるつもりである。恐ろしい執念だなぁ。お前そんな奴だっけ。まぁいいや。どんな姿でも盟友が生き生きしてる姿を見てるとちょっと気分が良くなる気がする。一滴残さず飲み終わったところでやっと盟友は俺の首元から手を離したが、どこからか水と氷がたっぷり入った大きな透明の入れ物(あとで聞いたところによるとピッチャーというらしい)を取り出して空になったグラスにとくとくとく、と音を立てて注いだ。あ、やばい。2杯目も飲まされるらしい。水に致死量ってあるっけ? 分かんね。でも水2杯って致死量じゃない? 腸から食道まで全部たぷたぷに水で埋め尽くされてしまうのでは。大丈夫かな。まぁ大丈夫か。盟友は俺よりもたくさん物を知っているのできっと水の致死量も知っているんだろう。
そうして2杯目もまんまと水を飲まされてしまった。どうやら致死量には届かなかったようで、俺はピンピンしている。2杯目ともなると盟友は最初から俺の後頭部を引っ掴んでグラスから口を絶対に離させようとしなかった。勢いで何回か前歯とグラスがガチン、と音を立てていた気がする。
「ぅぷ、は、はー、は……」
また水が一滴も無くなったところでようやく盟友の気は済んだようで、なんとか息をついた。
「お前さ」
ぁ、うわびっっっっっ……くりした。唐突に喋り出すなよ。もっとなんか……ゆっくりゆったり喋って。……え、なに、ほんとに怒ってる?
「お前、さぁ」
「うん」
「マジでヤバくなったら俺んとこに来いってさ、言ったじゃん……」
うん。確かにそうだな。言われた気がするな。今この瞬間まですっかり忘れてたけど。やっぱこういうとこが、俺はダメなんだろうな。
「なんで来ねぇの、なに自分ちの前で倒れてんの、かったいアスファルトの上でさぁ、」
「しかも日向で、こんなにあっついのにさ」
「俺に頼れよ、ずっとひとりでいるなよ……」
ひとこと言うたびに盟友は、さっき俺が水2杯分を空にしたグラスをちっちゃな机に叩きつける。ガン、ガン、ガチャ、という音に思わず顔をしかめてしまったが、盟友はたぶん今、気持ちがしっちゃかめっちゃかになっているんだろう。人間がそういう音を出すのはたいていそういうときなんだと俺はよく知っていたから、何も言わないでいることにした。盟友はどうせすぐに落ち着いてやめてくれるだろうから。
「勝手に死ぬんじゃねぇよ、俺のいないところで、今も、これからも……!」
あ、泣いてる。まずい。これ俺が泣かせてる、のか? そっか。よくわからないけど、俺が悪いのか。ごめん。俺が悪いときはごめんって言わなきゃダメだって教えてくれたのも盟友だった気もする。いや、違う気もする。どうだったっけ? もうなんにもわからない。
「ごめんね」
しかし盟友は一向に泣くのをやめない。ということはこれは謝ってもだめだ。そういうときは静かにしているに限る。俺はできるだけ息を殺した。心臓がどくどく言っている。これ聞こえてないよな? 怖。盟友はまだ泣き止まない。はやく泣き止んでくれ。笑ってくれよ、盟友。お前の笑ってる顔が、俺のちっちゃな世界のなかで一番綺麗なんだからさ。
盟友の手が俺の両肩に置かれた。びっくりして肩が跳ねそうになったが耐えた。危ね。そっと顔を上げると、盟友は俺の座っているふわふわふかふかな寝台に乗り上げていた。盟友はまだ少し泣いていたが、そのままそっと俺の背中の方に腕をまわした。ふわ、と、えーと……これ、何? なんの時間なの? この体勢は……なんだろう。抱きしめる、というのが、俺が知っている言葉のなかではいちばん適切だろうか。痛くも、熱くも、苦しくも、ない。ただやわらかに少しだけ、肌が接触している。胸の中に足りなかった何かが、ぴったりとはまったような心地がした。そこで初めて俺は、その部分が今までずっと空っぽであったことに気がついたのだ。
……こんなのぜんぜん、気付かなくてよかったのにな〜〜! ほんっと……、こんな心地良さを知ってしまったら。熱いのも痛いのも苦しいのも、俺はずっと嫌だったんだって分かってしまったら。もう俺は二度と元には戻れない。そういう確信めいたものがあった。うー、うー、と嗚咽する盟友の息を肩口で感じながら、俺も盟友の背中にすがりついて、肩に顔を埋めて、帰りたくない、と、嘘ではない俺の言葉を、呟いていた。
「帰らなくていいよ」
俺の肩で盟友は言った。
「ずっと一緒にここでふたりで暮らそうぜ。うち、金は腐るほどあるけど、親はぜんぜん帰ってこないからさ。なぁ、そうしよう、」
そうすれば、お前が死ぬとこなんか見ないで済む。盟友はそう言ってまた、ぼろぼろと俺の肩に雨を降らせた。そんないつもの俺なら絶対に頷かないだろうという申し出に、うん、とだけ返した。
お前と離れること以外の何もかも全てが、もう怖くなかったから。
盟友 しおづけ @umi_sousaku
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