第11話 街の現実

 気づけば部屋は薄暗くなっていた。

 「……寝すぎたな」

 昼過ぎに宿へ戻ってベッドに横になったはずが、すっかり夕方になっていた。新人狩りを追い払った疲れが思っていた以上に溜まっていたらしい。


 ルナは足元で丸まっていた体を伸ばし、大きくあくびをする。

 「買い物くらいはしておかないとな」

 声をかけると、ルナは耳をぴくりと動かし、尻尾を揺らして立ち上がった。



 外に出ると、夕暮れの街は昼間とは違う活気に包まれていた。

 市場に向かう通りは人通りが多く、露店からは肉を焼く匂いや香辛料の刺激的な香りが漂ってくる。

 道端では子供が走り回り、荷車を引く商人が大声で値段を叫んでいた。


 賑やかではある。けれど、俺にはどこか落ち着かない雰囲気に感じられた。

 視線がやたらと刺さる。黒髪で、子狼を連れて歩く俺は目立つのだろう。

 ちらちらと囁き声が耳に入る。

 「……あれが噂の」

 「神獣に寄生してる黒髪か」


 足を止めそうになったが、肩をすくめて歩き続ける。いちいち相手にしていても仕方がない。



 その時、路地裏から怒鳴り声が響いた。

 「だから払えって言ってんだ!」

 覗き込むと、三人の冒険者風の男たちが商人らしき人物を壁際に追い詰めている。

 腰の袋を奪おうとしているのは一目で分かった。

 商人は必死に首を振るが、剣の柄で小突かれて呻き声をあげていた。

 周囲の人間はちらりと見るだけで、誰も止めようとはしない。


 別の路地では、若い冒険者が数人に囲まれ、地面に叩きつけられていた。

 「新人が調子に乗ってんじゃねぇ!」

 拳が振り下ろされるたび、殴られた青年の呻き声が響く。

 殴っている連中は笑っていた。


 ……胸の奥が冷たくなる。

 「……日本じゃあり得ない。通報すれば済む世界じゃない、ってことか」

 思わず口の中で呟いていた。


 ルナが足元に擦り寄り、不安そうに小さく鳴く。

 「……大丈夫だ。行こう」

 頭を撫で、視線を逸らして通りを抜けた。


 市場に近づくにつれて、声と匂いの濃さが増していく。

 だが耳に残っていたのは、先ほど聞いた呻き声と、路地裏の笑い声だった。



 市場の広場に足を踏み入れると、夕暮れの光が赤く屋台を染めていた。

 香辛料を扱う露店の前では、赤や黄色の粉袋が山積みにされている。干した魚を吊るした屋台からは強烈な匂いが漂い、客が値切り交渉で声を張り上げていた。


 俺は手持ちの銀貨を数え、必要なものを順に買っていく。

 干し肉と黒パン。そしてチーズ。

 調味料は塩と胡椒の小瓶、それに乾燥ハーブと赤い粉。商人が「肉料理がぐっと引き締まる」と力説していた酢の小瓶も買った。

 日用品として、安物の木椀も一つ。


 「毎度あり!」

 商人は陽気に笑う。

 だが、周囲の客からちらちらと視線が向けられているのは感じていた。

 「……あれが黒髪の……」

 「神獣連れ……」

 囁き声が耳に届くが、俺は聞こえないふりをして袋をまとめた。



 買い物を終えた足で、俺はギルドへ向かった。

 夕暮れの建物は明かりが灯り、依頼掲示板の前には人だかりができている。

 扉をくぐった瞬間、いくつもの視線がこちらに突き刺さった。

 「寄生野郎がまだ生きてやがる」

 「神獣頼りで稼げるなら楽なもんだ」

 ひそひそ声と嘲り笑いが耳をかすめる。


 俺は肩をすくめ、何も言わず掲示板へ歩いた。視線の重さを、ただ背中で受け流す。



 「……街の生活には慣れましたか?」

 低く落ち着いた声に振り向くと、支部長アルヴェンが立っていた。

 金の髪を背に流し、相変わらず涼しげな目をしている。


 「まあ……それなりに」

 そう答えながらも、声には疲れが滲んでしまった。


 アルヴェンは俺をしばし見つめ、やわらかく口元を緩めた。

 「……もし悩むことがあれば、話くらいは聞きますよ」

 思いがけない言葉に、少しだけ胸の奥が和らぐ。

 「……考えておきます」

 視線を逸らしながらそう返すと、アルヴェンは静かに頷いた。

 「焦らずに」

 その一言を残して、彼は去っていった。



 宿に戻り、買った物を整理した後、窓を開けた。

 夜の帳が降り始め、街には灯火が揺れている。

 「ここは日本じゃない。……本当にそうなんだな」

 思わず口の中で呟く。


 ルナが隣に座り、尻尾を揺らした。

 その温もりに触れながら、俺はこの街の現実を静かに噛みしめた。

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