黒髪の青年、神獣と歩む異世界記

快眠豆

第一話 コンビニ帰りは異世界行き

 夜風が蒸し暑くて、Tシャツの背中にじんわりと汗が張りついていた。

 大学の帰りに寄ったコンビニで、唐揚げとペットボトルのお茶を買って、手にはそのビニール袋。俺にとっては何てことない日常の帰り道――の、はずだった。


 ふと足元がふわりと揺れたかと思った瞬間、世界が白く弾けた。

 「……え?」

 視界が真っ白になり、次に瞼を開けたとき、そこはアスファルトではなかった。


 ざわ……ざわ……と、木々の揺れる音。

 見渡せば、背の高い樹木が夜空を覆い隠し、わずかな月光だけが降りてきている。

 土の匂い、湿った草の感触。足元を確かめると、どう考えても見知らぬ森の中だった。


 「……いやいや、待て待て」

 俺はとりあえず声に出して自分を落ち着かせる。

 スマホを取り出してみるが、画面の表示は「圏外」。当然だ。

 残されたのはTシャツに長パンツ、スニーカー。それと、右手にぶら下げたコンビニ袋だけ。


 ――これは、いわゆる異世界転移ってやつか?

 漫画やラノベなら山ほど読んだが、まさか自分が体験する日が来るとは思わなかった。


 俺は袋の中を確認する。

 唐揚げ棒、ペットボトルのお茶。あと割り箸。……これが、俺の初期装備らしい。

 「なんて心もとない勇者装備だよ」

 思わず苦笑いが漏れる。


 とりあえず座り込んで現状を整理していると――。

 がさり、と茂みが揺れた。

 心臓が跳ねる。熊か? いや、この世界ならもっとヤバいやつかもしれない。


 茂みから出てきたのは――小さな影。

 月光に照らされ、丸い耳とふさふさの尻尾が揺れる。


 「……犬?」

 思わず声が漏れる。

 小さな子犬だった。けれどよく見ると、犬というより狼に近い。耳が鋭く、瞳が金色に光っている。


 子犬は俺を見上げると、くん、と鼻を鳴らし、ちょこちょこと近づいてきた。

 「お、おい……。食べ物狙いか?」

 俺は唐揚げの袋を見下ろす。

 試しにひとつ取り出して、手のひらにのせて差し出すと――。


 ぱくっ。

 ためらいなく食いついた。尻尾をぶんぶん振りながら、夢中で唐揚げをかじっている。


 「……うまいか?」

 もちろん返事はない。だが、金色の瞳は明らかに輝いていた。


 その後も子犬は俺の膝に前足をかけ、顔をすり寄せてきた。

 温もりと柔らかな毛並みに、胸の奥の緊張が少し解ける。

 気がつけば俺は苦笑しながら頭を撫でていた。


 「まさか異世界初の友達が犬……いや、狼か?」

 じゃれる子犬の体温が、妙に心強く感じられた。



 子犬はすっかり俺に懐いてしまったらしい。

 唐揚げを食べ終えると、名残惜しそうに袋を覗き込み、それから俺の腕をぺろぺろと舐めてきた。

 「……おまえ、ほんとに狼か?」

 撫でれば撫でるほど、尻尾が千切れそうなくらい揺れている。どう見てもただの犬だ。


 だが、ここが異世界である以上、外見で油断するのは危険だ。もしかしたら、後で巨大化して「がおー」なんてこともあるかもしれない。


 「ま、今のとこはただの子犬、だよな」

 そう呟いて笑った瞬間――。


 ずしん、と地面が揺れた。

 空気が変わる。湿った夜気が急に冷え込んだように感じられ、背筋にぞわりと鳥肌が立った。


 子犬の耳がぴん、と立ち、尻尾が止まる。

 小さな体が俺の前に立ちはだかるように動いた。


 「……は?」

 重々しい足音が、森の奥から近づいてくる。


 やがて闇の中から姿を現したのは――。

 漆黒の毛並みに、月明かりを反射する双眸。

 肩だけで俺の背丈を軽く越え、全身は小型バスほどもある。

 「デカい……!」思わず心の声が漏れる。

 森を歩くだけで木々が揺れ、吐息ひとつが熱風のように頬を撫でた。


 間違いない。母狼だ。


 子犬と同じ金色の瞳が、俺を射抜くように睨みつけている。

 口元から漏れる低い唸り声に、全身の筋肉が固まった。


 「……やば」

 喉がからからに乾く。心臓が痛いほど跳ねる。


 子犬は「くぅん」と鳴き、母の前に立ちはだかった。

 俺の方を振り返り、まるで「守る」とでも言うように鼻先を鳴らす。


 「お、おい……おまえ……」

 状況は理解不能だ。子犬が俺を庇っている?

 だが母狼の視線は鋭く、少しでも動けばその牙が俺の喉笛に突き刺さることだろう。


 唐揚げで懐かれたのはいい。だが、それが母親にとっては「子供を餌付けした怪しい人間」に見えている可能性の方が高い。


 どう考えても、これは詰んでいる。


 息を呑み、目を逸らすこともできず、俺はただその巨体を見上げて――。


 「……終わったな」

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