第6話 桃太郎(回答編)
「あら、いらっしゃい。今日もブレンドコーヒーでいいかしら?」
開店早々の誰もいない店内に、柔らかな物腰でマスターは俺たちを迎えてくれた。
「いえ、今日はマスターにお話を聞いて頂きたくて伺いましたわ」
「まあ、何かしら?」
不敵に笑む麗しの乙女に、女は柔和に応じるのだった。
「以前、彼の眼についてお話しました時に、マスターはご自身が桃太郎を育てられたことを肯定されましたね。そこでお聞きしたいのですが、桃太郎は悪さをする鬼を退治した、これは合っていますか? 今私たちが知っている童話桃太郎のように」
「ええ、そうよ。不思議なことは無いでしょう」
「現代にしか生きていない私たちにマスターの言葉の真偽は確かめられません。ですが、現代にも残る情報について調べることは出来ます。何といっても昔から語られている桃太郎の関係者がいるのです、いろいろと調べて想像を巡らせたくなるのは人の性というもの」
「あら、勉強熱心ねぇ」
「私たちが集めた情報を組み立ててみたところ、童話桃太郎とは異なるストーリーが現れてきました。ですがこれは単なる想像にしか過ぎません。ご迷惑でなければ、当事者であるあなたに聞いてもらいたいのです」
「ふふ、面白そうねぇ。私たちの話がどのような形になってしまうのかしら?」
マスターは名探偵から挑戦に面白がるように笑みを浮かべたのだった。
「結論から申し上げたいと思います。童話桃太郎は、人間が悪い鬼を討伐する英雄譚ではなく、鬼と人間が恋をした物語だったのではないでしょうか?」
僅かな間だけ凍り付いたようにマスターの表情が固まったのを俺は見逃さなかった。しかし、その面貌はすぐにいつもの優し気な面持ちに戻った。
「うふふふふ、桃太郎が人間と鬼の恋のお話だなんて。随分とロマンチックなことを考えたんですねえ。是非聞かせてくださいな」
麗しの乙女は慇懃に一礼して滔々と語り出す。
「以前あなたは自身が神聖な力が宿る桃を食べて長寿になった人間とおっしゃいました。しかし、私の推論は違います。そうではなく、そもそもあなたが鬼だから長寿なのではないでしょうか?」
「それはまた突飛なお話ですねぇ、なんでそう思うのかしら? それもまた千里眼の少年が見たことなのかしら?」
マスターは表情を崩さずに応じ、俺へと視線を向ける。
「いいえ、これもまた推論に過ぎません。ではまず、桃太郎が鬼退治に向かった目的について整理しましょう。マスターが言うようにその目的は、悪さをする鬼を退治するためだったのでしょうか?
いいえ、これは正解ではないはずです。なぜなら、初期の桃太郎には鬼は悪さをする存在として描かれていませんのでこれは成り立たないはずです。鬼が悪事を働いていたというのは、違う物語の描写が混同されたもので初期の桃太郎には存在しません。その代わりに初期の記述では、鬼の財を得るために鬼ヶ島に向かったことになっています。
では歴史資料の通り、宝を得るために桃太郎は鬼退治に向かったのでしょうか? 記述にあったように、桃太郎が鬼の財宝を持ち帰り村人たちに配ったのはきっとあったことでしょう。桃太郎が財宝欲しさ、つまり鬼退治が強欲さからの凶業だとすると、村人たちに財宝を分配することに違和感が拭えません」
「じゃあ、何なのかしら」
「前提が間違っているのです。宝を奪うことは目的ではなく手段であると考えます。ではその場合はどうでしょうか。財宝を分け与えることで村の中での桃太郎に対する信用や信仰が得られることが考えられます。しかし、それらを得るという目的だとすると強大な鬼を退治するという快挙だけで十分なはずです。わざわざ盗賊まがいな真似をして宝を奪ってくる必要はありません」
「だけど、鬼を退治してさらにその財宝を持って帰ってくる方が、村人たちだって喜ぶんじゃないかしら」
「そうですね、それは否定できません。ですが、ここで再度前提を問い直しましょう。宝を奪うことが目的ではあったが、その目的が桃太郎のものではなく村人たちの目的であった場合はどうでしょうか。私は実のところ、こちらの方が説明がつくと考えています。鬼の宝を欲したのは村人たちで、あくまで桃太郎はその村人たちを率いた存在だったのではないか、と」
悪い鬼を滅するために鬼退治に向かった童話の桃太郎、しかし、麗しの乙女の話はまるで違う。桃太郎こそは、欲に目がくらんだ村人たちを率いて鬼から宝を簒奪した首魁である。そんなことがあり得るのか?
俺の疑問などお構いなしに南風原の語りは続いていく。
「遠い昔、あなたが桃太郎に薬籠を手渡している様子を彼が見たことについてはお話ししましたね。一見、薬を渡して桃太郎やその仲間の身を案じているように思えます。ですがこの薬は今でいうところのモルヒネのような鎮痛剤とドーピング剤の効果を併せ持つものだった。現代でも、このような薬品は負傷した兵士が戦い続けられるように投与されます。薬籠の中の丸薬もそういったものだったのではないでしょうか」
南風原の言わんとすることが徐々に明かされ、俺はごくり、と生唾を吞み込んだ。
「では、村人たちではなく桃太郎自身の目的は何だったのでしょうか?
それを推し量るために、丸薬が桃太郎の目的に必要な手段であったとしてみましょう。財宝に目がくらんだ村人たちを率いて、強大な鬼を討つためには、人間と鬼の差を埋めるためのものが必要です。そう、それがこの丸薬なのではないでしょうか。
例えばですが、この薬自体を使うことが桃太郎の目的であったとしましょう。その場合は、薬の効果を測るための実地テストとして人と鬼を戦わせた、とも考えることができます。しかし、薬の効果を測るためのものだとしたら、その後もこの薬は活用され続けなければなければならないはずです。ですが、今では薬の知識自体も歴史の中に葬られているように、その後用いられ、まして普及したというようなことはありません。そのため、薬を使うこと自体が目的にはなり得ません。では、何なのか?
桃太郎が行ったことの中で残されているものは既に一つしか残されていません。桃太郎の鬼退治の目的はその字義の通り、やはり鬼を打ち滅ぼすことだったのです」
「あらあら、私はもともと悪い鬼を退治するためと言ったわよ?」
一周回って戻ってきてしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。
「考えてみてください。実際に鬼から財宝を奪うことを村人達は思い立ちました。ということは、村人は鬼が具体的にどのような存在で、そして現実的に行ける距離にいることを知っていたということになります。もしかしたら彼らは村の周囲で鬼がうろついているのを見かけた可能性も高いのではないでしょうか?
ですが、村人たちは鬼の存在は把握していても、鬼が人間に襲い掛かってくるものとは認識していなかった。あくまで鬼が悪とされているのは、後世に吉備津彦命の温羅退治が混ざってしまったためです。もし鬼が人間を害していたら、それこそ記述が残っているはず。では鬼が人間を襲うでもなく、わざわざ人里の近くにやってきた理由は何なのか?
そう、鬼は何かを探していたのです」
麗しの乙女はそこで言葉切って女を見据えた。
空気が張り詰め、店内を静寂が支配する。その静止した水面に投げ込まれるのは回答という礫。
「その答えがあなたです。あなたが桃太郎に与えた薬籠は見事なものです。飾り紐にガラス玉がついているのも印象的でした。当時の日本国内ではガラスの製造はまだされておらず、少量の輸入品しかなかったはずです。それを持っていたというのはかなり身分が高かった——もしくは鬼の持ち物であったからではないでしょうか?
鬼は人里の周りに潜んでいたあなたを探しに来ていたのではないでしょうか?
では、なぜそもそも鬼があなたを探す必要があったか。これは想像になってしまいますが、あえて言います。それはあなたが人間ではなく、鬼の中の裏切り者だったからです。あなたは特別な力を宿した桃を食べて不老になったと説明されましたが、こうも考えることが出来ます。あなたはもともと鬼だったので人ならざる不老の力を宿していた。そのために、あなたが産んだ子どもの桃太郎も超常の力の持ち主であった。それを覆い隠すために、表向きは桃から力を得たことにしたのではないでしょうか」
今度こそはっきりと女の表情が変わった。微笑を湛えていた目は見開かれ、瞳の奥に燻る狂気を露わにしていた。
「これから語るのはあくまで私の妄想です。五百年前の室町の世に生きていたあなたは、ある時若い人間の男に恋をし、そして男と共に鬼の世界を見限ってしまった。ですが、鬼たちはそれを許さず、あなた達を探しまわっていた。遂には、愛しい人との生活を穏便に守る手段がなくなり、あなたは息子に村人を扇動させ鬼を討たせる計画を立てた。
愛する人と人間の世界で生きるということは、あくまで人間の常識の中にとどまらなければならなりません。そのため、自身や息子の桃太郎の特異性を覆い隠すことが出来るカバーストーリーを流布し、財宝をだしにして村民たちの目を鬼へと向けたのではないでしょうか。
だから初期の桃太郎の鬼退治の目的は鬼の財宝と記述され、桃太郎のお供には力を持つ黍団子が与えられることになった。そしてお供は後世の吉備津彦命の温羅退治が混ざってしまい、最終的に犬、猿、雉となって現代に伝わってきている。
あなたが先ほど語った桃太郎が鬼退治に向かった理由、『悪さをする鬼を退治するため』は字義通り正しかったのです。なぜなら、あなた達にとって悪さをする鬼を退治するためだったのですから」
女が浮かべた柔らかい微笑み、それが名探偵への回答であった。
童話桃太郎、その歴史の彼方に消えた欠片が集まり、童話の背後に潜んだ狡猾な計画の形を為す。推論に推論を重ねて我が麗しの乙女、南風原群青が語った桃太郎。想像と呼ぶには剣呑すぎるそれは、よく出来過ぎていた。
童話桃太郎は俺たちが知るような、ただの勧善懲悪の英雄譚ではないのかも知れない。
鬼と人間の恋の逃避行、鬼と人間が共に暮らすことを願った物語。同族を滅ぼすことでしか、愛し合う鬼と人間が共に暮らせるようにならなかった過去。
眼前の女がどれほどの覚悟を持って、人の世を選んだのか俺には想像もつかない。もしかしたら彼女は己の中に流れる鬼の血を呪っていたのかも知れない。同族殺しという歪んだ形の血の発露は約束された悲劇だったのだろうか。
——止まれ、おまえはいかにも美しい——
『ファウスト』で、博士が最期に遺した言葉がふと頭をよぎる。このまま時が刻まれなければと博士が願った最後の言葉は、マスターの心情を代弁していたのではなかろうか。幸せな時間よ永遠なれと希い、思い人との安らぎを祈った。しかし、そうなりはしないという皮肉すらも『ファウスト』に符合させたのかも知れない。
いつもの調子を取り戻したマスターが手を叩く。
「ふふふ、なかなか面白いお話でした」
「喜んでいただけたようでなによりです」
南風原が気取ったように頭を下げた。
「肯定も否定もしませんよ、そっちの方があなた達も楽しみがいがあるでしょう?
今はこういうのはオープンエンドと言うでしたっけ?」
「そうですね、謎は謎めいているからこそ良いのです」
「室町生まれなのに、現代の手法も良くご存じなんですね」
「ふふふ、伊達に長生きしてませんよ。それに南風原さんも言っていたじゃないですか人間の世界で生きるということは、人間の常識・知識も身に付ける必要があるのですよ」
「それって——」
俺の呟きは店内を満たすサイフォンの静かな音に溶けて消えた。我が麗しの乙女の話した真実が本当だったかは分からない。なぜなら、それは遠い歴史の暗がりに、黒さを主張するコーヒーよりもなお濃い闇へと消え去ってしまったものだからである。
「一つ言っておくことがあるとしたら。先ほどのお話は——とても良くできていました、とだけ最後に言っておきましょう。面白いお話を聞かせてくれたお礼に、お姉さんがデザートをサービスしちゃいますよ。夏に出す新作商品なんです、味見してください」
マスターの手で眼前に置かれたパフェ。ふんだんに使われた桃の切り身に俺たちは揃って顔を見合わせてしまう。
「大丈夫、その桃には神聖な力なんてないですよ、ふふ」
そう嘯いて、マスターは目元を綻ばせた。
——いつだったか南風原の言葉が記憶から蘇る。〝当たり前の物語の中にふと立ち現れる不思議、それについてあれこれ考えるのが好きなの。でもね、その答えは分からないまままがいいの。だって謎は謎めいているからこそ良いのよ〟
結局のところ、俺もマスターも南風原の趣味に付き合わされて茶番を演じただけなのかも知れない。やれやれと嘆息しつつも、自身の口元が綻んでいることに気づく。文句や不平はいくらでも浮かんでくるものの、どうやら俺はこの趣味に付き合うのが嫌ではないらしい。
——ふと俺は違和感を覚えた。
マスターの最後の柔らかくも晴れやかな笑み、その目立たないながらも満足そうな目元。それは過去の罪科が暴かれた焦慮とは無縁、むしろそれ自体が喜ばしいものであるかのような色を漂わせている。
だとしたら……マスターは麗しの乙女の謎解きを借りて懺悔をしたかったのではないか、いや人に理解してもらいたかったのではないか。同族とは分かり合えず、かつて自身を理解した人間の男と恋を結んだ鬼の女。彼女はもう一度人間の方から歩み寄り、理解してもらいたかったのではないか。それがかつての幸せを、絆を確かめる寄る辺にしていたのではないか。そんな思いを、俺をマスターの瞳に認めたのである。
だからこそ願いを胸に彼女は謎解きを人に仕掛けてきた、もしかしたらずっと仕掛け続けてきたのかも知れない。闇の中に在りし日の色彩を求めて。だが、皮肉にもそれ自体が忌み嫌った血の宿命の中に未だあること裏付けているのである。そこに彼女は自身の生涯を見ているのかも知れない。
不意に澄んだドアベルの音色とともに何人かの客の入店してきた。俺は勝手な想像に幕を引いてパフェに集中したのであった。
今日も今日とて俺は優雅に読書である。だが、場所は学生アパートの自室ではない。相も変わらず何かないと部屋に引きこもっている俺だが、新しくその行動に珈琲庵ファウストにコーヒーを飲みに行くという選択肢が加わったのである。コーヒーを啜り、ほぅと息を吐きだす。
文庫本に落ちた影に視線を上げると、こちらを覗き込む少女、人懐っこい笑み向ける麗しの乙女であった。
「こんにちは、あー君」
俺は呆れたように息を吐きながら答えるのである。
「よう、南風原。おまえ授業はどうした?」
これが不良学生である俺たちの日常なのである。
第一章 完
乙女昔噺【桃太郎編】 深海の竹林 @sano_
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