第5話 桃太郎(出題編4)
「驚いた。急に話が聞きたいと愚弟に言われたことより、あの人見知りが他人を、しかも可愛らしい女の子を連れていることに心底驚いたわ」
眼鏡の厚ぼったいレンズ越しに姉が目を剝いている。どこかで似たような失礼極まりない台詞を聞いた覚えがあるな。
「失敬な。俺にだって多くはないが交友関係くらいはある。一体、弟を何だと思っているんだ」
「はあ? あんたはただのダメ人間でしょ」
あんまりにもあんまりであるが、この台詞もどこかで聞き覚えのあるものである。いや、言ったのは俺だったか。
「どうも
「初めまして、
俺の抗議をさらりと黙殺し、姉と南風原が挨拶を交わす。
姉がどういう人間かを説明するには、歴史オタク——今は歴女とも言うんだったか——の一言に尽きる。伊達に史学科の大学院生をやっていない。
俺以上に本の虫、日本の歴史資料に関する造詣の深さは変態的、〝書物の中に遺され記録されるものだけが歴史になり、それ以外のものは全て消え去る〟と豪語してやまない変人である。
「それであなた達は何が知りたいの?」
眼鏡を指で押し上げながら、姉が尋ねる。
「それでは遠慮なく。常盤さんにお聞きしたいと思います」
「待って群青ちゃん、常盤さんなんて他人行儀な呼び方じゃなくていいわ、姉さんって呼んでくれない。私かわいい妹が欲しかったのよ」
(待て、姉よ。南風原に何を言わせるんだ)
「……常盤姉さん?」
姉の謎の要求にも南風原も少し恥じらいながら応じる。
(お前も何故はにかみながら言うんだ)
「あぁ、いいわ。群青ちゃん、すごくいい」
南風原の反応に打ち震える姉。その顔には満面の笑みが浮かんでいた。その二人のやり取りに、俺は天を仰いだのだった。
話を本筋に戻そう、このままでは全く進まない。場面は南風原が質問を始めるところである。
「私たちが知りたいのは童話桃太郎についてですわ」
「桃太郎? 私に聞きたいということは、流布している童話ではないということかしら?」
頷いた俺たちに、姉はふぅむと腕組みをした。
「童話桃太郎の中で実際にあったことはどの程度なのでしょうか?」
「どの程度が真実か、という点ではほとんどが真実でもあり真実でもなし、という答えが妥当かしらねぇ」
「どういうことだ、姉よ」
「つまり桃太郎には原型とされる大元の話が江戸期には存在していて、それがよく似た
「そもそも吉備津彦命の温羅退治とは何ですか?」
耳慣れない言葉の羅列、それに俺と南風原は二人して首を傾げたのである。
「そうね、かいつまんで話しましょう。吉備津彦命の温羅退治とは、日本神話に登場する吉備津彦命が吉備国を平定した話。古事記や日本書紀に記された内容では、当時吉備国では温羅一族が鬼ノ
「なるほど、確かに桃太郎の内容に似ていますね」
「桃や黍団子は出てこないのか?」
「桃や黍というのは、吉備津彦命の温羅退治とは別のところから付け加わったもの、権威の後付けのようなものね。例えば、桃は桃太郎の異常性を語る形の一つと見れるわ。もともと桃は古事記にも神聖な力を持つものと描かれる。最初期の江戸時代に記された『燕石雑志』の桃太郎では、川から流れてきた桃を食べて若返ったおばあさんが桃太郎を産むのよ。川上から桃がやってくるというのは、桃はその特異性ゆえに山上あるとされる仙郷から来たという考えが付加されたものね。明治期以降の桃太郎では桃から子どもが出てくるというお馴染みの形に変化したの。だから、桃太郎がそもそも特別な存在だったことに対する説明ためのものであるとも解釈されるわ」
「なるほど」
姉は俺たちの理解の色をみて話を続けてる。
「それで黍も同様ね。黍は中国では五穀の長、食べた者に霊力を与えるものとなっているわ。だから桃太郎のお供、もしくは家来がそれを食べることで、鬼をも打ち倒せる力を持つという権威付けに付け加わったのよ。つまり、これも桃太郎に付き従うことで、常ならざる力を得たことについての説明を黍団子でしているというわけよ」
自身の髪を細い指で弄ぶ麗しの乙女、これは彼女が考え事をしているときの癖だ。頭の中で気になる部分を整理しているのだろう。
「もう一つ聞きたいのですけれど、桃太郎が鬼ヶ島へ鬼退治に向かった理由はどう記されていますか?」
南風原の問に姉はわずかに笑んだ。
「実はそこが興味深いところなのよ。現在の桃太郎は悪を為す鬼を討伐するために、鬼退治に向かうことになっているけど、江戸期・明治期の桃太郎は鬼の宝を得るためと記されているの」
「それは鬼から宝を奪うために鬼ヶ島へ向かったということか? それじゃあ盗賊と変わらないぞ」
思わず疑問が俺の口をついて出てしまう。
「そうなるわね。しかも鬼が悪いことをしているという記述は一切ないのよ。つまりは、咎のない鬼から、桃太郎達は宝を強奪したということになるわ。だから福沢諭吉なんかは桃太郎のこと盗人呼ばわりもしているのよ。鬼が悪事を働いていたというのは、吉備津彦命の温羅退治が後世で混同された結果なのかも知れないわね」
「では、最後に鬼の宝というのはどういう物なのでしょう?」
「少なくとも金銀財宝というのは常に共通していて、江戸時代の記録もそうなっているわ。江戸の後半になると、打ち出の小槌や隠れ蓑も書かれているの」
「打ち出の小槌って、あの一寸法師のか?」
「そう。元をただせば大黒天の持ち物だけど。キーワードで物語が混ぜられてしまうというのは文献研究をしているよく見かけるのよ。これも鬼の宝というキーワードから連想されて、一寸法師に登場する打ち出の小槌や、節分という鬼狂言に出てくる隠れ蓑という宝が一時的に混同されてしまっていたのね。その後、明治期以降はそれぞれ話ごとに宝がきちんと分けられている。結果、桃太郎が得た宝というの名前がついているようなものではなく、一括りに財宝とされ得るものだったと考えられているわ。今の童話はおじいさんとおばあさん、桃太郎が財宝で幸せに暮らしたことになっているけど、初期の桃太郎ではその宝も結局は村人たちに分け与えたことになっているの」
急に髪に触れていた南風原の手が止まり、彼女の指間から柔らかな髪が零れる。そして、麗しの乙女はその双眸は大きく見開いたのであった。
「——そういうこと? なるほど、これなら違和感は解消できるわね」
【問題整理】
一体我が麗しの乙女、南風原群青は童話桃太郎にどのような「真実」を見出したのであろうか。
ここで一旦、童話桃太郎をめぐる謎を整理したいと思う。
まず一点目、桃太郎のおばあさんが桃太郎に与えたのは黍団子ではなく、薬籠とその中の薬たっだ。これは一体何を意味するのか?
そして二点目、本当に桃太郎は宝を得るために鬼退治に向かったのか? そうであれば、一体なぜ桃太郎は危険を冒して得た宝を村人に分け与えてしまったのだろうか?
そしてこれらは、桃太郎はなぜ鬼退治に向かったのか? という一言に集約され得る。
この疑問が説かれるとき、童話桃太郎はその奥に隠された真なる姿を現すことになるだろう。
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