第4話 桃太郎(出題編3)
後日、俺たち二人は珈琲庵ファウストに足を運んでいた。薬学部の白石女史が薦めた喫茶店である。
木製のドアを押すと涼やかな鈴の音が響き、コーヒーの芳醇な香りがふわりと来訪者を包む。レトロモダンな内装の中でサイフォンの静かな音が俺たちを迎えるのだった。
「ほう、いい雰囲気だな」
「こういうところのコーヒーは絶対美味しいわよ」
何を隠そう、俺も南風原もコーヒー党。二人の期待は今や確信へと変わっていた。
「それには同感だ。学問と芸術とコーヒーは世界全体のもので、それらの前では国境すら消滅する、とゲーテも言っている」
俺は得意げに文人ゲーテの言を引用する。
「勝手にコーヒーを足されて、ゲーテは怒らないかしら」
「きっとゲーテもコーヒー党だ」
カフェインをこよなく愛する二人にとっては文人も形無しである。
「いらっしゃいませ」
カウンターから俺らに声を掛けたのは、柔らかい微笑みを浮かべた長髪の女性。その女の姿を認めた瞬間、俺の総身に戦慄が走った。しばし落雷を浴びたような衝撃に、茫然としてしまう。
なぜならば、珈琲庵ファウストのマスター、彼女こそは以前魔眼が見せた着物の女、桃太郎の母親と瓜二つであったからである。他人の空似というにはあまりに鏡合わせが過ぎる。
「あなたがそんなに女の人に関心を持つなんて珍しいわね。何? あの黒髪ロングがいいの? 私ももっと伸ばそうかしら」
とりあえず二人で座ったボックス席から、マスターの女性のことを眺めていた俺。その視線の先に気づいて南風原が、自身のふわりとした髪を摘まむ。
「いや、そういうのじゃない。ただあのマスターが白昼夢に登場した女性とあまりにもそっくりだ」
「ええ⁉ 桃太郎のお母さんってこと?」
「いや、確かに自分でも何を言っているんだ、という感じなんだが……」
言葉を濁す俺に、南風原は〝ふぅむ〟と腕を組んで唸った。
「いいえ。だとすると、白石女史に考古遺物を調べてみるように提案したということも納得できるかも知れないわ」
「初めてのお客様ですよね」
俺たちに艶やかな黒髪を揺らしてマスターがふんわりと微笑みかける。
「そうです。そういえば、ファウスト、このお店は変わった名前ですね」
「ふふ、好きなんですよ、ゲーテの『ファウスト』。欲望にかられ悪魔と契約をしてしまうような人間でも最後は救われる。そういうのが好きなんです」
——止まれ、おまえはいかにも美しい——
このまま美しい刻よ止まれ、とファウスト博士が時間に向かって放った言葉、最期に残した言葉でもある。悪魔に魂を売ってしまったファウスト博士であったが、己が歩んできた人生には満足したからこそ出た言葉であろう。
「なるほど」
「それで、ご注文はどうされます?」
「ブレンドコーヒーを。あー君はどうする?」
「じゃあ同じものを」
「はい、承りました。ちょっと待っていてくださいね」
しばらくして、マスターがコーヒーを運んできてくれた。マグカップに口をつけるとふくよかな香りが口腔を満たし、コーヒー特有の深い苦みが後を引く。カップから口を離し、ほうと息を漏らしてしまった。しばしば摂取したいと思わせる悪魔的な美味しさ、南風原の方を見ると彼女もまたカップを持ちながら目を剥いていた。
「これは良いものだわ」
「これが悪魔だとしたら、ファウスト博士が魂を売ったのも理解できるな」
どのくらい通えるかと、俺は自分の財布の中身を思い出し恨めしく思ってしまう。
「ふふ、気に入ってくれたようで良かったです。それではごゆっくり」
「ああ、ちょっと。ついでにお聞きしたいことがあるんですが、いいですか?」
女の後姿を呼び止めて、南風原はそう切り出した。
「ええ、どうぞ」
「薬学部の白石女史に考古遺物を調べるように提案したのはマスターですよね?」
「あら、あなたたちは白石さんのところの学生さん?」
「研究室の学生ではありませんがね」
「そうなのね。白石さんが研究で悩んでいたようだから。そういうのも見てみたら、って確かに声はかけたけど。本当に発見があったとは思わなかったわ」
おっとりとした調子で、マスターは返答する。
「ひょっとしたら、あなたは知っていたのではないか思いました」
「あら、どうしてかしら?」
「——なぜなら、あなたがあの薬籠を桃太郎に渡していたところを見ましたので」
女の微笑みが凍り付く。そして彼女は探るように南風原を見た後、視線を俺へと滑らせた。
「ふぅん、なるほど。おもしろい目を持っていますね。千里眼の少年」
マスターが腑に落ちたとばかりに目を眇める。先ほどまでの柔和さに覆い隠された深い暗がりのような瞳が俺を射竦めた。そして彼女は禍々しくも妖艶な笑みをその相貌に浮かべるのであった。
「大丈夫。大事なお客様ですもの、何もしませんわ。でも、このことは内緒にしておいて頂けると助かります」
「誰かに言いふらすようなことはしませんわ」
南風原は動じた様子もなく慇懃に応じるのだった。
「では何も問題ありません。私は仙人の力が宿った桃を食べて、ちょっと長生きになった喫茶店の店長。そして、あなたたちはそのお客です」
「ええ。ですが童話桃太郎について、実は疑問を覚えている部分があります。考えをまとめたいと思いますので、いずれそれについてお話を伺っても?」
「あら、そのくらいであれば構いませんよ」
マスターは先ほどと同じようにおっとり微笑んだ。
珈琲庵ファウストから帰る道すがら、麗しの乙女は何かを考えこんでいる。
「同じ姿をとどめたまま、何百年も生き続けている人間には興味がないのか? お前なら興味を持って、あれこれ知りたがると思ったんだが」
「うーん、そうねぇ。純粋な学術的な興味はあるわね。ただ、それを正当化してマスターのことを研究対象にしようとするのは欺瞞だわ」
それこそ質問攻めにでもするのかと思ったが、どうやら南風原には彼女なりに線引きがしっかりとあるらしい。
「だが俺の魔眼に興味を持って、俺を色んな所につれ回すのはいいんだな」
「それはあー君だって、内心楽しんでいるじゃない」
「どうだろうな」
「え、嫌なの?」
「それは当然——」
少女の不安そうに揺れる瞳に、俺は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「まあ、嫌いじゃないな」
「ふふ、さっすがあー君。わが相棒よ」
冗談めかして返答した俺の腕に南風原は飛びついてくる。
「ええい、暑苦しい」
「ほれよいではないか~」
「この悪代官め、普通は男女が逆だろ」
「何言ってるのよ、国連も男女平等をうたっているんだから関係ないわ」
「つべこべ言うな、成敗だ」
人懐っこい笑顔で腕を絡める南風原にデコピンをかますと、少女は唇を尖らしながらおでこを擦る。その様子にやれやれと俺は息を吐くのだった。
「それで、南風原よ。お前がさっきから考え込んでいることは何だ?」
「童話の桃太郎よ。私たちが知っている桃太郎はもしかしたら、真実とは違うのかも知れないわ」
「童話化されているんだ。それは違うものになっているだろう」
「うぅん、そういうことじゃないのよ。何か全く違う秘密が隠されているんじゃないかしら、そんな気がするのよね……まずは昔の資料に詳しい人に話を聞きたいわね」
桃太郎では明治や江戸時代の文献資料、もしかしたらそれよりも前の時代のものも含まれてしまうだろう。普通は身近にそんなことに詳しい奴はいない。だが、幸いなことに俺には一人目星がついていた。我が不肖の姉、
「——あぁ、心当たりがあるな」
思い当たった対象に俺は憮然とするのであった。
「そうなの? 人見知りで引きこもりのあなたにそんな交友関係があるとはちょっと驚ろきよ」
「失礼な。まあ、姉なんだが」
「へぇ、お姉さんがいたのね。どんな人なの」
「一言でいうとダメ人間だ」
「……ひょっとして自己紹介してる?」
「つくづく、口が減らない奴だな」
「あら、私は麗しの乙女ですわ」
軽口の応酬に南風原はからからと笑うのであった。
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