第2話 桃太郎(出題編1)
差し込んだ麗らかな春陽が、手元の活字を撫でる。
文庫本から顔を上げ、何とはなしに窓の外に目を向けると、既に桜は散ってしまい青々と茂った葉が風に揺られていた。アパートの自室からは、高校の校舎へと向かう坂路と桜の街路樹が目に入り、その木々をせわしなく新社会人と思わせる人々が横切っている。
将来働かなければ暮らしいけない。その純然たる事実はサボれるうちはサボって読書と友情を深めたい、という抗いがたい誘惑へとなるのである。
ふと気づくと路上からこちらを見上げる影がある。肩口まで垂らしたふわりと揺れる黒髪が陽光を反射して輝き、袖とスカートと共に風に靡いている。涼し気に微笑みをたたえる麗しい美少女、可憐というよりも佳麗な麗人。そう、彼女が南風原群青である。
自室で怠惰な時間を過ごしていた俺は、勝手ながら本日の授業を休講ということにしたのである。天才ですら無い凡人が、勉学に疎かにするのは我ながら阿呆という他ないだろう。気儘な時間を満喫していた阿呆に、ドアチャイムが来訪者を知らせた。インターホンモニターに結ばれる像は麗しの乙女のもの、画面越しに南風原がその相貌に人懐っこい笑みを浮かべていた。
俺は息を吐き、いそいそと彼女の分のコーヒーを用意して玄関に向かう。俺にとって、この後は既に予測可能な流れなのである。
「何だ、
「おはよう、あー君。ねぇ、面白い話があるの」
憮然とした顔を扉から覗かせる少年に微笑みかける美少女。日常となりつつあるこのやりを経て、俺は南風原を招き入れたのだった。
「ねぇ。あー君、
家主を気にした風も無く、湯気を立てるコーヒーマグが置かれた座卓に陣取り、南風原は、開口一番楽し気にそう切り出した。
「はあ、急に何だ?」
「ウチの大学の薬学部の発見がニュースになっているやつよ。知らないの?」
彼女の前のめりな姿勢とは対照的に、俺は首を捻って唸る。
「んー、知らないな」
「もう、面白そうな情報がすぐキャッチできるように、アンテナ張ってないとだめじゃない」
(いや、少なくとも俺は心惹かれてないぞ)
「というかそもそもなぜ南風原はここに? だいたい今日は授業があるだろう。」
内心のすれ違いなど表に出すことなく、俺は怪訝な顔で質す。するとこれが答えだとばかりに南風原は笑みを深めるのだった。
まっとうな学徒なら今はまさに先達たる教員から学んでいるはずである。ならば、貴重な教えをふいにし、学生にとって本分である勉強を怠る彼女は碌な人間ではない。自分のことを完全に棚上げにして、俺はそう断じるのだった。
「簡単な質問ね、あー君。まず、麗しの乙女は授業なんかには縛られないのよ。私は学校の決まりきった授業よりももっと面白いことを探しているの。それに逆に聞くけど、あー君だって今は授業時間のはずでしょう? だって同じクラスじゃない」
「自立した人間は、自分のことについてきちんと吟味し選択できるものなんだ」
「つまり自主休講でサボりってことね。サボってばっかりいるとちゃんと自立した人間にはなれないわよ」
「他人のサボりをとやかく言うとは狭量な奴め」
「全く、ああ言えばこう言うんだから。はいはい、悪かったわね、仲良くサボりましょう。」
返す刀で揚げ足取りを狙う南風原。しかし、棚の遥か上を超え天高く持ち上げた俺の棚上げっぷりに呆れ、彼女は肩を竦めてコーヒーマグを引き寄せてた。
確かに自主的な休講ではあるが、俺のは決して単純なサボりではない。ここで必要な英気を養って面倒な提出課題に立ち向かうのである。つまるところ、
「ふん、戦略的自主休講と言ってくれ」
「ふふ。いいわね、それ採用。」
笑い合う二人は馬が合っているのであろう。端的に言えば、向風浅葱と南風原群青は軽口をたたき合える不良学生なのである。
「ねえ、さっきの話に戻るけど。室町時代の薬籠から新成分が発見されたって記事がこれ」
南風原が俺の眼前に差し出したタブレット、その画面には『発掘された室町時代の薬籠から未知の薬成分を発見—どう合成したのか解明できず』という見出しが躍る。
「なあ、薬籠って何だ?」
俺は画面から顔を上げて南風原に問う。
「印籠は、知っているかしら?」
「この紋所が目に入らぬか、と黄門様のお供が掲げているアレだよな」
「そう、あれは葵の御紋の印がついているから印籠だけど、そもそも薬入れなのよ。薬籠も同じ、薬を持ち運ぶための携帯用の入れ物」
「だとしてだ。このニュースは一体何だ?」
俺の怪訝そうな顔を見て、麗しの乙女がここぞとばかり身を乗り出した。
「おもしろいでしょ! 当時の科学が発達していない時代では現代の異なる方法で、現代よりも医学が進んでいたのかも知れない。そう考えると、これは時代錯誤の遺物、ああ浪漫だわ!」
さも愉快そうにその眼を輝かせる南風原に、俺は訝し気に応じる。
「そうは言うが、何百年も埋まっていたわけだろ。その間に成分とかが良く分からない感じで変わっちまっただけだろ?」
「いいえ、地下水とか雑菌の影響なんかの可能性を考えないわけがないわ。薬籠自体やその中身の状態がとてもいいのよ。で、わたし考えたの。これをあー君のクレヤボヤンスで見ることが出来たら、興味深いと思わない?」
「またそれか。あれはクレヤボヤンスではなく魔眼と言ってくれ」
「中二病ねぇ」
「男にとっては中二病というのはある種の自己表現であり、そしてこれからも付き合い続けなくてはならない不治の病でもあるんだ。この本質は罹患者にしか分からない。だから、気にするな」
要は何となくカッコいいと思ってしまう方が正義であるという単純な話で、俺からすると、クレヤボヤンスと言う言葉は響きが琴線には触れないのだった。
〝本当に男の子はよくわからないわねぇ〟と南風原は首を傾げながら話を戻す。
「私が呼ぶ分には別にクレヤボヤンスで構わないでしょう?」
「まあ、何でもいいがな」
「きっとあなたの眼は遠く離れた場所にあった現実を映しているのよ。おもしろそうだから、透視の実験をしてみましょうよ」
南風原は俺の手をその小さい手ぎゅっと力強く握り、きらきらと輝く笑顔を向ける。
(——ああ、はじまったぞ)
昂ぶる好奇心は美少女をも暴走列車へと変えてしまう、こうなった麗しの乙女には逆らっても無駄である。俺はまた南風原に引っ張りまわされそうな不吉な予感に天を仰ぐのであった。
——閑話休題。
ここで読者諸氏には少し俺の眼についての説明が必要かと思う。俺にはどうやら普通の高校生男子と一つ異なる部分があり、俺はそれを魔眼と呼んでいる。
妖しい力が宿った眼が誘う不可思議な景色、俺は幼い頃からその魔眼が見せる白昼夢に捕らわれることがあった。そこには妙な特徴があり、ルールとも言える。直前に見ていた何か、その過去の光景が現実感を伴って眼前に立ち現れるのである。
我が麗しの乙女、南風原群青はそれを面白がって、まことしやかに超心理学におけるクレヤボヤンス(透視能力の一種)で、視覚と相互作用した物が持つ出来事を読み取っているのではないか、と勝手ながら言っているわけである。そんなわけあるか、と反論を試みるも、欧州の科学者の論文を見せられると、あながち全てが誤りであるとも言い切れないと思わせられてしまうのであった。
何にせよ、特別な力には名前が与えられるのが道理である。それ故、俺は自身の不可思議な力が宿る眼を魔眼と呼称することにしたのであった。多少呼び方が陳腐であるが、それはそれだけ普遍性があるということの裏返しなのである。
そして天才たる麗しの乙女、南風原群青は俺の魔眼を愉快な調査対象と捉えたらしい。これまでも、〝きっとあー君のクレヤボヤンスで何かが読み取れたら面白いと思うわ〟と、俺をあちこちに連れ回していた。それで空ぶった後に、どこかでご飯を食べながら無駄話をするのまでがお馴染みの流れである。
突然魔眼の話を挟んでしまい混乱させたかも知れない。では、学生アパートの浅葱の自室に話を戻そう。
「やれやれ超能力に期待するなんて南風原は夢見がちだな。科学的合理性が支配している時代に何を言っているんだ」
さっきまで、魔眼だなんだと語っていた舌の根が乾かぬ内に、今度は科学を力説する俺。悲しいかな、男の子は科学的に中二病なのである。
「科学教を厚く信仰する信徒、あー君よ。私のことはネオ浪漫主義者と呼びなさい。そして現実的に白昼夢という夢を見るのは私ではなくあなたよ」
皮肉げに口の端を吊り上げる南風原は本当に口が減らない。
「全く、ああいえばこう言うな」
「ふふ、私たちは似た者同士なのよ」
麗しの乙女はからからと笑いながら、コーヒーに砂糖をスプーンで何杯も投入し、嬉しそうに口をつける。
「うーん、やっぱり授業をサボって飲むコーヒーは格別ね」
「砂糖を入れ過ぎじゃないか?」
「カフェインと糖分は不良学生の栄養なのよ」
「ふむ、それに関しては珍しく意見が合うな」
そう言ってまた、俺らは軽口を叩き合うのである。
「ねえ、実際に薬籠を見に行きましょうよ。実はちゃんとアポもとってるの」
そう言って少女は、怠惰な少年の手を引くのである。しかし、俺の方もこのまま外出の憂き目にあってたまるかと懸命に抵抗する。
「ほっといてくれ、今日の俺は深窓で令嬢な感じでいいんだ」
「私が守ってあげますわ、お姫様」
「落ち着くんだ。男子、三日会わざれば刮目して見よ、という言葉がある。また三日後に来るんだ、南風原。そうしたらお前は刮目することになるぞ」
「もう女子なのか男子なのかはっきりしなさいよ」
南風原は呆れたように肩を竦める。
「外は危険に満ち満ちていること俺は知っているぞ。実際に陸では熊に水場では鮫や鰐に襲われるかも知れない。世間は荒波で現実はクソゲーなんだという皆がひた隠しにする真実に俺は気づいている」
「はいはい」
南風原は駄々っ子をあやすように言うが、その膂力はいっこうに衰えず、いつものごとく結局は外に連れ出されることになるのであった。蒼天に浮かぶ太陽のあまり眩さに俺は嘆息したのであった。
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