土の下の記憶

@moriitsuki

第1話

飼っていたトカゲが死んだ。

別に愛情があったわけではない。下校中にたまたま見つけて、家に持って帰っただけ。

 トカゲは外飼いが良いと何かで見て、その通りにしていた。そのせいで、エサをやるのをすっかり忘れ、それを三日後に思い出した。

 気づいたときにはトカゲはピクリともしなかった。

 トカゲを公園に埋めるため、小さいスコップとトカゲの入った虫かごを持って家を出る。

 玄関を開けると冷たい冬の空気が僕の顔を襲う。

 午後の七時。外は真っ暗闇。点々と光る電灯が足場を照らした。

 半端な気持ちで生き物は飼うべきではないと、雪道を分厚いブーツで踏みしめた。

 公園に着いた。久々に来てみると、小さく見える。僕が成長したのか、元々小さかったのか。

 裸になった木々や、色の剥がれた遊具に雪がかぶっている。デコレーションされているように見えて昔から好きだった。

 虫かごを置いて、足で雪をどけた。そこを

スコップで掘り返す。

 トカゲの一匹が死んだくらい何ともない。そう思っていたはずなのに罪悪感に駆られていた。

 罪悪感を紛らわすように右手のスコップに力を込めて掘った。そうしていくうちに、穴はどんどん深くなる。

トカゲ一匹を入れるだけなのに、この深さは大げさだ。それでも掘り続ける。

息を切らして、全身が火照る。

ガリ、とスコップの先から金属の嫌な音がした。金属同士が擦れるあの音だ。

恐る恐る土を払う。そうすると缶のフタの部分が浮かび上がってきた。

スコップを置いて、取り出してみる。そうするとスッポリ抜けて、缶があった後だけが綺麗に残った。

これは一体なんだろう。

缶を振ってみるとコンコンと音がした。中に何かがあるようだ。

タイムカプセル?

フタの上のプルタブが開けてほしそうに僕を見つめる。

周りを確認する。人は誰もいない。

プルタブに指を引っかける。土の湿気を吸ったせいか、フタと缶本体がしっかり嚙み合ってしまっている。両手で強く握り、捻るように力を込める。錆びた金属が軋む音がしてわずかにフタが浮いた。さらに力を加えると、バキッと、小さい音とともに一気にフタが外れた。

中には折りたたまれた紙があった。問答無用で取り出し、開く。

二十歳のちえりへ、そう幼く、拙い字で書かれてある。

僕の喉がひゅっと詰まるのを感じた。

チエリの顔を思い出す。

 

小学四年生に遡る。

それは二学期の終盤。冬に差し掛かる手前の時期。男子はこんな寒い時期なのに昼休みになると皆で外に出て、サッカーをやっていた。一方女子は暖かい教室で雑談だ。僕は男子に混じってサッカーをやっていた。

そしてチャイムが鳴るギリギリに席に着き、五時間目を待った。

その日の五時間目は比較的当たりだった。授業ではなく、委員会を決める時間だから。

小学校には委員会がある。それは小学四年生から上の学年に振り分けられる仕事の一つだ。

それらに給食委員会、体育委員会、保健委員会、文化委員会、など様々な種類があって、その中で一番楽な生活委員会を男子は狙っていた。

先生が黒板に委員会の数だけ箱を描いた。そこに委員会の名前を一つずつ入れた。

「じゃあ、まずは、自分たちの希望する委員会を選んで、決まったら、この箱に自分の名前を書いてください」

 先生がそう促すと、男子たちはゾロゾロと立ち上がり生活委員会に名前を入れた。僕もそこに名前を入れた。

 委員会は一つあたり二人から三人と決まっている。だから全員生活委員会になれるはずもなく、教室の後ろで盛大なジャンケン大会が始まった。

最初は盛り上がったが、五回ほどあいこを繰り返し決めるのは無謀だと気が付いた。二人一組を作り、ジャンケンをして、勝った人たちが勝ち上がることにした。

僕はマサトと二人組を作った。マサトは冬になっても半袖半ズボンを着る男だ。

いざ、ジャンケンをしたら、あっさり負けた。

僕は肩を落として席に着いた。

「リュウタ、負けた?」

 話しかけてきたのはカズトだ。

「負けた」僕が言う。

「どこ行くか決めた?」

「いやまだ決めてない」どんどん埋まっていく黒板を眺める。

「体育委員にしようかなー」

 後ろで盛り上がる男子を見ながらカズトが言った。

「まじで?縄跳び大会とか前に出てやんないといけないんだよ?」

「そっかー」

 着々と埋まっていく中、唯一埋まっていない委員会がある。放送委員会だ。その箱の中にはチエリちゃんの名前があるから。

 チエリちゃんが嫌われる理由は家庭が貧乏で毎日ピンク色の服を着ているのが気持ち悪がられ、服には猫の毛がついている。その上学校では一言も喋らず、先生に当てられたら、ずっと無言のままでいるから。

「放送委員会はヤダな」僕が言う。

「ね」

 だが、委員会の箱はどんどん埋まっていき、ウダウダ喋っていた僕らはあっという間に取り残された。

 残された委員会は体育委員会と放送委員会だ。強制的に僕とカズトでジャンケンをして勝った方に選択権が譲られる状態になった。

 生徒の視線は僕らに集まった。

 僕らは嫌々ながらも、内心は闘志に燃えていた。放送委員会にならないために。

「最初はグー、ジャンケンポイ!」

 僕は力強くグーを出した。だが、カズトが出していたのはパーだった。

 教室中は一斉に盛り上がった。

「おけーーい!」

 そう言って、カズトは体育委員会の箱に名前を書きに行った。

 そうやって僕は不本意ながらも放送委員会になった。

 放送委員会の仕事は、毎週金曜日、長休み、給食、昼休みに放送室でアナウンスをするだけだ。

 そして今日がその金曜日。わりと簡単な仕事だと思ったが、いざ命じられると緊張する。

 長休み、本当はチャイムギリギリまで遊んでいるものの、それを早く切り上げて放送室に向かう。

 放送室のドアを開けると、ふわりと木の匂いが鼻についた。古びた板張りの床と、壁一面の木製の棚。長年の湿気と乾燥を繰り返したせいかどこか甘く、少し埃っぽい。床は歩くたびにわずかにきしみ、窓際のカーテンは薄っすら黄ばんでいた。部屋の真ん中に机と椅子が四つずつある。

 10時25分になったらマイクに向かってアナウンスをする。それまで放送室の椅子に座って待機する。

 チエリちゃんは来るのだろうか。気まずいから来てほしくないが、一人だと心細い。

 時計を見ると10時23分を回っている。

 残り二分。貧乏ゆすりが激しくなる。寒気がしてきた。落ち着かない。

 ガチャリ、とドアが開いた。冷たい外気と一緒に、細い影がひとつ差し込んできた。

 チエリちゃんはうつむき加減で入ってきて、

こちらを一瞬も見ずに席に着いた。

 声をかけようにも、喉の奥に言葉が引っかかった。きっと彼女もそうだ。

 時計を見ると10時26分を回っている。アナウンスしなければいけない。チエリちゃんは動く気配がない。

 腹を括ってマイクに向かった。機材卓には放送するための機材が複雑に絡み合い、その上に原稿が置いてある。

 スイッチを入れる音がやけに大きく響いた。

スイッチを入れた後、主音量のつまみを4まで上げた。その次はマイクの音量を上げる。これを上げると僕の声が全校生徒に聞かれる。緊張して唾を飲みこんだ。震える手でゆっくりとつまみを上げ、4で止めた。原稿を持つ指先が小さく震えて、その音まで拾ってしまいそうだ。

 マイクに向かって原稿を読んだ。自分の声がスピーカーに流れた。なんだか、自分の声じゃないみたいだ。

 読み終わると緊張が毛穴という毛穴から抜けていく。機械のスイッチを切って、僕は放送室を後にした。時間を置いてからチエリちゃんも放送室を出た。

 あっという間に、四時間目も終わって、給食の時間だ。

 長休みや昼休みと違って、給食の放送の場合は放送室でご飯と食べなければならない。

 つまり、チエリちゃんと二人で食べなければならない。

 お盆を持ち、重い足取りで放送室へ向かう。

 ドアを開けると、チエリちゃんは既に席に着いていた。

 彼女の斜め向かいの席に座った。

 重苦しい沈黙が続く。チエリちゃんが食べないから、僕も給食に手を付けづらくなっている。どっちが先に話しかけるかより、どっちが先に給食を食べるか。

 沈黙を切り裂いたのは彼女だった。ストローを牛乳にさして、ちゅるちゅると飲みだした。

 彼女は別に給食をどっちが先に食べるかなんて気にしてなかったようだ。

 僕も味噌汁を一口飲んだ。緊張して、味が全然入ってこない。

 時計を見ると12時30分を回っていた。アナウンスをする時間だ。

 急いで機械のスイッチを入れた。

 給食のアナウンスは読み上げる文言が多い。だから余計に緊張するが、そうも言っていられない。

 マイクの音量を上げて、給食の献立を紹介した。噛まないように間を開けてゆっくりアナウンスした。

 なんとか読み終わり、席にもたれ掛かった。

 そういえば、僕しかアナウンスをしていない。というか、チエリちゃんの声を聴いた時が無いかもしれない。 

 これからずっと喋らないわけにはいかない。

 心臓がバクバクと鳴った。

「次、チエリ放送する?」

 恐る恐る訊いた。呼び捨てで良かっただろうか。だが、『チエリちゃん』と呼ぶのは恥ずかしいし、『チエリさん』と呼ぶのはよそよそしい。

 チエリちゃんと目があった。だが、彼女はすぐに目を泳がせ、視線を落とした。

 彼女は必死に言葉を考えているように見える。

「俺やる?」

 僕がそう訊くと、彼女はコクリと頷いた。

 気を使った結果、僕が放送を全部しなければならなくなった。

クラスからはぶられていて、少し同情の念はあったが、会話も出来なければ仕事もしない、それで嫌われるのも無理はない、とそんなチエリちゃんに苛立ちを覚えた。

彼女は箸を置いて、窓の外を見ていた。もう食べ終わったのだろうか。でもチエリちゃんの食器にはまだ食べ物が残っていた。

彼女を尻目に僕は黙々と給食を食べた。

箸の音ばかり鳴っている間に、放送の時間がやってきた。給食の放送は「いただきます」をアナウンスするだけではなく「ごちそうさま」も言わなければいけない。

機材卓の前に立って、マイクのつまみを見つめる。

「これさ、10にしたらどうなんのかな?」

 ふと、チエリちゃんに訊いてみた。

 彼女は、さぁ?と小首をかしげた。

「やってみようかな」

 軽い気持ちでマイクのつまみを思いっきり捻った。

 キー―――ン!!!耳をつんざく高音が校内に響き渡った。

 二人とも固まる。

 数秒後、チエリちゃんが、小さく口元を押さえて笑った。

 嬉しくなって僕も思わず笑った。

「やば!もう一回やろうかな!」

「やめておいたほうが……」

 チエリちゃんは笑みを溢しながら僕を止める。

 チエリちゃんの声を初めて聞いた。笑う顔も初めて見た。楽しそうにしているのも初めて見た。

 そんな姿はクラスの誰にも見せない。そんな中、僕だけが知っているという優越感があった。

 だが、それ以上に彼女が僕に心を開いてくれたことが嬉しかった。

 校内アナウンスを済ませ、二人で放送室を出た。

 仲良くなったとはいえ、二人で歩くのは恥ずかしくて、僕は途中でトイレに行き、チエリちゃんを先に行かせた。

 給食が終わると、昼休みが始まる。

 僕はドッチボールをやりに、体育館へ行った。

 体育館はみんながドッチボールをしているからか、外よりも少しだけ暖かい匂いがした。

 僕も混ざってゴムボールをよける。

 ボールはテンポ良く交差して、マサルの手に渡った。

 マサルは野球部で肩が強く、投げるボールは稲妻の如く速い。

 そんな彼が僕をロックオンしたのが分かった。

「頑張れ地獄の放送委員会!」

 マサルが力強く投げたボールは僕の胸元を弾いた。

 ボールの感触以上に、マサルの一言がズン、と胸元に残った。

「図星だったからキャッチできなかったの?」

 マサルが言うと笑いが起こった。

 僕は下手くそに笑って外野へ向かった。

 ドッチボールを早く切り上げて、放送室に向かった。ドアを開けるとチエリちゃんが先に席に着いていた。

「チエリ放送やってよ」

 僕がチエリちゃんに言った。

「やだ、緊張するじゃん」

 チエリちゃんは笑った。その笑みには、普段、喋る相手もおらず、僕のような友達が出来たことの嬉しさ、も含まれているように見えた。

「俺さ、もう一回あれやりたいんだよね」

「あれって?」

「10のやつ」

 チエリちゃんは口を押さえて「ダメだよ」と笑った。

「どっちがさ、長く10で止めれるかやろ」

 彼女は、えーと言って乗り気ではなかったが、悪い顔をしていいよ、と頷いた。

「まず俺ね」

 そう言って、機材卓の前に立った。

 心臓がバクバクと音を鳴らす。

そっと、つまみに手を伸ばす。思いっきり捻った瞬間、キー――ン、と耳を突き刺すような高音が鳴り響いた。

 音の勢いに負けてすぐつまみを0に戻した。

 一瞬、時が止まり、二人で馬鹿笑いした。

 僕がこの瞬間がクセになる。

「ヤバ、次私か」

 席を立ち、機材卓に来た。チエリちゃんは興奮しているように見えた。

「どこ押せばいいの?」

 僕はマイクのつまみを指さして説明した。

「本当にやるの?」

 吹き出すように笑いながら彼女は言った。

「うん、やってやって」

「わかった」

彼女は音量のつまみに手を添えた。

「いくよ」

 そう言って僕を確認する。僕は深く頷いた。

 彼女は思いっきりつまみを捻ると、キー――ン、と高音が校内に響き渡る。

 彼女もまたあまりの音の大きさに思わずつまみを戻した。

 チエリちゃんはお腹を抱えて笑った。

こんなチエリちゃんは初めて見て、面食らいながらも、その空気がなんだかおかしくて、つい一緒に笑った。

 カツ、カツ、カツ、廊下からヒールの音が近づいてくる。

 僕とチエリは顔を見合わせた。一瞬でさっきの笑いが凍る。

「やばい」

「先生?」

 近づいてくるのはたぶん生徒指導の山田先生だ。

 足音で分かる。まっすぐで、怒っているとき特有の、少し速いテンポ。

「どうする?」

 僕が小声で訊く。彼女は焦った表情で首を横に振る。

 ガチャ、

 ドアが開く直前、二人で急いで席に着き、何食わぬ顔で放送点検ノートをめくった。

 顔が熱い。鼓動の音が、放送室全体に響き渡っている気がする。

「何ですかさっきから!」

 入ってきた山田先生は、眉をひそめて放送室を見渡した。

「どうしました?」

 下手な演技で首を傾ける。

「さっきからキー―ンって鳴る音聞こえたでしょ?」

「え?何がですか?」

 チエリと顔を見合わせ、すっとぼける。

 山田先生は数秒、僕らの顔を睨んだ。

「……まぁいいわ、気を付けて」

 そう言って先生は去っていった。

 ドアが閉まるとしばらく無言だった。そして二人同時にふっと息を吐いた。

「あっぶねー」

「うん……」

 チエリは誇らしげな顔で笑った。

 アナウンスを済ませ、僕らは放送室を出た。

 

次の週の金曜日

 一週間で唯一、この日だけが僕の退屈な毎日にちょっとした彩りを持たせる。

 長休みの放送室。ドアを開けるとそこには彼女がいた。

 彼女の表情を見ると、僕と同様でこの日を待ち望んでいたように見えた。

「なんでいつも学校休んでるの?」

 思い切って訊いてみた。きっと不躾だし、チエリにとっては言い辛いことかもしれないが、彼女は僕に心を許してくれているかを確かめたかったから。

「だって行きたくないじゃん」

 突っ伏した腕にあごを乗せた彼女は、窓の外を眺めてため息を吐いた。

 窓の外は四年生の廊下が見えて、そこで楽しそうに生徒たちが遊んでいた。

 あっさり言ったように見えて、本当は叫び出したいほどの強い感情を必死に抑えているのが分かる。

 だが、その感情すらさらけ出してほしかった。僕にはまだ心を開いていないのだと落胆した。

「でも今日は金曜日だから来た」

 ちえりは照れくさそうに言った。

 

 給食

「保育園の時、覚えてる?」

 チエリが僕の顔をのぞいた。

 魚の骨を取るのに夢中だった僕は顔を上げて「何が?」と訊いた。

「ほら、覚えてない」

 チエリは呆れた顔をしていた。

「何が、教えて?」

「保育園の時さ、よく、おままごとしてたじゃん」

「え?全然覚えてない」

 僕はまったく覚えていなかった。

「そのとき、私の犬をやってて、『私の犬になる?』って聞いたら『うん』って言って、指切りげんまんしたじゃん」

 チエリは嬉しそうに思い出した。

「俺、そんなこと言ったの?」

 話を聞くだけでも恥ずかしくなった。

「嘘つきめ」

 チエリはからかうように笑みを浮かべた。

「そんな昔の覚えてねーわ」

「嘘ついた側はすぐ忘れるからね」

 

 昼休み

「タイムカプセルってやったときある?」

「何それ?」僕が訊く。

「幼稚園の時とかに書くやつ、20歳の自分へって、でそれで20歳になったら開けるの」

「へー、何書いたの?」

「全然覚えてないな」

「まあ、思い出したら意味ないか」

「いや、思い出すことも大事だと思うけどね」

 彼女はそう言って、あくびを漏らした。

 

 次の週の金曜日 長休み

「めちゃくちゃ寒いね」

 ちえりはそう言って、手をポケットに突っ込み、身を縮めた。

「ね」僕が言う。

「こういう時おでん食べたいよね」

「そう?だっておでんってご飯に合わないじゃん」

「いや、私普通にご飯食べるけどね」

「おでんで?」

「うん、それでね、私おでんの具で一番美味しいの分かった」

 チエリはどこか誇らしげだった。

「何?」

「逆に何だと思う?」

「大根?」

「違う」

「たまご?」

「違う」

「はんぺん?」

「違う」

「えー、じゃあ何?」

「餅巾着のひも!」

 自信げに言っているが意味が分からない。

「あー、分からなくもない」

 てきとうに返事をしておいた。

「でしょ!」

「でも一番ではないわ」僕が言う。

「じゃあ何が一番好き?」

 彼女に訊かれ、ふと考えて窓の外を見るとふわふわと柔らかい雪が舞い降りた。

「あ、雪」

 僕が呟くと、彼女はすぐに窓の外を見た。

「綺麗」

そう言ってチエリは目を輝かせていた。

 

給食

 給食を持って、放送室のドアを開けると、ふわりと鼻先に木の匂いが届いた。ドアを閉めると廊下の喧騒がピタリと消えて、時計の秒針の音だけが部屋に残った。ちえりはいつもの席に座っていた。

 木の匂いと、ちえりの背中。僕はやっぱり放送室が好きだ。

「あぶね、時間ギリギリだ」

 僕は給食をテーブルに置いた。チエリは既に給食を食べていた。

「そろそろチエリ放送してみなよ」

 僕が試しに言ってみると、口をモグモグさせながら「今食べてるから無理」と軽くあしらった。

 機材卓の前に立ち、マイクの音量を上げた。

 そしてスラスラと原稿を読み上げた。もはや校内アナウンスも緊張しなくなって、マイクの音量を少し上げて、声の音量を調節した。

 読み終えると僕は席に着き、給食を食べた。

「二学期っていつ終わるんだっけ?」チエリが訊く。

「二週間後って言ってたよ」

 僕はそう言って牛乳にストローをさした。

「えー、あっという間だね」

「学校来てないからでしょ?」

 僕がからかうと「うるさい」と照れながらジャガイモをかじった。

 窓の向こう、白い雪が静かに振り続けていた。放送室は暖かいのに、外の景観はどこか遠くの世界に見えた。

 灰色の空を背に、細かい雪片がふわりと舞い落ちて、裸になった木々にかぶった。

 それが、デコレーションされているように見えた。

「私たち、友達、だよね?」

 彼女は緊張した面持ちで訊いた。

「うん」

 当然のように答える。

「約束?」

「うん」

 おかしな質問に、僕は少し笑いをこぼした。

「三学期は何の委員会やるの?」

 チエリはそう言ってすぐにスープを口元に添えた。

 きっと彼女は僕に放送委員会をやってほしいのだろう。

僕も気持ちは一緒で、チエリと二人で放送委員会をやりたい。

 だから僕は気持ちをそのまま言葉にした。

「俺も放送委員会やりたい。だって楽しいでしょ?」

「うん、楽しい」

 ちえりは嬉しそうに返事をした。

「ね、次も放送委員会やろ」

「うん」

「また、10で遊ぶ?」

「それは怒られるよ」

 二人で笑った。静かな放送室に、二人分の笑いだけが残った。

 恋愛感情とも違う、ただ二人で笑い合えるほんのりと優しい時間。この瞬間が一生続けばいいのに。

「今、全部流れてるぞ!」

 いきなりドアを乱暴に開いて先生が飛び込んできた。

 その瞬間、心臓がひとつ跳ねた気がした。

 急いでマイクを確認すると、赤いランプは確かに点いていた。ずっと。

 しかも今日は調子に乗ってマイクの音量を上げて放送したせいで、僕らの会話が聞こえやすくなっていた。

 チエリは立ち上がって驚きを隠せない様子だった。

 先生はすぐに音量をゼロに戻した。

 先生はしばらく、周りを見渡した後、

「次から気を付けるように」

そう言い残し、放送室を出た。

 ドアを閉める音がやけに大きく響いた。

床に置かれた小さなストーブがけたたましい音を鳴らしていた。

それ以外は沈黙。耳鳴りのような静けさが張り付いていた。

ちえりはずっと目を伏せたまま、指先で自分の袖をぎゅっと握っていた。

僕は何か言おうと息を吸ったけど、言葉が喉の奥でつかえて出てこない。

 時計を見ると放送しなければいけない時間になっていた。

 機材卓の前に立つとさっきの記憶が蘇り、背筋がこわばった。

 震える声でなんとかアナウンスし終え、僕は自分の給食を持って放送室を出た。

重い足取りで教室へ向かう。教室へ近づくと中のざわめきが聞こえる。冗談みたいに明るいその音がやけに遠く聞こえる。

覚悟を決めて、ガラッとドアを開けると、一瞬で空気が変わった。

「あれって放送事故だよね」

 マサルが吹き出しながら言うと、教室に乾いた笑い声が響いた。

 僕は口角を引きつった。手のひらがじっとりと汗ばんで、足元の床ばかり見つめている。

「おそろいじゃん、フーーーー」そう言ってかずとが指でハート型を作り、僕に突きつけるとさらに笑いは大きくなった。

 殺される。

 生き残らなければならない。

彼女に嘘をついてでも。

「いや、本当はあいつと放送委員なんてやりたくねーわ!」

 無意識に口走ると、教室に笑い声が響いた。

「チエリ、キモい?」

 マサルがニヤついた表情で訊いてきた。

「うん、キモい!」

 僕がそう言うと、さらに笑いが巻き起こった。それが気持ち良くて仕方なかった。僕は普段、人を笑かしたことなんて無い。だからこの瞬間、僕の脳みそにアドレナリンがドバドバと出ているのが分かる。

 そのとき、ドアが静かに開いた。チエリが入ってきた。一部の生徒は気づいていたが、マサル率いる男子のメンバーは気付かなかった。

「来年放送委員会なる?」

 まさるが訊くと、間髪入れず「入らない入らない」と答えると、さらに爆笑を生んだ。

「チエリと友達?」

「なわけないじゃん!」

僕が勢いよく言うと、さらに爆笑をかっさらった。

 この爆笑が残酷にも気持ちよくて、五時間目が始まっても、その余韻に浸っていた。

 僕の左前の席がチエリだ。

 机に座ったチエリの背中は、ひどく遠くに感じられて、その時初めて、自分が犯した罪を知り、罪悪感に駆られた。

 

 

 今の今まで、チエリのことなんて覚えていなかった。一緒の放送委員会だったことも、その後、チエリを裏切ったのも覚えていなかった。

 古びた便箋には『20歳のちえりへ』と幼く拙い字で書かれてある。

 その字には未来の自分への期待や希望がこもっているように見えた。それが余計に僕の胸の奥を握り潰した。

 チエリはもう20歳にはなれない。

中学二年生のとき、彼女は自殺をしたのだ。

彼女を自殺に追い込んだのはマサルが筆頭の男子グループでその中に僕もいた。

一緒になってチエリをイジメていた。

最初は抵抗があった。だが、チエリの悪口を言うにつれ、爆笑を生み、それが気持ちよくて、罪悪感が気持ち良さで上書きされていった。

イジメがエスカレートして、徐々に学校に来る回数が減るチエリを僕らは面白がった。

 それを思い出し、僕はどこまでも小心者で偽善者だと再確認した。自分が良い人になりたいからチエリに良い顔をするが、本当に彼女を助ける知恵も覚悟もない。都合が悪くなれば簡単に嘘をついて切り捨てる。

 そしてなにより、その事実を僕はずっと、覚えていなかったのだ。

 そんな自分が心底、嫌いだ。

 便箋を缶の中に入れて、それを土の中に戻した。

 タイムカプセルの隣にそっとトカゲを置いた。

 スコップで土をかける音が、冬の静けさを破った。

 ひとすくい。またひとすくい。

 冷たい土がゆっくりと重なり、それらの記憶が埋められていく。

風がひとしきり強く吹き、白い息が空に溶けていった。

僕は立ち上がった。

冬の冷たい逆風が僕を襲った。

家に帰りつくと、風呂の時間だったが、テレビ面白くて、母と少し揉めた。

 五分で風呂を済ませて、テレビに夢中になった。

 そうしていたら、すぐに夜ご飯の時間になった。

 今日はおでんのようだ。

 僕は鍋の中から餅巾着を取って、彼女を思い出した。

               【終わり】

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