怒髪衝天

 香取はなるほど、と思った。

 どうやら代々の(?)あんじゅ寿司ファンだというのはあながち嘘ではないらしい。

 コハダはつうの間では「寿司の真打ち」と呼ばれる程に、職人の腕前がそのまま現れるネタだ。

 コノシロを酢締めにしてシャリと合わせるのだが、締めの酢と塩加減でコハダは宝石にも生ゴミにもなると言われ、また味付けが酢と酢になるコンビネーション、つまり自らの店のシャリの酢飯と酢締めのネタとの相性をバランス良くピタリと合わせるには精緻せいちな味への理解と職人としての熟達を要する。

 代を受け継いだ自分へのこれはテストだと香取は受け取った。

 だが、香取には自信があった。

 今日のコハダは元のコノシロのあぶらも良く漬かりも最高で、お釈迦様に出しても恥ずかしくない出来栄えだ。


「コハダお待ちィ」


 香取は唇の端に笑みを作りながら二貫の寿司と山椒の小皿を出した。


「……なんだこれは?」


 男は静かに問うた。


「? ……ご注文のコハダでさ」


「それ以前の問題だ。これが大将の寿司か?」


 香取には意味がわからない。

 だが、男が強く憤っているのだけは分かった。香取が答えに窮していると、男は腰掛けを蹴って立ち上がった。


! 寿! ‼︎」


 男の声は叫びというには朗々としていたが、その音量の大きさは尋常ではなく、店内は勿論のこと恐らくは外まで響いて、正面の香取の顔面をバンバンと打ち、目に映るガラスというガラスをビリビリ激しく振動させ、賑やかだった店内を一転シーンと静まり返らせた。







「おい、おっさん」


 静寂を破ったのは、男の隣のIT社長だった。


「うるせえよ。黙って座って食え。店にも他の客にも迷惑だろうが」


 男はIT社長に視線すら送らず、憤怒の表情で香取を睨みつけたまま


「引っ込んでいろ」


と、言った。


「あァ?」

 IT社長は飴色のサングラスを外して立ち上がった。激痩せ女がそれを見て小さな声で「よしなよ」と言った。


「もう一回言って見ろよ」

「引っ込んでいろ。死にたくなければな」

「上等だ」


 茶髪のIT社長は男のスーツの襟首を掴み、力任せに自分側に向きを返させた。


「お客──」


 ──さん困ります!と言おうとした香取の目の前で

 かくんっ、どさ。

 IT社長が糸の切れた人形のように脱力して倒れた。香取は絶句した。 

「えっ! え、嘘! ヒロト? ヒロト?」

 激痩せ女は倒れたIT社長を揺り起こそうとした。その勢いで仰向けになったIT社長の顔は完全に血の気を失って白目を剥き呼吸の気配も全くない。

「え、なに? ありえない、なに? え、嘘」

 激痩せ女はありったけの語彙で驚きを表現した後、

「死んでる」

とはっきり宣言し、その自分の宣言に耐えられないかのように、耳をつんざくような甲高かんだかい悲鳴を上げた。


 スーツの男はその高音に嫌悪の様子を見せるとジロリ、と女を一瞥いちべつした。


かくんっ、どさ。


 女の悲鳴は鳴り止んだ。未来永劫。永遠に。


「おきゃっ!あっ! 死っ、……死っ………死?


 ……ああっ!!」


 何かに気づいた香取は、玉のような汗を大量に浮かべた顔でスーツの男に向き直った。


「思い出したかね?」


 男は着ているスーツの、左右の襟から前裾まえすそを、左右の手でなぞって居住まいを正した。


「私が、誰であったかを」


 照明が、ぶぶん、と明滅した。

 次に店内が明るくなった時、店内の全員が床に倒れ伏していた。

 ぴくりとも動かない。

 呼吸も、脈拍も、神経の活動する電位の揺動もない。

 店内の全員が、確かに死んでいた。

 カウンターを挟んで向かい合う、たった二人を残して。

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