ニャンコだってツライよ ! ~風来坊のトラと窓辺のお嬢さん ~

月影 流詩亜

第1話 風来坊、街に現る


 ​四角い空ってのも、見慣れちまえば悪くはねぇ。

 ビルの隙間から覗く空は、どこまでも続いているようでいて、やっぱりどこかで区切られている。

 まるで、あっしみたいな野良の人生そのものだ。


 ​あっしの名はトラ。 あっしの名前を知る人間は「フーテンのトラ」「風来坊のトラ」とか勝手なことを言っていやす。

 生まれ故郷なんざ、とっくの昔に忘れちまったが、気がつきゃアスファルトの上を歩いて喧嘩けんかに明け、喧嘩に暮れる毎日よ。

 春のうららかな陽気なんざ、あっしに言わせりゃ、ただの昼寝日和でがす。


 ​「シャアァァッ!」


「上等だ、コラァ! このドブ板横丁を誰の縄張りだと思ってやがる!」


 ​今日も今日とて、一仕事終えたところだった。 新顔の黒ぶち猫が、あっしの縄張りを嗅ぎまわっていたもんだから、ちいとばかし世間の厳しさを教えてやったまでよ。

 ボロボロの耳は男の勲章、なんて強がってはみるが、どうにもこうにも腹が減る。

 勝利の余韻なんてものは、腹の虫には勝てやしねぇ。


 ​「ふぅ…。男はつらいぜ」


 ​誰に言うでもなく呟いて、トタン屋根の上で大きく伸びをする。

 どこか、気前のいい人間が残り物でも出してねぇかな。 そんな淡い期待を胸に、あっしは鼻をクンクンと利かせながら馴染みの路地裏を後にした。


 ​風に乗って、ふわりと花の香りがする。

 春ってのは腹が減っていても、どこか心を浮かれさせるから厄介だ。

 塀から塀へと飛び移り、見慣れない住宅街へと足を踏み入れた、その時だった。


 ​( んっ?この匂いは……)


 ​ただの生ゴミじゃねぇ……もっとこう、香ばしくて、カリカリとした、極上の匂い。

 腹の虫が「行け!」と高らかに叫んでいやがる。

 匂いをたどって行き着いたのは、こぢんまりとしているが、手入れの行き届いた庭のある一軒家だった。

 表札には「吉野」とある。


 ​庭先の縁側に、小さな皿が置いてあった。中身は、あの極上の匂いの主だ。

 どうする、トラ? これは罠かもしれねぇ。

 だが、この腹の減りようには抗えねぇ。

 意を決して庭に忍び込み、皿に鼻を近づけた、その時だ。


 ​「あらあら、お客さん?」


 ​ガラス戸がスッと開き、優しい声が降ってきた。

 見上げると、エプロンをつけた人間の女の人が、にこにこと笑いながらあっしを見ている……こいつが、この家の主、吉野桜よしの さくらという人間だった。


 ​一瞬、ビクッと体がこわばる。

 だが、この女の人からは、あっしたちを追い払うような嫌な匂いはしなかった。

 それどころか、太陽のような暖かい匂いがする。


 ​「お腹が空いているのね。 どうぞ、たくさんお食べなさい」


 ​桜はそう言うと、カリカリを少し足して、また静かに戸を閉めた。


 ……どうやら、話のわかる人間らしい。

 警戒を半分だけ解いて、あっしは夢中でカリカリを頬張ほおばり始めた。

 一粒、また一粒と、香ばしいそれがのどを通っていく……ああ、うめぇ。

 生きているってのは、こういうことよ。


 ​ガツガツと皿に顔をうずめていた、その時だった。

 ​ふと、視線を感じた。


 喧嘩で鍛えた本能が、誰かが見ていると告げている。

 だが、殺気はねぇ……もっとこう、静かで、ただ純粋な好奇心のような視線だ。


 ​あっしは食べるのをやめ、ゆっくりと顔を上げた。

 視線の先は、さっきのガラス戸の向こう……​そこに、彼女はいた。


 ​陽だまりを一身に集めた窓辺に、ちょこんと座る一匹の三毛猫。

 絹のように滑らかな毛並みは、白と黒と茶が見事な塩梅で混じり合い、宝石のような緑色の瞳は、ただ真っ直ぐにあっしを見つめていた。

 土埃つちぼこりにまみれたあっしとは、住む世界が違う。

 箱に入れられ、大切に、大切に守られてきた極上のお嬢さんだ。


 ​世界から、音が消えた。


 ガサツなカラスの鳴き声も、遠くで響く車の音も、何もかもが聞こえなくなった。


 ただ、ガラス一枚を隔てた向こう側で、そのお嬢さんが小さく瞬きをする。それだけが、やけにゆっくりと見えた。


 ​あっしは、食いかけのカリカリも、縄張り争いの痛みも、何もかもを忘れて、ただ立ち尽くしていた。


 れたれたは、これまで何度か経験してきたつもりでがす。

 だが、こんなのは初めてだった。 まるで、脳天に雷でも落ちてきたような衝撃。


 ​ ……てやんでぇ。


 ​とんでもねぇお嬢さんが、いたもんだ。

 あっしとしたことが、迂闊だったぜ。


 ​ ── 風来坊のトラの、長い長い恋煩こいわずらいは、この春の昼下がりに、こうして静かに始まったのでございます ──


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