思い出のビーフシチュー

天継 理恵

思い出の味

 俺には、忘れられない味がある。

 それは小さい頃、貧乏だったウチで、一度だけ出てきたビーフシチューの味だ。


 当時ウチのご飯はおかずがいつも少なくて、出される肉や魚は、成長期になったばかりの俺には物足りない量だった。

 ちょうど反抗期でもあったから、俺はその時、母さんに文句ばかり言っていた。


「なんでこれしかないんだよ」

「いっつも手抜きじゃん。もっと手の込んだのとか豪華なの作れないの?」


 今思うと、酷い態度だったと思う。

 でも母さんは、ブーブー言い続ける俺を叱るでもなく、毎日仕事から帰っては俺にご飯を作り続けていた。

 

 そんなある日だった。

 ウチの晩ごはんに、初めてビーフシチューが出てきたのは。


 俺は食卓で湯気を立てる皿を見て、思わず「どうしたの、これ」って聞いた。

 目を丸くする俺に、母さんは言った。


「いつも誠には我慢させてたから、たまには奮発してみたのよ」


 父さんが家に帰らなくなってから、仕事を増やしていたせいだろう。よく見れば母さんは痩せこけていて、酷く疲れた顔をしていた。

 俺は、そんな母さんに文句を言い続けていたことを、内心反省した。


「ほら、早く食べなさい。冷めちゃうわよ」


 くたびれた顔で、でも笑って。

 勧めてくる母さんに、俺はスプーンを手に取った。

 

 そして、一口食べて、俺はその味に驚いた。


 ハーブやスパイスが香る、深い褐色のデミグラスソース。

 そこにはニンジンやジャガイモ、タマネギなんかのたっぷりな野菜と、大きな肉がゴロゴロ入っていた。トロトロになるまで煮込まれていた具は、口に入れたら、舌で軽く崩れるほどの柔らかさだった。


 いつもはちくわと卵を炒めただけのやつとか、ちっちゃいウインナーが少しだけ入った野菜のポトフとか、地味で質素なものばかりだった。

 だから、こんなに美味しいものがこの世にあるのかって、俺は本気で感動していた。


「母さん!これめっちゃ美味いよ!」


 毎日文句ばかりだった俺が、その日は珍しく、手放しで母さんの料理を褒めた。

 夢中になって食べる俺を、母さんは複雑そうな笑顔で見ていた。

 ——たぶん、どれだけ俺に我慢させていたのかっていうのを、感じてしまったからだろう。


「……そんなに美味しいの?」

「うん!すっごい美味い!おかわりある!?」

「あるわよ。好きなだけ食べな」


 母さんは、何回もおかわりする俺をずっと見ていた。俺があまりにも食べるもんだから、最後には、自分のためによそった皿まで差し出してくれた。


 俺は、腹がちぎれるほど食べまくった。

 結局一口も食べなかった母さんは、それでも俺が満足そうにしている顔を見て、安心したように笑っていた。



 ——それが、俺の思い出の味だ。



 その後、ビーフシチューは一度も出てこないまま、母さんは過労で倒れてしまって……今はもう、この世にいない。



 二度と食べられなくなった味は、俺にとって、何よりの母さんの思い出でもあった。

 


 俺は、母さんの味が忘れられなくて、大人になってからいろんなお店でビーフシチューを食べるようになった。

 だけど、あの日の母さんの味に勝てるものはなかった。

 どこで食べても、まるで味が違う。似ている味すら見つからない。


 もしかしたら、思い出を美化しすぎているのかもしれない。

 そう思い始めた時だった。



 ——母さんの味によく似た、ビーフシチューを出す洋食屋に出会ったのは。



「いらっしゃいませ。お一人様ですか?よければカウンターにどうぞ」

 

 その日、年季の入った店舗のレトロな木製扉を開けると、三十代くらいの女の人が俺を迎えてくれた。

 一人でお店をやっているのだろうか。他に店員らしき人はいない。そう広くない店内に客は俺しかいなくて、流行っていないのが一目でわかった。


 ——ハズレを引いたかもしれない。

 そう思ってカウンターに座ると、すぐにお冷を差し出されて、やっぱやめますとも言えない雰囲気になった。

 俺は仕方なく、メニューに目を通そうとした。

 けれど待っても、メニューを手渡されることはなかった。


「すいません、あの、メニューは?」

「ごめんなさい。あいにく今日は、ビーフシチューしかご用意がなくて……」


 ……やる気のなさを感じて、俺はやっぱり入るのをやめておけばよかったと後悔した。

 とはいえ、もともと俺のお目当てはビーフシチューだ。

 他のメニューがなくても、正直問題はない。


「……じゃあ、ビーフシチューをひとつください」


 頼んだら、女の店主さんは待っていたかのように「はい」、と笑顔で答えた。


 カウンター越しに見える使い古されたキッチンは、決して大きくない。

 使い込まれたシンクが、業務用の大きな冷蔵庫が、火力の強そうなガステーブルが、所狭しと並んでいる。

 そんな窮屈そうなキッチンで、店主さんはキビキビと動き回っていた。見ればまな板の上は仕込みをした名残があって、野菜の皮やら、肉の切れ端が、シンクの隅に残っている。


 換気扇が低い唸りを上げて、グルグルと回っていた。

 その下には、大きな寸胴鍋がひとつ、弱い火にかけられている。


 コトコトと鍋ブタを揺らし、立ち上らせた湯気が、ちょっと酸味のある香ばしい匂いを漂わせていて——



 その匂いに、俺は、懐かしい記憶を刺激された。



 ——似てるかもしれない。

 あの日の、母さんのビーフシチューの匂いに。



 俺の胸が、期待に高鳴った。

 店主さんは大きなスープ皿を手にすると、長いお玉でシチューをよそいはじめた。

 掬われ、スープ皿に広がる深い褐色のデミグラスソース。皿の上には大きな野菜と肉がゴロゴロと転がって、あつあつの湯気を立てている。


 なんだか、見た目も似ているかもしれない。


 一度似ているかもと思ってしまえば、もう全部がそれらしく見えてくる。

 俺はもうシチューから目が離せなくなってて、早く食べたい、味を知りたいって、そればっかりを考えていた。


「はい、どうぞ。熱いから、気をつけて食べてね」


 優しい声に、ふと、母さんの顔が浮かんだ。

 店主さんとは似ても似つかない顔なのに、一瞬、面影が重なった気がした。

 目の前に皿を出されたのに、俺は思わず、じっと店主さんを見つめていた。そんな俺に、店主さんはちょっと困ったように眉を下げた。


「どうぞ、冷めないうちに召し上がってください」


 その言葉も——いつかの、母さんみたいだ。


 俺は胸を震わせながらも、「いただきます」とスプーンを手に取った。

 なんだか変に緊張する。

 食べてみて、記憶と違ったらどうしよう。

 ……俺はグルグルと考えながら、恐る恐るシチューを掬ったスプーンを口に入れた。


 一口食べて、驚いた。


 ——これ、母さんのビーフシチューだ。


 そう直感した俺は、記憶を手繰り寄せるように、もう一度シチューを口に運んだ。


 よく煮込まれた、デミグラスの深いコク。

 大きな野菜と肉が舌にとろける感覚。

 ——ハーブやスパイスが入った、他のビーフシチューとは違う、独特の味わい。


 そのどれもが母さんの味と重なって、俺はスプーンを手にしたまま、呆然と固まってしまった。


 シチューの熱さが、喉を通る。

 それがじわじわと胸に広がって——目の奥から、涙を溢れさせる。


「……どうしたんですか?何か、味がおかしかったですか?」


 いきなり涙を流した俺に、店主さんがオロオロと声をかけてきた。料理の味が気に障ったと勘違いしたのか、不安げに俺の顔を見ては狼狽えている。


「いえ、違うんです。その……あまりに、美味しくて」


 涙を拭って伝えれば、店主さんの不安は、驚きに解けていった。

 俺は、詰まる思いを打ち明ける。


「この味……昔、母さんが作ってくれた味とそっくりなんです。俺にとって、ずっと忘れられない思い出の味で……だから思わず、涙が出てきてしまって」


 くしゃりと笑えば、店主さんが小さな息をつく。


「……そうだったんですか。てっきり、美味しくなかったのかと思いました」


 苦笑いをして、店主さんは大げさに胸を撫で下ろす。

 ほっと緩んだ空気に、俺はつい語りを続けてしまう。


「美味しくないなんてとんでもない。俺、ずっとこの味を探していたんです。人生で一番美味しいと思った、母さんの味だから……」


 少し沈んだ俺の声に、店主さんが眉を曇らせる。

 

「……あの、もしかして……お母様は……」


 呟いて、すぐに口を噤んで。気まずそうな顔をした店主さんに、俺は弱い笑顔で答えてみせる。


「……はい。母はもう、この世にはいません。女手ひとつで、俺を育てるために無理をして働いて——心と身体を壊してしまいました」


 俺が高校生を卒業する直前だった。

 卒業したらすぐに働いて、母さんに楽をさせてあげよう——そう思った、矢先のことだった。


「……ウチ、父さんが家にほとんど帰ってこなかったんです。俺はまだちっちゃかったから、どういう理由なのかよく分かってなかったんですけど……貧乏だったから、たぶん、お金を外で使ってたんでしょうね」


 ひとりポツポツと語る俺を、店主さんの深い瞳が見つめる。


「それでもちょこちょこ家には居たんですけど……ある日を境に、父さんが帰ってこなくなって。母さんはすでに増やしてた仕事をもっと増やして、なんとか俺と母さんだけで生活してたんです」

「それは……大変なご苦労だったでしょうね」


 しみじみとした声に、俺は小さく苦笑いして頷く。


「俺はその時子どもだったんで、文句ばかり言ってましたけどね。でも、大人になった今なら……母さんがどれだけ大変だったのか、わかる気がして」


 大人になって、働く大変さを知った。

 ひとりで生きていくだけでも精一杯なのに、子どもを抱えて暮らしていくっていうのは、どれだけしんどいことだったんだろう。


「……今になって思うんです。母さんがあの日ビーフシチューを作ってくれたことって、本当はすごく、大変なことだったんじゃないかって。だからなおさら、この味に会いたかったのかもしれないです」


 そう言って、俺はスプーンをまた口に運んだ。シチューは少し冷めかけていて、香りの印象が違う。それでも、やっぱり美味しいことに変わりはない。


「……実は私も、夫を亡くしたばかりで」


 ふと、店主さんがつぶやいた。

 その重悲しい声に、俺はシチューを味わいながら、黙って耳を傾ける。


「このお店は、夫の店だったんです。ホテルの料理長をやってたのに、もっとお客さんと向き合えるお店でやりたいって言い出して——このお店を開いたんです」


 店主さんが、シンクに視線を落とす。戻らない思い出を噛み締めるように、コーナーをじっと見つめ、ぽつりと言葉を続ける。

 

「……夫が亡くなって、店を閉めようかとも思ったんですけど……このお店は彼の夢だし、私の夢でもあったので。お店を守っていきたいなって、そう思ったんです」


 店主さんが顔を上げる。

 その顔には、疲労と心労が陰を残している。


「とはいえ、夫のような料理の腕はないので、自信を持ってお出し出来るのはまだ、ビーフシチューしかないんですけどね」


 ——自嘲するように言って、でも、たしかに微笑んで。


「それでも今日、あなたが食べてくれて——美味しいって言ってくれて、本当に嬉しかった」

 

 俺に、感謝の言葉をくれる。


「……感謝したいのは、この味に再会できた俺の方です。店主さんがお店を続けようと思ってくれたから、俺は母さんの味と思い出にもう一度出会えた。本当に……ありがとうございます」



 俺たちを結び合わせたのは、運命の神様なんだろうか。


 そんな奇跡さえ信じたくなるほどに、俺たちの思い出は、どこか通い合っていた。


 俺はあの日のように、何度もおかわりしては、美味い美味いと言い続けた。

 店主さんは嬉しそうによそい続けてくれて、挙げ句の果てに、「お会計は一杯分の料金でいいですよ」なんて言ってくれた。

 俺はその心遣いを断ろうとしたけど——「またすぐ来ます」と約束して、それをお代のかわりにした。


 互いに晴れやかな顔で別れ、お店を後にする。

 俺は店を出てすぐに、秋めいた冷たい夜空を見上げた。


 満月が眩しかった。

 街と月の明かりに負けて、星の姿は見えない。

 それでも、星はそこにあり続ける。



 ——胸の中に輝き続ける、大切な思い出のように。



 俺は足取りを軽くして、住み慣れたボロアパートの部屋に帰って行った。


 ——明日は休みだし、またお店に行って、ビーフシチューを食べようかな。


 そんな幸せな計画を立てながら、帰宅したアパートの部屋の明かりとテレビをつけた。

 くたびれたソファに腰を下ろし、テレビを眺めると、バラエティ番組からは明るい笑い声が響いていた。

 俺はそれを何気なく眺めてたけど——しばらくして、うとうととした眠気に襲われてしまった。


 きっと、腹いっぱい食べたビーフシチューのせいだ。


 でも、思い出の味に満たされて眠るのは——すごく幸せかもしれない。


 俺はそのまま、ソファでうたた寝をすることにした。


 眠りにつく直前、深い微睡みの中で、バラエティ番組が終わったテレビが、ニュース番組に変わった気がして——



 そこで、俺の意識は途切れた。



 ——また明日。

 あの味に、会えますように。



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 『続いて、速報です。先ほど殺人の容疑で、◯◯町の洋食屋を営む女性店主、桂木尚子容疑者三十三歳が緊急逮捕されました』



 『桂木容疑者は、夫である桂木正孝さん四十二歳を殺害した後、遺体をバラバラに切断し、店内の冷蔵庫に隠していた模様です』



 『遺体は損壊が激しく、一部が欠損しているほか、店内で押収された包丁から血液反応が検出されたことから、警察は一部を何らかの形で処分した可能性も視野に入れて捜査を進めています』



 『繰り返します。先ほど殺人の容疑で、◯◯町の洋食屋を営む——』


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